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270.兄への罪悪感

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 それ以上の追求を避けるようにして、美羽は視線を下に向けた。

 ぇ。

 血の気が、一気に引いていく。

「隼斗兄さん、その手……」

 隼斗の右手に包帯が巻かれており、そこから血が滲んでいた。隼斗は素早く右手を背中に回した。

「大したことない」
「そんなわけないでしょう! ぁ、あの時……私に花瓶が当たるのを避けようとして、隼斗兄さん……
 ごめ、ごめんなさいっっ!!」

 美羽は唇を戦慄かせた。料理人にとって、手は命だ。少しでも傷つけば、繊細な動きがそこなわれてしまう。いつもの実力が、発揮できない。

「すぐに治る」
「そ、んな……」

 隼斗の手に何かあれば、それは店全体の問題にもなる。美羽のせいで、隼斗だけでなく、そこで働く従業員にも、食事を楽しみにしている客にも迷惑をかけてしまう。

 そこで、美羽はハタと気付いた。



 どうして隼斗兄さんが、ここにいるの!?



 普通なら、今頃隼斗は『Lieu de detente 』で働いているはずだ。だから、美羽の卒業式に隼斗は出席していないし、早朝から出ていたため袴姿すら見ていない。

「隼斗兄さん、仕事はどうしたの? どうして家に帰ってきたの!?」

 そこまで言ってから、息を呑んだ。

 私が、隼斗兄さんに電話したから……だから、心配になってわざわざ様子を見にきてくれたってことなの?

 言葉を失った美羽を、隼斗が柔らかい眼差しで包み込む。

「帰ってきて良かった。
 もしここにいなければ、俺は後悔するところだった」

 美羽の悔恨の念が、荒波のごとく押し寄せてくる。

「はや、と……兄さん、ごめんなさい。ほん、とに……ごめんなさい」

 何度謝っても許されない。私の勝手な行動で、隼斗兄さんにも店のみんなにも、お客様にも迷惑をかけてしまった。
 それどころか、隼斗兄さんに怪我までさせてしまった。

 私が、類を追いかけようとしたばかりに。隼斗兄さんに、気持ちを残したばかりに……

 深い罪悪感に打ち拉がれる。

 隼斗が怪我をしていない左手で、美羽の頭を軽く撫でた。

「大丈夫だ。店のことは恵麻に任せてるし、浩平もいる」
「で、でも……」

 それでも気持ちが収まらず、謝罪を続けようとする美羽に、隼斗が歯を見せた。

「申し訳ないと思うなら……早く結婚して、俺を安心させてくれ」
「ッッ隼斗、兄さ……」

 美羽の眉が、震える。

 分かっている。そこに、美羽への嫌悪など含まれていないことは。
 兄として妹を心配する、愛情ゆえの発言であることも。 

 だからこそ、苦しくなる。どうしようもない罪悪感に、責め立てられる。
 隼斗は、美羽が義昭を愛しているのだと、微塵の疑いもなく信じているのだ。
 茶化すような隼斗の眼差しが、真剣味を帯びていく。

「せっかく美羽は、いい人に出会えたんだ。朝野さんと結婚して、心から笑うお前が見たい。
 結婚すれば、もうお前は母親の支配に苦しまなくてもいい。朝野さんが、必ずお前を幸せにしてくれる。俺の代わりに、お前を守ってくれる。
 これから、明るい未来が待ってるんだ。

 俺は、そんなお前をずっと見守ってるから。結婚しても、美羽は俺の大切な妹に変わりはない」

 真摯に訴える隼斗の言葉は、美羽の胸の奥深くにズブリと突き刺さった。

 隼斗兄さんは、私の結婚を望んでいる。私が、幸せになることを心から祈ってくれている。
 そんな隼斗兄さんに、私が好きな人はほんとは別にいて、それが双子の弟で、義昭さんのことを利用してただなんて、言えない。類を追いかけるために、全てを捨ててアメリカに行こうとしてただなんて……

 言えない、よ。

 開きかけた真実の箱をパタンと閉じて、鍵を掛けた。

「うん……ありが、とう」

 美羽は眉を下げ、口角を引き上げた。
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