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268.母の怒り

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「ぁ。あの……」
「どこへ行くつもりだったのよ!!」

 華江がハイヒールのまま美羽の元へと肩をいからせて迫り、髪の毛を鷲掴みにした。

「言いなさいよ! 類のところへ行こうとしてたんでしょ!! わかってんのよ、あんたの考えることなんてっっ!!」
「ッッ……ぃた……おか、さ……痛っっ!!」

 頭皮が変形するほどに強く髪の毛を引っ張りながら、華江が美羽をリビングへと引き摺る。美羽の手から、ボトンとボストンバッグが落ちた。

 ガタンッ!!

 華江に髪の毛を思い切り振り回され、美羽はチェストに倒れこんで強く打ち付けられた。頭がヒリヒリし、チェストにぶつけられた腕はジンジンと骨にまで沁みて痛い。けれど、そんな痛みに構う暇なく、華江が美羽のお腹に足で蹴りを入れた。

「ッッグ!!」
「行かせないっ! 行かせないわよっ! あんな悪魔のとこになんか、絶対に行かせるもんですかっっ!!」

 尖ったハイヒールの爪先がドスッ、ドスッという鈍い音を体内に響かせる。それから、細く長いヒールがメリメリと美羽の背骨に食い込んできた。

 美羽は自分の躰を庇うようにして蹲り、丸まった。そんな美羽に、容赦のない蹴りが続く。

「せっかく黙ってあの冴えない男と結婚させてやろうと思ってたのに、なんなの!? ねぇ、私のことなんだと思ってんの!? また私の幸せをぶち壊す気なの!! あんたはぁぁぁぁっっ!!」

 美羽は低い呻き声を上げた。今までにされた母親からの折檻の記憶がどんどん蘇ってくる。

 また、お風呂場に連れていかれて沈められるのかな。棒で、殴るつもりかも。
 私……お母さんに、殺されるかもしれない。

 自ら命を絶とうとしていた時とは異なる、死の恐怖が胸に広がっていく。

 い、いや……やめ、やめて……お母さん。
 お願い、やめて!!
 
 華江の甲高い声が、耳の奥を貫く。

「あんたなんか、産むんじゃなかったわっっ!!」

 誰よりも、何よりも一番に子供を愛してくれる存在であるはずの母親からの言葉に、美羽の鼻の奥がツーンと、きつく痛んだ。だが、涙は出てこなかった。熱くなった喉の塊からは、声も出ない。

 ただひたすら、心の中で謝り続ける。



 ごめんなさい。ごめんなさい、お母さん……
 弟の、類を愛してしまって。
 生まれてきて、ごめんなさい。



 蹴り続けて足が痛くなったのか、華江は蹴るのをやめると、今度はそこら中にあるものを美羽に投げつけてきた。ペン、ペンたて、本、リモコン、受話器……その間も、華江は美羽は罵倒し続けた。

 美羽は躰を更に小さくし、嵐が過ぎ去るのを待ち、耐えた。脳髄が痺れてきて、痛みの感覚が麻痺してくる。

「●△#$%……!!」

 華江が何か叫んだが、美羽には恐ろしい悪魔の絶叫にしか聞こえなかった。

 これは、お母さんを裏切ろうとした罰。
 私は、罪の子。

 類に会いに行くなど、赦されない。赦されるはずなど、なかったんだ……
 
 華江は花瓶を両手に持って振り上げると、美羽の頭に向かって投げつけた。だが、躰を縮こませている美羽にそれが分かるはずなどない。

 バリーン!!

 花瓶が割れるつんざくような音に全身を震わせ、落ちてくる破片に身を捩った。

 花瓶は、美羽の頭に当たる直前に粉々に砕け散った。

 その瞬間、華江の鼻を突くような強烈な香水とは違う、別の匂いに包まれた。爽やかな、夏にふと感じる涼風の清々しい匂い。



「何してんだ」



 目の前に立ち、華江の動きを遮った。大きな影が、包み込むように伸びてくる。力強く守ってくれる、美羽の絶対的な味方。

 隼斗兄さん……

 心の中で呟くと、胸にジワリと温かい感情が広がっていく。

「美羽に、何してんだって言ってんだ!!」

 聞いたこともないほどに、恐ろしい声だった。隼斗の煮え滾る怒りが、そこに込められていた。

「こ、この子が悪いのよ。私に、逆らうから……」

 媚びるような声使い。明らかに、華江は怯えていた。そんな母の様子に、美羽は申し訳ない気持ちになる。

 私が、悪いの。私が、お母さんに逆らったから……私の、せい。

「美羽、大丈夫か?」

 隼斗が美羽の躰に散らばった花瓶の破片を慎重に落とし、抱き上げた。隼斗の腕に抱かれた美羽の全身から、力が抜けていく。

 隼斗兄さん、ごめんなさい……

 脱力しきった美羽は、意識を手放した。
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