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266.死ぬ前に、やるべきこと

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 心臓がドクッ、ドクッと脈打つのが、大きく、強く伝わってくる。手首の動脈がぷっくりと腫れ上がり、生き物かのように蠢いて見える。脳髄がジンジンと痺れ、瞼の奥が熱くなる。ジリジリと焼け尽きながら、躰が痺れてくる。
 呼吸が苦しくなり、目眩がしてきた。

「ハァッ、ハァッ……ック」

 勇気を振り絞って刃を持つ手に力を入れようとするものの、震えが止まらない。

 その時、刃先が皮膚を突き、チクリと鋭く短い痛みが走った。美羽は、ブルリと躰を震わせた。

 もっと、深く刃を入れたら……

 鮮血が飛び散るのだろうか。そう考えただけで、背筋が凍りついてくる。今まで対面したことのない『死』という恐怖が、美羽にひたひたと迫ってくる。

 そうなりながらも、一方でどこか冷静な自分もいた。

 ううん……手首じゃ、簡単に死ねない。それに、見ながら切るのは怖いし、勇気がいる。
 死にたいなら、首の頚動脈を切る方が視界に入らないし、より確実なはず。

 そう思い直し、カッターナイフを持つ手をゆっくりと持ち上げ、頸《うなじ》へと移動させる。ピタと押し当てられた刃の形が首に伝わり、ゾワゾワと虫が這い上がってくるような感触が縦に抜ける。喉が上下し、それだけで震えた手が首元を掻き切ってしまいそうだ。

 脂汗が額からジワリと浮き出る。美羽の睫毛が影を落とし、瞳が硬く閉じられる。

 類!!
 私も、今そこにいくから……

 カッターナイフを持つ手に力が入る。

 その時、

『ミュー……』

 そう呼ばれた気がして、美羽の手の動きがピタッと止まった。

 類の、声。

 心の中で呟いてから、唇を噛み締める。

 ううん、これは私の記憶の中にある、類の声だ。
 私の心に呼びかけてくる類の声とは、違う……

 もう類は、私に呼びかけてくることはない。
 一生、ないんだ。

 そう悟った途端、熱く激しい感情が堰を切って溢れてきた。



 類に……会いたい!!
 会って、触れたい。
 触れて、抱きしめたい。
 抱きしめて、確かめたい。

 類の、温もりを……



 手から力が抜け、カッターナイフがするりと絨毯の上に落ちる。ガックリと膝を落とした美羽は、嗚咽を漏らした。

「ウッ、ウゥッ……るぃぃぃ。類! 類! ウッ、ウグッ……会い……た……ヒグッッ会いっ、たい……よぉ……ウッ、ウッ」

 ほんとに、ほんとに……死んでしまったの!?
 もう、抱きしめることも、触れることも、その姿を見ることも……叶わないの!? 

「ウッ……ヴッ、ッグ……ヒッ、ッッ」

 涙で滲んだ視界に、先ほどまで頸に当てられていたカッターナイフが転がっているのが映った。


 暫くそれを見つめた後、夢から醒めたかのように短い瞬きを繰り返す。落ち窪んでいた瞳孔が、次第に大きくなっていく。



 私は、何てことを……



 自分のしようとしていた愚行に気づき、美羽は愕然とした。

 類が死んだから、自分も死ぬ、だなんて。
 彼が死んだという確証など、どこにもないのに。

 いつも、いつも私は、待ってるだけ。
 類が迎えに来ることを期待して、受け身のまま。
 踏み出す勇気が、なかった……

 類が来なかったら絶望して、最悪の結末を想像して、自らの命とともに諦めようとしていた。現実を直視することから、逃げていた。
 なんて、バカなの。

 俯いていた顔を、美羽はゆっくりと起こしていく。

ーーもし死のうと思うのなら。死ぬ勇気があるのなら。
  死ぬ前に、やるべきことがあるはず。
  
 美羽の瞳に、光が宿る。
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