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197.タクシーの席

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 美羽は誰もいなくなった玄関に吐息を漏らし、キッチンへと戻って行った。義昭が読んでいた新聞を閉じてテーブルの上に置き、食べ終わった食器をシンクへと運ぶ。

「義昭さん、ありがとう。後は私がやっておくから」
「そうか? 済まないな」

 義昭は手伝いたそうな素振りを見せながらも、背を向けた美羽に声を掛けることなく、再びダイニングテーブルにつき、新聞を広げた。だが、そわそわと落ち着きなくこちらを見ている。

 その視線を感じ、美羽の背筋に悪寒が走る。

 一時的でしかないと思っていた義昭の美羽への気遣いは、未だに続いている。

 そしてあの夜ーー義昭が扉をノックした夜以来、合図・・も続いていた。美羽はその度に震えながら、無視して布団を被ってやり過ごしている。

 義昭が正月休みに入り、美羽と共に行動するということは、夜寝るタイミングも同じになるということだ。今までのように部屋に閉じ籠り、寝たふりをすることは出来ない。

 今日の義昭の態度は、いつも以上に落ち着きがないように感じる。義昭が美羽を窺うように、新聞を広げたまま声を掛けた。

「類、朝から元気だったな」
「うん……」

 今までふたりきりでずっと暮らしていたはずなのに、急に灯りが消えたように感じる。もう類がいないことを、寂しく思ってしまっていた。

「その片付けが終わったら、僕たちも行こうか」
「そう、だね」
「じゃ、母さんに連絡しておくよ」

 義昭が席を立ち、リビングの電話へと向かう。

 実家に泊まった時に義昭さんから求められたことなんてなかったから……大丈夫、だよね?

 わざとゆっくりと食器を洗いながらも、これが意味のない行動だとは分かっている。逃げ出したくなる気持ちを抱えながら、類は今頃どうしているのだろうと美羽は想いを馳せた。

 義昭は車も免許も持っていないため、大きなボストンバッグを持って駅まで行き、そこから帰省ラッシュで混み合う公共交通機関を使って実家の最寄駅まで行き、またそこから20分歩くことになる。正月の帰省ぐらいタクシーで帰りたいと思うが、無駄なお金を使うことを嫌う義昭は、今まで実家に帰るのにタクシーを使ったことがない。だからといって自分が支払うからとタクシーを呼べば、今までの義昭であれば美羽が主導権を握ることを快く思わなかった。

 いったん玄関まで荷物を運んでから二階へと再び上がり、電気の消し忘れや火の元などの確認をして戻ると、義昭が母親に向けるのとは違う口調で受話器に向かって話していた。

「はい、お願いします」
 電話を切った義昭を見つめていると、こちらを見返した。

「タクシー呼んだから、あと10分ぐらいで着くって」
「あ……そう」

 類がここにいるならまだしも、ふたりだけの状況で夫がタクシーを呼んだことに驚きを隠せない。満員電車に乗らずに済んでホッとしたものの、今度は長時間、夫と肩を並べて密室で過ごさなければいけないのだということに嫌悪が走った。

 外から車が軽くクラクションを鳴らす音が響いた。

「じゃ、行こうか」

 義昭は自分の荷物だけでなく、美羽のボストンバッグにまで手を掛ける。

「え、いいよ」
「大丈夫だから。鍵閉め、頼む」
「うん……」

 扉を閉め、鍵を施錠する。もし叶うのなら、家にひとりきりで過ごしたかった。

 美羽がタクシーの目の前まで着いた時には運転手がトランクを開けて荷物を入れ、義昭は後部座席に座ったところだった。

 私も後部座席に座るべきだよね……

 そう思いながらも、どうしても気が向かず、美羽は助手席の扉を開けていた。

 運転席の扉を開けた運転手が助手席に座っている美羽に気づき、一瞬目を丸くした。

 2人で座る場合、助手席が下座となるため、上司と部下の間柄であれば上司が後部座席、部下が助手席に乗るのが普通だが、夫婦やカップルで後部座席と助手席に分かれて座ることはあまりない。あるとすれば、道に詳しい男性客が運転手に指示するため、助手席に座る場合だろう。

 だが、すぐに何事もなかったかのように運転席に座った。

「よろしくお願いします」

 軽く頭を下げた美羽に、運転手も頷くとハンドルを握った。予約の時点で義昭が住所を伝えていたため、もう既にカーナビが設定されていた。

 美羽は不安に思いながらもバックミラー越しにチラッと義昭の表情を窺ったが、特に不機嫌な様子は見られなかった。

 良かった。
 これで、暫くは離れていられる。

 出会ったばかりの運転手と距離が近い方が気持ちが落ち着くなんて普通じゃないし、過剰反応だと自分でも分かっているが、心も体も拒否反応を示して受け入れられなかった。

 類がハイヤーを手配したあの日、美羽は高くつくからと類を説得し、次の日からは帰りはタクシーになった。ゆったりとしたハイヤーに比べてタクシーは狭く、ふたりの距離が縮まる。

 類にはどんなに口で拒否していても、心と躰が求めてしまう。ふたりがいる空間を心地よく感じてしまい、寄り添いたくなる。彼の声が、匂いが、体温が、恋しくなる。
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