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176.流れていかない欲望

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 朝、目覚めた美羽はホッと息を吐いた。夜になったらいつものように類との『秘事』が始まるのではないかと恐れていたが、何事もなく朝を迎えた。

 これで……これで、いいんだ。

 少しの寂しさを押し退け、美羽はアラームを消した。今日はいつもより少し早めにカフェに行き、今後のことについてミーティングすることになっている。

 そこに、類もいるんだ……

 類がカフェの正式なメンバーとなり、これからずっと働くことになれば、どうなるのだろう。ふたりの関係が隼斗や香織、浩平、萌だけでなく、客にまで知られたら……そんな不安がどんどん心の中に広がっていく。

 昨日用意しておいた着替えを手に取り、鬱々と浴室の扉を開けた。



「キャッ!!
 ……ご、ごめんっっ」



 途端に、扉を勢いよく閉める。中には、シャワーを浴びたばかりの類が全裸で立っていた。

 考え事してて、全然シャワーの音、聞こえてなかった……

 扉が開き、バスタオルを下に巻いただけの類が出てきた。

「はい、ミュー。浴びていいよ♪」
「あり、がとう……」

 目のやり場に困って俯きながら、素早く類とすれ違い、扉に滑り込むようにして入る。

 パタンと音を立てて閉めた美羽の顔は、真っ赤だった。

 ふたりが家族として暮らしていた頃、類はバスタオルすら巻かずにお風呂から出てきて、よく両親に怒られていた。恋人同士だったあの頃ですら、美羽はチラッと見える類の裸にドキドキしたものだった。

 類の裸、久しぶりに見た。まだ、心臓がバクバクしてる……

 美羽は瞼に焼き付いて離れない残像を振り払うように、服を脱いで洗濯籠へと入れた。浴室の扉を開けるとフワッと湿気に包まれる。

 類の、残り香が……

 そう感じて、先ほどの類の裸をどうしても思い出してしまう。

 高校の時より、痩せてた。まるで陶器のような透明感のある白い肌は、妖艶さが漂っていた。

 あの時は裸を見てしまったことで狼狽してすぐに視線を逸らしてしまったが、確かに類の美しい胸元には無数の傷跡があった。

 痛々しいと思うのに、同時に欲情してしまうのはどうしてなのだろう。

 華奢な類を抱き締めて、包み込んであげたい。
 唇で傷に触れて、親猫が子猫の傷を癒すように舐めてあげたいという思いが、フツフツと胸の奥から湧き上がってくる。
 
 そんな資格、私にはないのに……

 自ら類を拒否し、逃げ出した。
 追いかけてきた類に、弟として振る舞うように頼んだはず……

 美羽は栓を捻り、纏わりつく煩悩を落とすように首を振ると、頭からシャワーを浴びた。
 この欲望は、流し切らないと。
 いつも通り、『姉』の顔を演じるの。たとえそれが、演技フェイクだと類に分かっていても。

 私たちが恋人だったことは、決して誰にも知られてはいけない。

 シャワーから熱いお湯が滝のように勢いよく美羽の頬に、唇に、首筋に、胸元に当たり、弾き飛んでいく。

 けれど、その奥に残された類の唇の熱や匂いは一層強く香ってくる。情熱的に貪るような口づけが、甘く絡みつくような匂いが、触れられるだけでビリビリと衝撃が走る指先が次々に思い出されて、細胞を震わせる。

『僕はミューがいないとダメなんだ。
 もう僕を、ひとりにしないで』

 まるで捨て猫のように、寂しい瞳をした類の声が、まだ鼓膜に響き続けている。

 流れて、いかない。
 欲望が、類への熱が、何をしても消せない……

 ックどうして、貴方は……私に愛することを諦めさせてくれないの。
 
 美羽は嗚咽を漏らし、壁に手をついた。

 いけない。早く、準備しなきゃ。

 シャワーを浴び終えた美羽は手早くドライヤーで髪を乾かし、後ろにひとつで纏めた。手順通りにメイクをほどこしていき、最後に立ち上がると姿見でチェックする。

 バブーシュに足を通し、いつもよりも少し小刻みなリズムで階段を軽やかに下りると、キッチンには既に義昭が座って新聞を広げていた。既にグリーグの『朝』が流れている。

「おはよう、義昭さん。ごめんなさい、直ぐに朝食の支度を……」
「いや、急がなくていい。僕が早く起きたんだから」

 義昭は昨日見せた同じ優しさで美羽に接した。引き攣った笑顔で返すと、美羽はフライパン2つと水を入れた鍋をコンロにセットすると、トースターにパンを入れた。

「おっはよー」

 美羽と同じ白シャツに黒パンツ姿の類が現れた。ただでさえ同じ見た目なのに、服装まで同じというのは違和感があるものだ。今は冬でこの上にコートやジャケットを羽織るのでいいが、暑くなってお揃いの服で歩く二人は、間違いなく今まで以上に注目の的となることだろう。

 類はすたすたと冷蔵庫まで歩くと扉を開け、バターやジャムを取り出した。それから戸棚を開け、平皿を出してトーストを載せる。

「ミュー、バターナイフ取って」
「うん」

 近づいた類から同じシャンプーの匂いが漂ってきて、キュンと心臓が縮まる。
「はい、ヨシの分」
「お、ルイ。ありがとう」

 美羽は急いで角砂糖2つとレモンスライスを載せたアールグレイティーの入ったティーカップを義昭の右側に置き、ドレッシングのかかったグリーンサラダと半熟の目玉焼きを次々に並べていく。

「美羽も、いつもありがとう」

 柔らかく微笑みかける夫に、背筋が凍る。ずっと望んでいたシチュエーションのはずなのに、喜べない。

 夫は、崩壊しかけている夫婦関係を修復しようとしているのだろうか。これから自分は、冷たくされることなく、足蹴にされることなく、外面のためだけに優しくされるのではなく、心から優しくされ、愛されるようになるのだろうか。

 そこまで考えて、美羽の心がナイフのように冷たく尖った。

 一度嫌悪を抱いてしまった人間を、態度が変わったからといって愛すことなど無理だ。

 もう美羽の心は、いくら優しくされたところで、義昭への愛情など消えてしまった。優しくされればされるほど、近づかれれば近づかれるほどに、嫌悪の気持ちが大きくなるだけだ。

 美羽は新たに生まれた問題に、更に頭を悩まされることとなった。
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