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138.類の知らない、美羽のトラウマ

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 シャワーだけ浴びようかと考えたが、せっかく類が自分のために用意してくれたのだと思うと、入らないと申し訳ない気持ちになった。

 大丈夫、このぐらいの深さで溺れることはないんだから……

 シャワーを浴びて髪と躰を洗ってから、美羽は浴槽の縁をしっかり握り、慎重に片足をお湯に沈めていく。

 ほら、大丈夫。

 湯からは薔薇の香りが漂っていた。類の気遣いを嬉しく思いつつ、もう片方の足を上げてゆっくり下ろしていった。呼吸を落ち着かせ、今度は膝を曲げて躰を沈めていく。

 いつまでも、あの頃の私じゃない……
 乗り越えないと、いけないんだ。

 けれど、顔がお湯に近づくに従って鼓動がバクバクと速まり、呼吸が荒くなってきた。顔はお湯の上にあるはずなのに、まるでゴボゴボと沈んでいくような錯覚に陥っていく。

「ハァッ、ハァッ、ハァッ……ハッ、ハッ、ハッハッハッ……」

 鼻の奥がツンと痛んで、頭がジンジンと痺れる。脳髄がカーッと熱くなり、目眩がして、キーンと耳鳴りがした。鼓膜の奥でガンガンと声が響く。

『美羽。貴女は悪魔に取り憑かれたの!!』
 やめ、やめて……お母さん……

 記憶の断片が次々にフラッシュバックする。

 髪を引っ張られ、頭を浴槽に押し付けられて沈められる。どんなに力を入れて押し上げようとしても、上から強く押し付けられ、息が出来ない。口からゴボゴボと泡を吐き、鼻から水が入り、その苦しさにひたすらもがき続ける。脳へ酸素が回らず、意識を失いかけた。

『あの子は悪魔よ! 
 お母さんは貴女の為に悪魔祓いをしてるの!!』

 髪を掴んだ手をガバッと持ち上げられ、激しく咳き込んだ美羽の視界に映ったのは、自身が悪魔の化身となった母の恐ろしい形相だった。美羽の躰から力が抜けて、沈んでいく。

 く、苦しい……お母さん、やだ。
 死んじゃう……

 ゴボゴボと沈んでいく中、鼻に水が入り込んでツンと痛み、全身の神経がビリビリと震え、美羽の意識が浮き上がる。

「カハッ……ゴホッ、ゴホッ……ッハァ、ハァッ、ハァッ……」

 ザバッと起き上がると浴室の壁に手をつき、肩を大きく揺らして荒く息を吐いた。

 あれは遠い過去の記憶だと分かっているのに、怖ろしくて堪らない。湯気が立ち上り、温かいお湯が肌を滑り落ちているのに、まるで氷水のように感じる。

 それは、『類に近づくな』という、母からの警告のように思えた。

 美羽を蔑む母の視線が、言葉が、心臓の奥深くに刻み付けられている。

 私は悪魔に取り憑かれた、穢れた娘なんだ……

 類へと急速に傾いていた気持ちが、押し戻される。
 もう二度と過ちを犯してはいけないと、呼び止められる。

 母の呪縛に、繋ぎ留められる。

「ウッ……ウゥッ……ッグ」

 喉が熱くなり、嗚咽が漏れる。胃液が上がってきて、吐き気がした。

 愛してるのに。
 類しか、愛せないのに……

 美羽は浴槽から出ると膝から崩れ落ち、肩を大きく揺らした。
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