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89.近づく足音

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 眠れ、ない……

 美羽は何度目になるか分からない寝返りを打ち、ハァ……と大きく溜息を吐いた。

 この家に類がいるのだと思うだけで緊張が高まり、躰は疲れているのに目がギラギラと冴え渡り、神経が研ぎ澄まされていく。

 類がこの部屋に入れるはずがない……そう、必死に言い聞かせた。

 けれど今、あの時感じた類の気配、匂いがより濃厚になって美羽の躰に何重にも巻きつき、絡みついてくる。躰の奥深くに潜む何かが告げている。

 類はこの部屋に入り、今自分が横たわっているこのベッドで自慰をしたのだ、と。

 それはどんなに悩ましく、狂おしいほど美しく、切ない光景だっただろう。瞼の裏に、淫靡な類が浮かび上がっていく。

 その時、階段を上ってくる足音が近づいてきて、美羽は小さく躰を震わせた。

 いつもの軽いステップとは違う、少しおぼつかないフラフラした足取りなのに、この足音は類だと確信していた。義昭の足音など一度も気にしたことなどなかったのに、類の足音にはすぐに反応していた。

 きっと、これからお風呂に入るんだ。

 部屋とは反対側へと足音が小さくなるよう祈っていると足音が近づいてきて、美羽の部屋の前で止まった。

 来た……

 息を潜めていると、扉が軽くコンコンとノックされてビクッと震える。

「ミュー?」

 どうしよう。出るべき?
 でも、もし出なかったとしても、疲れたから寝るって話したし、ここで私が出なくても寝たんだって思うだけだよね。

 そう考えて安堵しかけたが、また別の考えが浮かんで心臓がキリリと冷える。

 もし類が昼間のようにこの部屋の扉を開けて、中に入ってきたら?
 アメリカでのあの夢のように、迫られたら?



 その時、私は……類を、拒絶できるの?



 ドクドクと脈うつ鼓動を感じながら、布団を頭まで被り、息を潜める。暖かい空気に包まれているはずなのに、全身に鳥肌が立っていた。

「お風呂借りるねー」

 あっけらかんとした類の声が部屋の向こう側から聞こえてきて、一気に力が抜けた。

 なんだ、そんなことだったの。

 思わず漏れた心の声に、密かに何かを期待していたかのような自分の浅ましさが垣間見え、美羽は唇をきつく噛んだ。

 浴室から、シャワーの音が漏れ聞こえてきた。考えないようにしようと思えば思うほど、今あそこで類が艶かしい裸体を晒してシャワーを浴びているのだと鼓動が高まっていく。

 浴槽から類がシャワーを浴びるのを眺めるのが好きだった。

 類は男性にしては華奢な躰をあまり好ましく思っていなかったけれど、美羽にとってはとても綺麗で、その滑らかで肌理の細かい美しい肌を辿っていった先に誇張している、まるでそこだけとってつけたような異物感のある彼自身さえ愛おしくて、その全てを丸ごと愛していた。

 瑞々しい肌が水を弾き、髪が濡れてしなると、更に類の美しい妖艶さは増す。それを浴室の縁から鼓動を高鳴らせて覗き見るのは、美羽の密かな愉しみだった。

『ミュー、見過ぎっ』

 類の言葉が頭に響き、美羽は現実に戻ってハッとした。



 私、なんて妄想をしてるの。
 これじゃまるで、類に……ダメ、そんなこと考えちゃ。
 


 暫くして浴室から類が出て行き、美羽の部屋へ来ることなく階段を下りていった。それから今度は階段を上ってくる音。類じゃないから、義昭のものだ。

 再びシャワーの音が響いてくるが、それは雑音でしかなかった。

 そのシャワーの音が止んで浴室の扉の開閉、それから義昭の部屋の扉の開閉する音がすると、あとは静けさだけが居座った。

 明日は土曜なので、義昭は休日だ。

 普段ならいつもの時間に起きる夫だが、今夜は酒をたくさん飲んだので、遅く起きることになるだろう。それに、類がいるからいつもより大らかなはずだ。

 そうは思っても、やっぱり眠れないのは辛い。

 何百回めかの寝返りの末、美羽は半身を起こした。

 やっぱり、睡眠薬飲もう……

 その為には類の部屋がある1階に睡眠薬と水を取りに行かなければならない。時計を確認すると、2時半だった。

 もうこの時間なら、さすがに眠ってる……よね?

 ベッドから足を伸ばし、絨毯に揃えておいてあったバブーシュを履いた。
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