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83.湧き上がる衝動

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「う、うん……久しぶり、だったから……結構、疲れたかも」
「僕も、アメリカから帰って次の日の仕事はきつかったな」
「そう、だよね……時差、ぼけは?」
「ようやく治ってきたところだ」

 こんな、夫婦らしい会話を交わしたのはいつ以来だろう……

 不思議な気持ちになる。

「はい、ミュー」

 類にワイングラスを渡され、類が赤ワインを注ぐ。血のようにドス黒い赤に、一瞬目眩を覚えた。

「あ、そうだ! ヨシがケーキ買ってきてくれてたんだった!」

 類が声を上げ、パタパタとキッチンへ向かう。冷蔵庫を開け、ケーキの箱を取り出して美羽に見えるように掲げた。

「みてみてー、これ! 凄いでしょー!!」

 その大きさは間違いなくホールケーキで、美羽は返す言葉を忘れて大きな四角い箱を呆然と見つめた。

 ホールケーキなど、恋人時代にも買ったことはなかった。義昭は甘いものが苦手だと言っていたし、たった二人なのに余らせてしまうのは勿体ないからと、誕生日もクリスマスにも美羽は自分用の小さなケーキを買うだけで、去年はそれさえもしなかった。

「ほ、ほら……3人、なら……ケーキを食べきれるかと思ってさ。美羽、ケーキ好きだろ?」

 言い訳するかのように御託を並べ立てる義昭に、美羽は冷ややかな視線を送った。

「ケーキ、切り分けるねー!」
「あ、私が……」

 大声で呼びかけた類に美羽が立ち上がろうとすると、キッチンから制された。

「大丈夫! ミューは仕事で疲れてるんだから。それに、その為に僕がこっちに来たんだし」

 普段は自分しか立ち入らないキッチンに自分以外の人間……ましてや、今日来たばかりの類が我が物顔で使うことにモヤモヤする。

 けれど、今が義昭とふたりで話す絶好の機会だと思い直す。

 美羽はゴクリと唾を飲み込み、キッチンにいる類には聞こえない声の大きさで話を切り出した。

「義昭さん……
 実は……カフェの方が忙しくて、出来ればもっと出勤して欲しいって言われてるんだけど……」

 実のところは、美羽が隼斗にバイトの日数を増やして欲しいと頼んだのだった。隼斗は、『義昭くんが大丈夫なら、うちは人手が足りないから助かるけど』と言ってくれた。

「増やすって、どのぐらいなんだ?」

 義昭の眼鏡の奥の瞳が鋭くなり、美羽の声が先ほどより小さくなる。

「平日のランチは、全部……あの周辺は会社も結構あるし、雑誌に紹介されてからはお客さんも増えて大変みたいなの。ディナーも出来れば手伝って欲しいって言われてるの……」

 土日は義昭が休みだから、平日さえ乗り切ればなんとかなるかもしれない。せめてランチだけでも入れれば、あとはスーパーに買い物に寄っていたとか理由をつけて、義昭の帰ってくる時間に合わせることも出来る。

 義昭の眉間のシワが中央に深く刻まれる。

「そんなの、向こうで新しい人間を雇えば済む話だろう。今までだって、僕が外で働いて君を養ってやってるんだから働く必要なんてないのに、義理があるから仕方なく週に2回手伝いに行かせてやってたんだ。家事もまともにできない君が仕事を増やせば、その皺寄せは全て僕にかかってくるんだ。

 それに今はルイが来て、それどころじゃないだろう。それはこの前話し合ったはずだ」

 感情的ではないものの、冷静で淡々とした義昭の口調が、余計に美羽を追い詰めていく。唾を飲み込もうとしてもうまく飲み込めない。ドクドクと動悸が激しくなり、顔がカーッと熱くなるのに、手足の先は氷のように冷たくなっていく。

「で、でも……新しいバイトの人なんてすぐには見つからないし、私はずっと働いてて慣れてるから、来てくれると助かるって……」

 カラカラに乾いた喉から絞り出し、必死に攻勢する。

「あそこで君の代わりなんて、いくらでもいるだろう。でも、ルイの姉は君ひとりしかいないんだ。今はルイのことを一番に考えてやるべきだろう!」

 怒鳴りつけられ、美羽はビクンと肩を揺らした。

 類、類、類……この人の頭には、類のことしかないんだ。
 私との結婚生活は、いったい何だったの。どうして私は、そこまで言われなければならないの……

 瞳の奥が熱くなる。



 いっそこの人に、私と類の禁忌の関係をぶち撒けてしまおうか。
 そしたらどんな反応を見せるのだろう。



 そんな衝動が一気に胸に渦巻く。

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