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64.兄と妹
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美羽は高校3年から隼斗の働くカフェでバイトしていて、結婚してからいったん専業主婦に戻ったものの、半年ほど前から再び週に2回ほど働かせてもらっていた。夫の関係が冷め切ってからは、ここが最も癒される場となっている。
もしあのまま専業主婦を続けていたらと思うと、ゾッとする。
美羽が働き始めた当時、隼斗は雇われ店長だったが、その後オーナーから店の権利を買い取り、今は自分の店として経営している。
いつか自分のカフェを持ちたいと話していたその夢を叶えた隼斗を、美羽は兄として、ひとりの人間として尊敬していた。
「おはようございます」
裏口から入っていくと、隼斗は厨房で鶏肉を捌いている最中だった。節くれだった男らしい人指し指には、針で縫った痕が生々しく残っている。それを見る度に、美羽の胸は罪悪感でいっぱいになる。
「あぁ、おはよう」
隼斗が包丁を持つ手を止め、笑顔で振り返った。
毛髪落下防止ネットの付いたふんわりとしたブラウンのハンチングを被り、白に黒のパイピングの入ったスタイリッシュなコックコートに身を包み、足さばきのいいスリットの入った揮発性に優れたハンチングと同じ色のロングエプロンは、大柄で背の高い隼斗をより大きく見せていた。
面長の顔立ちに男らしい少し太めの眉、精悍な一重の涼しげな双眸に薄い唇は一見冷たそうに見えるが、笑うと驚くほどに人懐っこく表情が変わる。
出会った当時は眉ひとつピクリとも動かさない無表情だった隼斗が、今ではすっかり美羽に心を開いてくれていることが嬉しい反面、自分は完全に心を開けずにいることに心苦しさを覚えた。
「浩平くんは?」
「じゃがいも切らしてたのに気づいて、吉永さんとこの畑に行ってもらってる」
隼斗の経営するカフェ『Lieu de detente 』は、フランス語で『くつろげる場所』を意味している。
以前はよくあるおしゃれなカフェでしかなかったが、隼斗がオーナーとなってからは地元の食材を中心とした軽食とデザート、本格的なコーヒーと紅茶を提供するカフェに変貌し、口コミでじわじわと人気が上がり、安定した客数を獲得していた。地方グルメ誌に紹介されてからは、遠方からわざわざ訪ねてくる客もあるほどだ。
地元との繋がりを大切にする隼斗は農家を一軒一軒自分の足で回り、野菜だけでなく、卵や鶏肉、豚肉等も農家ごとに契約していた。特に野菜は気候によって左右されるので仕入れ値が安定せず大変だが、それでもなんとか上手くやりくりしているようだった。
浩平はそんな隼斗の元で雇われ店長だったから厨房に入っていて、師匠と弟子といった関係が続いている。職人気質な隼斗に対して浩平は社交性があって明るく、時にはウェイターもこなす。浩平の存在は大きかった。
「これ、頼まれてたものとお土産のチョコレート」
美羽は肩に掛けていたショッピングバッグを外すと、調理台の使われていないスペースにドンッと置いた。さっきまでの重さから解放され、肩がヒリヒリした。
「悪かったな。重たかっただろう、送ってくれれば良かったのに」
「うん。でも運べるぐらいの量だったし、早く渡したかったから」
「そうか」
隼斗は早速手を洗い、袋から荷物を取り出した。そこには隼斗から頼まれて購入したコーヒーや茶葉、調味料、クリスマス用のデコレーショングッズなんかが入っていた。
「アメリカはどうだった?
……って、遊びに行ったんじゃないよな。お父さんのこと、残念だったな」
隼斗は急に気まづそうな表情を浮かべ、美羽を慰めるような視線を向けた。
美羽自身、あまりにも類のことが衝撃的で、父の葬儀のためにアメリカに行ったことを忘れかけていた。ドクドクと心臓が嫌な音をたてる。
「そ、そう……お父さんとは、一緒に過ごした時間は短かったけど……やっぱり亡くなったのが寂しくて。でも、葬儀に行けて良かった。
隼斗兄さん、突然の申し出だったのに、休ませてくれてありがとう。カフェ、忙しかったんじゃない?」
「美羽がいなくて、てんてこまいだったよ」
「ご、ごめんなさい……」
萎縮した美羽に隼斗はハハッと笑い、ポンポンと肩を叩いた。
「冗談だ。ツレに声かけて手伝ってもらってたし、うまく回してたよ」
「ごめんね、お友達にまで迷惑かけて」
「そんな心配しなくても大丈夫だ。久しぶりに会って店終わった後に飲んだり出来たから、良かった。たまにはこういうのも必要だな。皿を割られたのは痛かったが」
「わっ、そうなんだ……」
隼斗兄さんがこだわって選んだお皿だったのに……
「うちは高級ブランドの皿を扱ってるわけでよないし、いいさ。
アメリカには、義昭くんも同行したんだな。優しい旦那で良かったな」
義昭のことを言われ、美羽はビクッと小さく肩を震わせた。
もしあのまま専業主婦を続けていたらと思うと、ゾッとする。
美羽が働き始めた当時、隼斗は雇われ店長だったが、その後オーナーから店の権利を買い取り、今は自分の店として経営している。
いつか自分のカフェを持ちたいと話していたその夢を叶えた隼斗を、美羽は兄として、ひとりの人間として尊敬していた。
「おはようございます」
裏口から入っていくと、隼斗は厨房で鶏肉を捌いている最中だった。節くれだった男らしい人指し指には、針で縫った痕が生々しく残っている。それを見る度に、美羽の胸は罪悪感でいっぱいになる。
「あぁ、おはよう」
隼斗が包丁を持つ手を止め、笑顔で振り返った。
毛髪落下防止ネットの付いたふんわりとしたブラウンのハンチングを被り、白に黒のパイピングの入ったスタイリッシュなコックコートに身を包み、足さばきのいいスリットの入った揮発性に優れたハンチングと同じ色のロングエプロンは、大柄で背の高い隼斗をより大きく見せていた。
面長の顔立ちに男らしい少し太めの眉、精悍な一重の涼しげな双眸に薄い唇は一見冷たそうに見えるが、笑うと驚くほどに人懐っこく表情が変わる。
出会った当時は眉ひとつピクリとも動かさない無表情だった隼斗が、今ではすっかり美羽に心を開いてくれていることが嬉しい反面、自分は完全に心を開けずにいることに心苦しさを覚えた。
「浩平くんは?」
「じゃがいも切らしてたのに気づいて、吉永さんとこの畑に行ってもらってる」
隼斗の経営するカフェ『Lieu de detente 』は、フランス語で『くつろげる場所』を意味している。
以前はよくあるおしゃれなカフェでしかなかったが、隼斗がオーナーとなってからは地元の食材を中心とした軽食とデザート、本格的なコーヒーと紅茶を提供するカフェに変貌し、口コミでじわじわと人気が上がり、安定した客数を獲得していた。地方グルメ誌に紹介されてからは、遠方からわざわざ訪ねてくる客もあるほどだ。
地元との繋がりを大切にする隼斗は農家を一軒一軒自分の足で回り、野菜だけでなく、卵や鶏肉、豚肉等も農家ごとに契約していた。特に野菜は気候によって左右されるので仕入れ値が安定せず大変だが、それでもなんとか上手くやりくりしているようだった。
浩平はそんな隼斗の元で雇われ店長だったから厨房に入っていて、師匠と弟子といった関係が続いている。職人気質な隼斗に対して浩平は社交性があって明るく、時にはウェイターもこなす。浩平の存在は大きかった。
「これ、頼まれてたものとお土産のチョコレート」
美羽は肩に掛けていたショッピングバッグを外すと、調理台の使われていないスペースにドンッと置いた。さっきまでの重さから解放され、肩がヒリヒリした。
「悪かったな。重たかっただろう、送ってくれれば良かったのに」
「うん。でも運べるぐらいの量だったし、早く渡したかったから」
「そうか」
隼斗は早速手を洗い、袋から荷物を取り出した。そこには隼斗から頼まれて購入したコーヒーや茶葉、調味料、クリスマス用のデコレーショングッズなんかが入っていた。
「アメリカはどうだった?
……って、遊びに行ったんじゃないよな。お父さんのこと、残念だったな」
隼斗は急に気まづそうな表情を浮かべ、美羽を慰めるような視線を向けた。
美羽自身、あまりにも類のことが衝撃的で、父の葬儀のためにアメリカに行ったことを忘れかけていた。ドクドクと心臓が嫌な音をたてる。
「そ、そう……お父さんとは、一緒に過ごした時間は短かったけど……やっぱり亡くなったのが寂しくて。でも、葬儀に行けて良かった。
隼斗兄さん、突然の申し出だったのに、休ませてくれてありがとう。カフェ、忙しかったんじゃない?」
「美羽がいなくて、てんてこまいだったよ」
「ご、ごめんなさい……」
萎縮した美羽に隼斗はハハッと笑い、ポンポンと肩を叩いた。
「冗談だ。ツレに声かけて手伝ってもらってたし、うまく回してたよ」
「ごめんね、お友達にまで迷惑かけて」
「そんな心配しなくても大丈夫だ。久しぶりに会って店終わった後に飲んだり出来たから、良かった。たまにはこういうのも必要だな。皿を割られたのは痛かったが」
「わっ、そうなんだ……」
隼斗兄さんがこだわって選んだお皿だったのに……
「うちは高級ブランドの皿を扱ってるわけでよないし、いいさ。
アメリカには、義昭くんも同行したんだな。優しい旦那で良かったな」
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