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空白の名前

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 妊婦健診の日は凍えるほど寒かったが、今日は日差しが柔らかく、春のようだった。匂いまで、まるで違うように感じる。

 あ、これ.....梅の花の匂いだ。

 ふと見上げると、通りの壁の向こう側に植えられた梅の木からいくつかの蕾が綻ほころんで白梅の花を咲かせ、春の訪れを告げていた。
 
 バス停へと向かう途中、何組かの家族とすれ違う。今までは全く気に留めたことなどなかったのに、妊娠して家を出るようになってからは、やたらと妊娠している人や家族連れに自然に目がいくようになっていた。
 
 いいな......

 春の訪れを祝福する白梅のように、どの家族も薫子の目には幸せそうに映った。

 バス停の通りを挟んだ向かい側には公園があり、父親と息子らしき二人がサッカーをして遊んでいるのが見えた。小さな体を全身で捻るようにしてボールを蹴る男の子に向かい、父親が嬉しそうにボールを蹴り返す。そんなことを、何度も繰り返していた。

 バスが来るのを待つ間、時折目の前を通り過ぎる車やトラックに邪魔されながらも、薫子はふたりの姿をじっと見つめていた。

 彼女の心の中に、重く暗い雲がじわじわと広がっていく。

 若くして子供を産むことが、批判的な視線で見られるのだということを知らなかった。
 父親のいない子供を産むということ、未婚で子供を産むことについて、今まで考えもしなかった。

 自分とは、違う世界の話だと思っていた。

 悠なら、私が妊娠していると知ったら、喜んでくれるはず。嬉しいって思ってくれるはず。
 これからの未来を悠と、子供と共に歩んでいけるはず。

 そう、信じたい。

 その一方で......

 もし、悠が......私のことをもう愛していないと言ったら。
 子供など、いらないと言われたら。

 これからの未来を、一緒に歩んでいくことは出来ないと言われてしまったら......

 いくら消そうとしても次々と不安が生まれ、悠に対して妊娠を告げることに怯える気持ちが膨らんでいく。

 この生命いのちだけは、何があっても大切にしなくてはいけない。
 私が守っていかなくては。

 その覚悟は、間違いなく薫子の心中に宿っている。けれど、実際に未婚の母となり、子供を育てることになったらと想像するだけで、薫子は絶望の淵へと追い詰められていくような気持ちになった。

 それは、ひとりで子供を育てるということに対しての不安だけではない。悠に拒否されることで、自分が再び生きる希望を失ってしまい、立ち上がれなくなるのではないかと恐いのだ。
 妊婦健診の際に出た不安の芽は、父親の欄が空白の妊娠届出書を提出したことにより、更に大きく育っていた。

 私が弱いから、こんな風に考えてしまうんだ。
 精神的に強くならないと。

 そのためには......もっと、自立しないといけないんだ。
 早く、自立しないと。

 そうすれば私は、悠に自信を持って会いに行くことが出来るから。

 薫子の瞳には、悲壮な決意の眼差しが宿っていた。
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