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第一章
第三十五話 魔王、目覚める
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◆◆◆
魔王軍による蹂躙が開始されて、およそ一年。
勇猛で鳴るネルツ公国の重装騎兵団が、魔王エリス自らが率いる第一軍に手も足も出ず粉砕され、潰走を始めた最中のこと。
亡国の騎士や有志たちを率い、盲目の聖女が初めてエリスの前に姿を現した。
ひと目見た時から、エリスは、その女が気に入らなかった。
光を纏った金色の髪も、
光を宿さずとも清流のように澄んだ瞳も、
魔王の前でもなんら怖気付くことないその態度も。
そしてなにより……
――全てを絶望から救い出す、じゃと?
……人間の悲劇を全て背負っているかのようなその言動が、エリスを大いにイラつかせた。
そんなことはあり得ない。
人間どもがどれだけこの聖女とやらを信奉しようが、そんなことはあり得ないのだ。
人間の苦しみを一身に受けたのは。
怒りと憎しみの業火で灼かれながら生まれたのは。
絶望の汚濁にまみれ、目覚めたのは。
それは決して聖女などではなく……魔王たる、エリスだったのだから。
「無駄な抵抗じゃ、小娘。わらわには勝てぬ。今なら一思いに死なせてやるぞ」
「……私は、負けません。この大陸から、悲しみを一掃するまで」
聖女の証たる光の杖を握りしめ、その娘、リーシャは降り注ぐ魔光弾から味方を護っていた。
その必死な姿も、またエリスの感情を逆撫でする。
「ど阿呆が。愚かで矮小な貴様らは、己が罪を知りながら目を逸らし、増長した。その結果がこの大陸の有様じゃ。貴様ら人間がおる限り、悲劇が無くなることなどあり得んのじゃ」
エリスは、同行する副官に手で合図を送る。総攻撃の指示だった。
魔光弾の圧が増し、巨大な魔導ゴーレムたちが地鳴りを起こしながら突撃を開始する。
「なればこそ、わらわが貴様らに罰を下す。人間を絶滅させ、大陸を浄化するのじゃ。それこそがわらわの望み。わらわの存在理由よ」
魔光弾を抑えていた光の守護防壁に、ヒビが入り始める。
だがリーシャはさらに二重、三重に防壁を展開して味方の被害を食い止めた。
その様子を見て、エリスが眉を顰める。
――なんじゃ?
リーシャの見えない瞳は、エリスの内側を見透かすかのように澄み渡り……そしてエリスにとって最も不可解だったのは、そこになんら敵意が感じられないことだった。
リーシャの口が動いた。
「それは――」
……この日、魔王軍が初めて撤退を余儀なくされる。
人間の反撃が始まる、歴史的な日であった。
◆◆◆
それは、軽い記憶の混同。
酩酊状態のエリスの中で、遠い過去の記憶と目の前の景色とが溶け合い混ざり合って。
中央広場の野外ステージは、あの時の荒野と地続きになり、背後の大道具は、視界を埋める互いの兵たちの影となった。
そして……リーシャとリィが、ぼやけて重なっていた。
「助けに……きた、じゃと?貴様が、わらわを、か?」
「はい」
「く、くくくく……うわーっはっはっは!!」
エリスが、高らかに笑い声を上げる。
「人間どもを救うなどという妄言に飽き足らず、今度はわらわを救うじゃと?!わらわは貴様らの敵ぞ!何を救うというのじゃ!!」
「私には、あまりむずかしいことは、わかりません。でも」
リィが、一歩前に出る。
「わかるんです。エリスさまの心が、いたいって言ってる」
「……なんじゃと?」
エリスの顔から、笑みが消える。
「エリスさま、とてもつらそう。……私になにができるかわからないけど――私が、エリスさまをしばってるものを、とってあげたい」
「……わらわが、縛られていると?魔を統べる王たる、わらわが?――意味が分からぬわ!わらわは、わらわの意思で人間を滅ぼし、この世界を浄化するのじゃ!」
敵意剥き出しで睨みつけてくるエリスを、リィは寂しそうな目で見つめる。
そして、ぎゅっと両手を握ると、ゆっくりと口を開いた。
「それはほんとうに、エリスさまのしたいことなのですか?」
「……なに……?」
「エリスさまは、私を、助けてくれました。眼を治してくれました。そして、お姉ちゃんを助けてくれました」
ひとつひとつの言葉に、リィは想いを込める。
「エリスさまは、優しい人です。私の、大好きな人です。エリスさまは、人を滅ぼすなんて、そんなこと言わない。……何かきっと、エリスさまに、そう言わせてる……くるしめているものがあるんです」
エリスを真剣に見つめるその眼差しは、放たれた矢のごとく真っ直ぐに、怒りと闇に染まった瞳を射抜いた。
「なに、を……」
辛うじて魔法は維持しているものの、エリスは力が抜けたように後ずさる。
そして……
リィの言葉をきっかけに――まるで走馬灯のように現れた過去の記憶たちが、エリスの目の前で連なり、重なり合っていく。
白黒の絵のような記憶の世界はたちまち色を取り戻し、過去の情景そのままに、そして過去の言葉そのままに、『彼ら』はエリスへと語りかけた。
砂煙舞う荒野で、
――『それは本当に、貴女の願いなのですか?』
盲目の聖女が問う。
血に濡れた魔王城で、
――『それ、本当にキミの望みなのかな?』
死の淵に立った勇者が、問う。
重なっていく彼らの問いは、エリスの中で繰り返し反響し、そして大いに揺さぶった。
「……だまれ」
エリスは、わなわなと身体を震わせながら、痛む頭を両手で押さえつける。
「……だまれ、だまれ!……貴様らに何が分かる!!人間は、消し去らねばならぬ!滅ぼさねばならぬのじゃ!!」
目を見開き、エリスは叫ぶ。
「……そうせねば……そうせねば、この『声』は止まぬじゃろうが!!わらわをずっと取り巻くこの『声』は!人間が人間に絶望する、この『声』は!!!!」
頭を抱え、エリスは慟哭する。
「痛いのじゃ!貴様らの叫びが、絶望が、痛い!!生まれてからずっと……わらわは痛くてたまらんのじゃ!!誰も、止めてはくれぬ!誰も、助けてはくれぬ!ならば……わらわがこの手で消し去るしかなかろうが!!」
エリスが両の手を、空に向けて突き上げる。
「下らぬ問答はここまでじゃ!我が眼前から失せよ!!【混沌より……】」
詠唱が再開される。
闇の魔力はますます膨れ上がり、吐き出される瘴気は雷雲のように密度と大きさを増していく。
それは次第に渦を巻き、やがてエリスの遥か頭上で、黒く巨大な球体として形を成した。
その様子は会場外からも視認でき、聖誕祭に訪れた人々ほぼ全てが、突如発生した異様な情景に目を奪われていた。
邪なる力の奔流に、大気が震え出す。
「おいおい、これって本当に演出なのか?」
「全く仕掛けのタネが分からねぇな」
観客席が徐々に騒がしくなる中、オリヴィスが青ざめた表情で舞台の端を掴んだ。
「流石にこれ以上はまずいだろ!?止めに行くぞコウガ!」
「待ちなさい!……ほら、リィちゃんが動くわ」
「リィはまだ子供なんだよ!あんなのどうにかできるわけねーだろ!」
「そうかしら?あの子、あなたが思ってるよりずっと強いかもよ?」
「ああ?!」
オリヴィスが、舞台上でエリスと相対する少女を振り返る。
シェリルの言う通り、リィはゆっくりと前へ歩を進めていた。
そして、エリスの前で噴き上がる瘴気へ、なんら臆することなく両手を差し入れ……エリスの頬を、包み込んだ。
「……っ!?」
瞬間、辺りの瘴気が驚くほど静かに霧散する。
はっきりと現れたエリスの顔を見て、少女は微笑んだ。
「大丈夫です、エリスさま。私たちがいます」
リィの小さな手が、エリスの頬を優しく撫でる。
「お姉ちゃんも、コウガさんも、シェリルさんも、ウィスカーさんも。みんな、エリスさまのそばにいます。みんな一緒なら、エリスさまの痛み、きっときっと、とってあげられます」
自分の顔を覆う手と、眼前の少女の顔に交互に視線を移しながら……怒りに歪んでいたエリスの表情が、わずかに緩んだ。
「だから大丈夫。もう、一人で我慢しなくて、いいんですよ」
――なんじゃ、これは。
――魔力?魔法?そのどれでもない……なぜ、こんなにもあたたかい?
エリスの顔から、徐々に険が取れていく。
その様子を見ながら……リィがにっこりと、笑った。
勢いを失った瘴気が揺蕩い、朝霧が晴れるように舞台上から消えていく。
少しの間を置いて、エリスが、一瞬キョトンとしてから眼を瞬いた。
「……リィか?」
「……はい、エリスさま」
「わらわはこんなところで、なにをしてたのじゃ?」
「たぶん……少しこわい夢を見てました」
「そうか、夢か。……そんな気がするのじゃ」
ぼふっと抱きついてきたリィの髪を、エリスは慈しむように、そっと撫でるのだった。
魔王軍による蹂躙が開始されて、およそ一年。
勇猛で鳴るネルツ公国の重装騎兵団が、魔王エリス自らが率いる第一軍に手も足も出ず粉砕され、潰走を始めた最中のこと。
亡国の騎士や有志たちを率い、盲目の聖女が初めてエリスの前に姿を現した。
ひと目見た時から、エリスは、その女が気に入らなかった。
光を纏った金色の髪も、
光を宿さずとも清流のように澄んだ瞳も、
魔王の前でもなんら怖気付くことないその態度も。
そしてなにより……
――全てを絶望から救い出す、じゃと?
……人間の悲劇を全て背負っているかのようなその言動が、エリスを大いにイラつかせた。
そんなことはあり得ない。
人間どもがどれだけこの聖女とやらを信奉しようが、そんなことはあり得ないのだ。
人間の苦しみを一身に受けたのは。
怒りと憎しみの業火で灼かれながら生まれたのは。
絶望の汚濁にまみれ、目覚めたのは。
それは決して聖女などではなく……魔王たる、エリスだったのだから。
「無駄な抵抗じゃ、小娘。わらわには勝てぬ。今なら一思いに死なせてやるぞ」
「……私は、負けません。この大陸から、悲しみを一掃するまで」
聖女の証たる光の杖を握りしめ、その娘、リーシャは降り注ぐ魔光弾から味方を護っていた。
その必死な姿も、またエリスの感情を逆撫でする。
「ど阿呆が。愚かで矮小な貴様らは、己が罪を知りながら目を逸らし、増長した。その結果がこの大陸の有様じゃ。貴様ら人間がおる限り、悲劇が無くなることなどあり得んのじゃ」
エリスは、同行する副官に手で合図を送る。総攻撃の指示だった。
魔光弾の圧が増し、巨大な魔導ゴーレムたちが地鳴りを起こしながら突撃を開始する。
「なればこそ、わらわが貴様らに罰を下す。人間を絶滅させ、大陸を浄化するのじゃ。それこそがわらわの望み。わらわの存在理由よ」
魔光弾を抑えていた光の守護防壁に、ヒビが入り始める。
だがリーシャはさらに二重、三重に防壁を展開して味方の被害を食い止めた。
その様子を見て、エリスが眉を顰める。
――なんじゃ?
リーシャの見えない瞳は、エリスの内側を見透かすかのように澄み渡り……そしてエリスにとって最も不可解だったのは、そこになんら敵意が感じられないことだった。
リーシャの口が動いた。
「それは――」
……この日、魔王軍が初めて撤退を余儀なくされる。
人間の反撃が始まる、歴史的な日であった。
◆◆◆
それは、軽い記憶の混同。
酩酊状態のエリスの中で、遠い過去の記憶と目の前の景色とが溶け合い混ざり合って。
中央広場の野外ステージは、あの時の荒野と地続きになり、背後の大道具は、視界を埋める互いの兵たちの影となった。
そして……リーシャとリィが、ぼやけて重なっていた。
「助けに……きた、じゃと?貴様が、わらわを、か?」
「はい」
「く、くくくく……うわーっはっはっは!!」
エリスが、高らかに笑い声を上げる。
「人間どもを救うなどという妄言に飽き足らず、今度はわらわを救うじゃと?!わらわは貴様らの敵ぞ!何を救うというのじゃ!!」
「私には、あまりむずかしいことは、わかりません。でも」
リィが、一歩前に出る。
「わかるんです。エリスさまの心が、いたいって言ってる」
「……なんじゃと?」
エリスの顔から、笑みが消える。
「エリスさま、とてもつらそう。……私になにができるかわからないけど――私が、エリスさまをしばってるものを、とってあげたい」
「……わらわが、縛られていると?魔を統べる王たる、わらわが?――意味が分からぬわ!わらわは、わらわの意思で人間を滅ぼし、この世界を浄化するのじゃ!」
敵意剥き出しで睨みつけてくるエリスを、リィは寂しそうな目で見つめる。
そして、ぎゅっと両手を握ると、ゆっくりと口を開いた。
「それはほんとうに、エリスさまのしたいことなのですか?」
「……なに……?」
「エリスさまは、私を、助けてくれました。眼を治してくれました。そして、お姉ちゃんを助けてくれました」
ひとつひとつの言葉に、リィは想いを込める。
「エリスさまは、優しい人です。私の、大好きな人です。エリスさまは、人を滅ぼすなんて、そんなこと言わない。……何かきっと、エリスさまに、そう言わせてる……くるしめているものがあるんです」
エリスを真剣に見つめるその眼差しは、放たれた矢のごとく真っ直ぐに、怒りと闇に染まった瞳を射抜いた。
「なに、を……」
辛うじて魔法は維持しているものの、エリスは力が抜けたように後ずさる。
そして……
リィの言葉をきっかけに――まるで走馬灯のように現れた過去の記憶たちが、エリスの目の前で連なり、重なり合っていく。
白黒の絵のような記憶の世界はたちまち色を取り戻し、過去の情景そのままに、そして過去の言葉そのままに、『彼ら』はエリスへと語りかけた。
砂煙舞う荒野で、
――『それは本当に、貴女の願いなのですか?』
盲目の聖女が問う。
血に濡れた魔王城で、
――『それ、本当にキミの望みなのかな?』
死の淵に立った勇者が、問う。
重なっていく彼らの問いは、エリスの中で繰り返し反響し、そして大いに揺さぶった。
「……だまれ」
エリスは、わなわなと身体を震わせながら、痛む頭を両手で押さえつける。
「……だまれ、だまれ!……貴様らに何が分かる!!人間は、消し去らねばならぬ!滅ぼさねばならぬのじゃ!!」
目を見開き、エリスは叫ぶ。
「……そうせねば……そうせねば、この『声』は止まぬじゃろうが!!わらわをずっと取り巻くこの『声』は!人間が人間に絶望する、この『声』は!!!!」
頭を抱え、エリスは慟哭する。
「痛いのじゃ!貴様らの叫びが、絶望が、痛い!!生まれてからずっと……わらわは痛くてたまらんのじゃ!!誰も、止めてはくれぬ!誰も、助けてはくれぬ!ならば……わらわがこの手で消し去るしかなかろうが!!」
エリスが両の手を、空に向けて突き上げる。
「下らぬ問答はここまでじゃ!我が眼前から失せよ!!【混沌より……】」
詠唱が再開される。
闇の魔力はますます膨れ上がり、吐き出される瘴気は雷雲のように密度と大きさを増していく。
それは次第に渦を巻き、やがてエリスの遥か頭上で、黒く巨大な球体として形を成した。
その様子は会場外からも視認でき、聖誕祭に訪れた人々ほぼ全てが、突如発生した異様な情景に目を奪われていた。
邪なる力の奔流に、大気が震え出す。
「おいおい、これって本当に演出なのか?」
「全く仕掛けのタネが分からねぇな」
観客席が徐々に騒がしくなる中、オリヴィスが青ざめた表情で舞台の端を掴んだ。
「流石にこれ以上はまずいだろ!?止めに行くぞコウガ!」
「待ちなさい!……ほら、リィちゃんが動くわ」
「リィはまだ子供なんだよ!あんなのどうにかできるわけねーだろ!」
「そうかしら?あの子、あなたが思ってるよりずっと強いかもよ?」
「ああ?!」
オリヴィスが、舞台上でエリスと相対する少女を振り返る。
シェリルの言う通り、リィはゆっくりと前へ歩を進めていた。
そして、エリスの前で噴き上がる瘴気へ、なんら臆することなく両手を差し入れ……エリスの頬を、包み込んだ。
「……っ!?」
瞬間、辺りの瘴気が驚くほど静かに霧散する。
はっきりと現れたエリスの顔を見て、少女は微笑んだ。
「大丈夫です、エリスさま。私たちがいます」
リィの小さな手が、エリスの頬を優しく撫でる。
「お姉ちゃんも、コウガさんも、シェリルさんも、ウィスカーさんも。みんな、エリスさまのそばにいます。みんな一緒なら、エリスさまの痛み、きっときっと、とってあげられます」
自分の顔を覆う手と、眼前の少女の顔に交互に視線を移しながら……怒りに歪んでいたエリスの表情が、わずかに緩んだ。
「だから大丈夫。もう、一人で我慢しなくて、いいんですよ」
――なんじゃ、これは。
――魔力?魔法?そのどれでもない……なぜ、こんなにもあたたかい?
エリスの顔から、徐々に険が取れていく。
その様子を見ながら……リィがにっこりと、笑った。
勢いを失った瘴気が揺蕩い、朝霧が晴れるように舞台上から消えていく。
少しの間を置いて、エリスが、一瞬キョトンとしてから眼を瞬いた。
「……リィか?」
「……はい、エリスさま」
「わらわはこんなところで、なにをしてたのじゃ?」
「たぶん……少しこわい夢を見てました」
「そうか、夢か。……そんな気がするのじゃ」
ぼふっと抱きついてきたリィの髪を、エリスは慈しむように、そっと撫でるのだった。
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