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第三章 蝶の行方
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……叙勲式の宴の喧騒が、がやがやと遠く聞こえてくる。
宴の間から遠ざかってもまだしつこく耳に響く、虫の羽音のようなそのざわめき。
ナシェルはそれらの煩わしさから逃れるように、両手で耳を覆い、ひっそりと鎮まった書物庫の一つに逃げ込んだ。
巨大な樫の幹のごとく書棚の林立する向こう側に、読書用の小さな円卓と椅子が設えてあるのをナシェルは知っていた。壁際の、巨竜の首を模した燭台に、蝋燭の灯が常に尽きることなく燈されていることも。
誰が集めたものとも知れない地上の星の数ほどに膨大なこれらの書物を、片っぱしから読んでみたいと挑んだのは、ナシェルがもう少し稚い頃のことだったか。
大きくなるにつれて他の事へも興味が湧いて、いつしか書物庫に入り浸ることはなくなっていたが、それでも時おり、魔族たちの騒めきから逃れるように、あるいは父王から夜夜ぶつけられる歪んだ愛情から逃れるように、ここへ長時間身を隠して読書に耽ることがあった。
今はまさにそうした雲隠れの気分の時で、ナシェルはありとあらゆる分類の本が収められた書棚のひとつから、博物学の大きな図典を選んで胸に抱えた。太さはナシェルの掌ほどもあり、とても片手で握って運べる重さではない。
奥の、読書用の円卓へ移動しようと書棚の間をすり抜けてきたナシェルは、そこへ辿り着く直前で驚愕し、図典を床に取り落とした。
図典は落ちた拍子に王子の足下でめくれ、獣の解剖図の頁がろうそくの明かりに照らし出された。
そこには先客がいたのだ。
円卓の脇の藍びろうどの椅子に腰かけて、長衣に隠された長い脚を組み、膝の上に置いた本の頁を繰るでもなく、肘掛けに肘を預けてこちらを見ている。……漆黒よりもなお濃い黒をした髪を白皙の頬にまとわりつかせ、切れ長の紅い瞳には皮肉げな表情が浮かんでいた。
「どうして驚くことがある?」
先客は美しい唇で云った。愛し子の抱く戦慄を、面白がっているような節さえあった。
「まるで余の気配を感じ取れなかったようではないか? 余の半身ともあろう者が。眷属も連れずに、ここのところ何をこそこそしている?」
ナシェルは取り落とした図典を拾う余裕もなく、踵を返して書棚の合間を入口のほうへ駆け戻った。
驚愕を見せたことで己の司の衰弱を露呈してしまったのだ。普段のナシェルならば王の気配を、これほど至近まで近づいて感じぬはずはない。
―――王の気配というよりは精霊たちの動きで分かる。冥王が近づけば、ナシェルを取り巻く精霊たちが、上位神である冥王の支配下に競って入ろうとするからだ。王は神司の及ぶ範囲を抑制し配下の精霊を適度に切り離すことで釣合いをとる。同属性の上位神が下位神との間でこれをするのは、息を吸うのと同様に自然なことだ。
だから常ならば精霊たちのざわめきで察知することができる、はずだった。
ナシェルは書物庫の扉に取り縋り、金の象嵌の取っ手に手をかけたが、どうしたわけか先ほどはすんなり開いたはずの扉が、呪でもかけられたかのように開かない。
渾身の力を込めて引っ張るが、努力は徒労に終わった。息を弾ませながら振り返ると、もう眼前に、白楊の如き長身が追い迫ってきていた。
「逃げても無駄だと判らぬのか。こちらへ参れ」
「……嫌、です」
首を左右に振ったのか、それともただ震えただけなのか判断できぬほどに、ナシェルの動きは固かった。
冥王は、扉の取っ手にしがみついたままのナシェルの手を引きはがすと、嫌です放して下さいと彼が懇願するのも聞かずに書棚の合間をふたたび通り抜け、王子を奥の円卓の所まで引きずっていった。
ナシェルの抗議の悲鳴は、途中からは罵り声に変じていた。
「放せ、放せ……っ!」
……叙勲式の宴の喧騒が、がやがやと遠く聞こえてくる。
宴の間から遠ざかってもまだしつこく耳に響く、虫の羽音のようなそのざわめき。
ナシェルはそれらの煩わしさから逃れるように、両手で耳を覆い、ひっそりと鎮まった書物庫の一つに逃げ込んだ。
巨大な樫の幹のごとく書棚の林立する向こう側に、読書用の小さな円卓と椅子が設えてあるのをナシェルは知っていた。壁際の、巨竜の首を模した燭台に、蝋燭の灯が常に尽きることなく燈されていることも。
誰が集めたものとも知れない地上の星の数ほどに膨大なこれらの書物を、片っぱしから読んでみたいと挑んだのは、ナシェルがもう少し稚い頃のことだったか。
大きくなるにつれて他の事へも興味が湧いて、いつしか書物庫に入り浸ることはなくなっていたが、それでも時おり、魔族たちの騒めきから逃れるように、あるいは父王から夜夜ぶつけられる歪んだ愛情から逃れるように、ここへ長時間身を隠して読書に耽ることがあった。
今はまさにそうした雲隠れの気分の時で、ナシェルはありとあらゆる分類の本が収められた書棚のひとつから、博物学の大きな図典を選んで胸に抱えた。太さはナシェルの掌ほどもあり、とても片手で握って運べる重さではない。
奥の、読書用の円卓へ移動しようと書棚の間をすり抜けてきたナシェルは、そこへ辿り着く直前で驚愕し、図典を床に取り落とした。
図典は落ちた拍子に王子の足下でめくれ、獣の解剖図の頁がろうそくの明かりに照らし出された。
そこには先客がいたのだ。
円卓の脇の藍びろうどの椅子に腰かけて、長衣に隠された長い脚を組み、膝の上に置いた本の頁を繰るでもなく、肘掛けに肘を預けてこちらを見ている。……漆黒よりもなお濃い黒をした髪を白皙の頬にまとわりつかせ、切れ長の紅い瞳には皮肉げな表情が浮かんでいた。
「どうして驚くことがある?」
先客は美しい唇で云った。愛し子の抱く戦慄を、面白がっているような節さえあった。
「まるで余の気配を感じ取れなかったようではないか? 余の半身ともあろう者が。眷属も連れずに、ここのところ何をこそこそしている?」
ナシェルは取り落とした図典を拾う余裕もなく、踵を返して書棚の合間を入口のほうへ駆け戻った。
驚愕を見せたことで己の司の衰弱を露呈してしまったのだ。普段のナシェルならば王の気配を、これほど至近まで近づいて感じぬはずはない。
―――王の気配というよりは精霊たちの動きで分かる。冥王が近づけば、ナシェルを取り巻く精霊たちが、上位神である冥王の支配下に競って入ろうとするからだ。王は神司の及ぶ範囲を抑制し配下の精霊を適度に切り離すことで釣合いをとる。同属性の上位神が下位神との間でこれをするのは、息を吸うのと同様に自然なことだ。
だから常ならば精霊たちのざわめきで察知することができる、はずだった。
ナシェルは書物庫の扉に取り縋り、金の象嵌の取っ手に手をかけたが、どうしたわけか先ほどはすんなり開いたはずの扉が、呪でもかけられたかのように開かない。
渾身の力を込めて引っ張るが、努力は徒労に終わった。息を弾ませながら振り返ると、もう眼前に、白楊の如き長身が追い迫ってきていた。
「逃げても無駄だと判らぬのか。こちらへ参れ」
「……嫌、です」
首を左右に振ったのか、それともただ震えただけなのか判断できぬほどに、ナシェルの動きは固かった。
冥王は、扉の取っ手にしがみついたままのナシェルの手を引きはがすと、嫌です放して下さいと彼が懇願するのも聞かずに書棚の合間をふたたび通り抜け、王子を奥の円卓の所まで引きずっていった。
ナシェルの抗議の悲鳴は、途中からは罵り声に変じていた。
「放せ、放せ……っ!」
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