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番外編
かけがえのない日々㉔
しおりを挟む冥王の来臨した本当の理由、それは再建中の一号砦を視察するためであった。……ならどうしてコソコソ寝床に忍び入って来たのだろう、皆が起きている時間に堂々と手勢を連れて行幸すればよいのに……、とナシェルは思ったが、一方では、自分を驚かせようと前触れもなくやってきて、寝る間も惜しんで無償の愛を注いでくれた王への感謝もある。――おかげで寝不足にもかかわらず、体の奥にはあふれるほど闇の司が漲っていた。
――ああそうか、王はあのまま、ふたりきりで遠乗りに出たかったのか。
ぼやく様子で王のお忍びの真意を知り、ナシェルの口元には思わず笑みがこぼれる。
「良いではないですか。アシュレイドの麾下の彼らはここのところ兵卒に交じって泥まみれで土木工事に当たっているのです。それがこうして、思いがけず陛下に随行できる機会を得て、喜んでるわけですから。ふだん私の随行では、連中あんなに張り切りませんよ」
「単に、そなたと余が一緒に行動するのを見るのが珍しいのではないかな」
と言いつつも、王の、彼らを振り返る視線は穏やかだ。
冥王は騎士たちがついて来られるように、少々王馬の速度を緩めた。王子とふたり、できればこのまま彼らを撒いてしまいたい願望はあるのだろうが、それはそれで騒ぎになろう。軽口を叩いても判断は過たぬ父である。
顔にかかる黒髪を指で解くさまは凛として若々しく、生きてきた数千の歳月をまるで感じさせない。(……ついでに言えば風呂場での滑稽なひと悶着もまるでなかったかのようだ)
柳のような腰、闇に映える白皙の横顔。…自分と同じ姿形であるのに、王の表情は覇気に満ち、自分とはずいぶんと違ってたくましく見える。
口角の上がったその唇を見つめ、手綱をにぎる指を見つめているうちにナシェルは、熱かった王の体の感触を不意に思い起こし頬を染めた。胸の尖りにぶら下がったままの淫らなアクセサリーを思い出し、無意識に胸元に手をあてる。もう以前の自分とは違うのだ。
そうだった。貴方がこれをつけてくれた……
「ナシェル、大丈夫か?」
馬を寄せてきた王に呼びかけられ、はっと我に返る。
「――え、何がです?」
「痛むところはないかと訊いておる」
王はナシェルの体を見回してくる。
「特に、そこ」
無意識に触れていた左胸を指摘されて、ナシェルは慌てて手を離し、手綱を握り直した。
「え……と、もしまだ痛いと言ったら?」
「砦に着いたら上衣を脱ぎなさい、診てあげるよ。膏薬も塗ってやろう」
「……まだ土台の上に石組みがしてあるだけなのに? 脱ぐ場所なんかないですよ」
「将校の詰め所ぐらいはあるだろうよ」
「そこで人払いして私を裸にすると仰せですか。呆れるな……。
――大丈夫、もう平気ですよ。石の重みを感じていただけです。
……陛下こそお疲れなのでは?」
「平気だよ、そなたに愛の誓いをもらったからね。何にも勝る生命の糧だ」
冥王は歯の浮くような言葉を返した。だが確かに偽りなく、王にとって自分はそういう存在なのだとナシェルは分かっている。
「……そんなことを言うわりに、忙しい時は連絡のひとつも寄越さない」
「済まぬ済まぬ。だから暇を見つけては、こうして構ってあげておるのだよ」
王の口調はまるで愛玩動物でも飼っているような調子だ。ナシェルは自分よりも(恐らく何倍も)多忙な王に、そのような物言いをしてしまったことを悔いる。
恋人同士である以前にまず『父』と成神した『子』だから、基本的には自分のやることに干渉しないで欲しい、というのはナシェル自身の希望でもあった。
けれども『魂の伴侶』と定めた相手でもある、というのが難解な所で……、「一緒にいたいのに、常に一緒にいるのは嫌だ」という二律背反が生まれる。
ナシェルは独り立ちを終えた世継ぎとしては王と一定の距離を置きたいのに、伴侶としては放っておかれると寂しい、という矛盾を抱えている。過去には混乱する感情を、激しくぶつけたりもしてしまった。そうした矛盾をナシェルに抱えさせたのもまた冥王だからだ。そう、大前提としてそもそも父は、悪いのである。
しかしいま王は、ナシェルの抱えるそうした胸中の不整合をきちんと理解していて、ほどよく放任主義であり、ナシェルが求めるときは十倍もの愛で応えてくれる。
ナシェルは、これ以上王にどんな対応も求めるべきではないと、分かってはいるのだ。さっきのは、ただの我儘だ。困らせたくて言っただけ。
「……そのことですが陛下、お忙しい中わざわざお運び下さりありがとうございます。辺境の砦のことまで気にかけていただき」
ナシェルは前言を撤回したくて行幸への礼を述べた。こちらの心境の変化を悟ったか、王はニヤリと口の端を持ち上げる。
「うん――まあ、実のところはな、余が一切の連絡を絶つときというのは、そなたがしびれを切らしてせがんでくるのが嬉しくてな――先日のように。つい、させてみたくなる」
「……え?」
しびれを切らして王に、寵愛を…せがんだことが? あったな……、とナシェルは蒼ざめる。それも、つい最近。
では何か? それすらも王の得意の『焦らし』の一環であったか。自分はまんまと今も、王の仕掛けたからくりに操られているというわけか。
「……たまに音沙汰がないのって本当にそんな理由なんです?」
「はっはっはっは」
馬上で王は肩を揺らして笑い、明言を避ける。冗談か否かさっぱり分からない。
ナシェルは首をすくめた。まあいいか。せっかく幸福な気分を味わっているのだ、不機嫌になるのは勿体ない。……貴方の隣で風に乗るこの瞬間を、かけがえないものに感じている最中なのだから。
三号、二号という二つの砦を黒天馬の一団は軽々と跨ぎ越し、さらに三途の河の方面へと騎行する。
暗黒界は長大な洞窟世界であるが、『三途の河』あたりとエレボス城のあたりでは洞窟の内径に大きな差がある。
このあたりまで来ると、地上界へ向けて洞窟の天頂部はぐんと高くなり、視野が大きく開けてくる。
ナシェルは開放感に満たされて、体の裡に収めきれない神司を最大限に解き放った。――神司を大量にまき散らすと全方位から精霊が寄ってくるし、『自分はここにいる』と存在を大っぴらに宣言するようなものである。ナシェルは父とは違い、過去にこうした行為はほとんどしたことがなかった(宣言したくないような行動も取っていたし)。
しかし今、ナシェルは有り余るほどの幸福感に包まれていて、手当たり次第に出会ったみんなにそれを分けてやりたいほどの慈愛の念と、存在を誇示したいと思うほどの自信に満ち溢れていた。
解き放った神司はその瞬間、緩やかな闇の波動となって冥界の各小世界の隅々にまで届いたことであろう。精霊たちが暗黒界へ集まりだしていた。――王はナシェルの珍しい遊び心を眼を細めて見守り、手持ちの精霊をおもむろに全て切り離して、ナシェルに寄越してきた。
王が一切の神司を消し丸裸同然になったので、ナシェルは目を瞬かせて王を見る。めったにないことで驚いたのもあるが、父の精霊まで己の傘下にするつもりはなかった。
冥王は「好きにいたせ」とばかり、おちゃめに片方の眉を上げ下げして応じ、気配は消したままで鼻歌交じりに先へ進み出た。
精霊たちがすり寄ってきて、ナシェルの頬や手の甲に次々と口づけてゆく。
常世の全土の精霊を配下に収め、いまや死の神に歯向かうはこの血腥い向い風、……ただそれのみであった。
(次回でいったん終幕です)
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