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番外編
夢幻①
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――千年の孤独はとうの昔についえたはずなのに、 これは如何したことか。
冥王は、じめじめした暗がりに腰を降ろしている己を認識した。
いま彼の肉体は間違いなく、黒水晶に蔽われた黄泉の王宮の、己の寝台に仰臥しているはずなのであるが……、
なぜか魂だけは、形容しがたい死臭に満ちたこの地中の洞穴の片すみで、膝をかかえるようにして、地上と天上のあらゆる生命の耀きをいまだに呪詛していた。
ああ所詮いつものくだらぬ夢であろう。と、彼はすぐに理解した。
孤独が過ぎ去った今でも、疲れている時などは悪夢が時おり、こうして彼の精神を虫喰みに来る。
孤独には慣れているし、そもそも夢だと知っているのだから、取乱す必要はない。
ただひとつ問題があるとすれば、この類の夢は、一度はじまると途方もなく長いのだ。いつものことだ。
ティアーナが、……最愛の半身と引き換えに去ったあの女神が、降嫁したときと同じように夢の中に現れてはじめて、セダルはこの夢から覚醒めることができる。
……しかしそれがいつになるのかは不明だ。
のちに妻となる彼女がこの夢の中に出現するのを待ち続け、永劫ともいえる永い間をのたうち苦しまねばならぬ事もある。
(むろん、目覚めてみればいつも一晩とたってはおらぬのだが)
さてこの忌々しい夢よ疾く醒めてくれぬものかと思いつつ、セダルは低い魔物のような唸り声で、天を呪うための文言などを唱えて気を紛らわせた。
しかし当時と同じようにうずくまっていると、過去に置いて来たはずの痛みもつぶさに思い起こされ、冥王は独りじくじくと昔のように魂を蝕まれるのだった。
気の遠くなるような刻を、呪詛と悲しみの狭間で費やし、とうとう神としての理性と本性を失いかけた頃だった。
一条の気高い光明が突如セダルの元へ燦々と降り注ぎ、待ちわびた気配に彼がふり仰いでみれば、天上より降臨した女神が彼の正面に佇んでいた。
彼女は彼の記憶そのままに、この愚かしい夢の内にあっても柔らかい、慈愛の笑みを浮かべていた。
待ち焦がれたよ、我が妻。―――やっとこれで悪夢から目覚めることができる。
跳ねんばかりに立ち上がったセダルは、そこで異変に気づく。
ティアーナは有無を言わさず、両の腕をのばしセダルを抱擁した。
よく見れば彼女が着ているのは薄物一枚だけであって、それもずいぶん着崩れて、白い肌も露わである。
夢の中とはいえ、貞淑だった女神にしてはあまりに扇情的な姿だ。
む……? いつもの夢と何かが違う……。
ティアーナは訝しむセダルの衣服を寛げ、胸に唇を寄せる。
セダルは逡巡と喜悦との間を彷徨いつつ、女神の誘いに応じた。
本当に彼女であろうかという疑念も沸いたが、それも束の間のこと。
匂いは涙滂沱するほどになつかしく、
吸い合わす唇の感触は、遥か昔に死に別れた妻、そのものであった。
ティアーナはしかし天の女神とも思えぬ情炎を、うつくしい群青のまなざしの淵に迸らせて、セダルをまるで組み敷くかのごとく横たえ、彼の上に覆いかぶさる。
セダルは肌という肌を愛らしい舌にくすぐられ、思わず声に出して笑い、問うた。
些か急ぎ過ぎではないか?
女神の答えはこうであった。
「だって、急に貴方が欲しくなったのです。貴方は?」
余はいつでもそなたが欲しいよ、ティアーナ。
と、なつかしいその名を呼ばわり抱擁を重ねた途端。
彼女の透き通る藍瞳がギリ、と細まり、白い手は愛撫のためではなく明らかに、他の目的をもってセダルの顔に近づいてきたのである。
***
ほれ、なにを、ふるのら……?
しまらない声とともに、冥王セダルは長い眠りから醒めた。
場所は就寝した時のまま、…冥府の王宮の、自分の天蓋の中に居るようである。
しかし彼の上に跨っていたのは、死に別れた妻などではない。
「誰のことが、欲しいですって? この口め……! 今、なんと仰いましたか!?」
王に馬乗りになり口に指を突っ込み、両頬をギリギリと、口裂かんばかりに抓り上げているのは愛しい妻が遺していった、最愛の半身であった。
額いっぱいに青筋をたてている。
「――母上じゃなくて、すみませんね!」
「! おお、おお、ほなたか」
頬から指を、やさしくもぎ離す。ナシェルは尚もブツクサと口中で文句を垂れつつ冥王の手をふり払い、逆立ちかけた髪を後ろへ掻きやった。
――いつの間に寝所に這入ってきたのか。
見れば、仰臥する己も、颯爽とそれに跨る半身も、互いに半裸だ。
どうやら眠っている間に寝着をほどかれて、色々いじられたらしい。
いつもの夢とは毛色が違い、ティアーナがやけに扇情的に振る舞ったのは、王子のこの悪戯のせいだろう。
セダルはつねられた頬をさすり、寝言に亡き妻の名を呼んだことを愧じた。
ついでに己の雄が、すでに堅く漲っていることに気づく。……触られていたのか。
……狼藉の理由を目で問えば、
「せっかく私が臣下の目を忍んで逢いにきたというのに気づきもせず、いつまでもぐうぐう寝ているからですよ……。悪戯してたら起きるかなと思ったら、
『そなたが欲しいよ、ティアーナ、』……ですと?」
と、ナシェルは腹の上で未だめらめらと、殺気立っている。
脱がせる役がいないので自分で自分の腰紐をほどいたのだろう、
ローブの前袷せをはだけて、……むしろ全裸よりも淫猥な姿だ。
父を目覚めさせようと眠る体に色々いたずらしているうちに、我慢できなくなったというところだろう。
めずらしく自分から積極的に愛撫を重ね、そのうち王が寝言に口走った名が、自分のものではなかったのだから、ナシェルの怒るのも無理はない。首を絞められなかったのは幸いだ。
(もっとも、ナシェルは正真正銘、セダル神とティアーナ女神の間の子である。
そこで全く関係のない女の名を呼んだのならともかく……母でも駄目なのか?)
セダルは、匂い立つようなナシェルの裸身を己の上に伏せさせた。
至近に頬を引き寄せて、両手に挟みこむ。
「許せナシェル。長い長い、昔の夢を見ておった。ひとりきりで居た頃のな。
『ティアーナが救いに来る』という、例の段取りを経ずしては目醒めることの能わぬ夢だ」
ナシェルは驚いたように束の間、身を起こしかけ、セダルの顔を覗き込む。
「いまだにそのような悪夢を御覧になりますか」
「見る。時折な」
ナシェルは忸怩の表情を作り、先ほどつねったセダルの頬に触れた。
「すみません……、魘されておいでとは知らず無礼を致しました」
「構わぬ。今宵はティアーナではなくそなたが来てくれた。そなたが起こしてくれなければ、未だあの夢に囚われていたであろうから」
「……そう、ですか」
「さて、それより、そなた何か火急の用件があって参ったのではないのか?」
「火急の用件?」
ナシェルは、何か用事などあっただろうかと一旦視線をはずし、結局また王の胸の上にふわりと頭を横たえた。
「いえ、……まあこれが、用件というか」
「ほう、珍しい。どうしてまた急に?」
ナシェルは、根掘り葉掘り訊くなとばかりに暫く沈黙し、
「たまには、私から訪ねて来ちゃいけませんか。……い気分になったからですよ」
「何?」
「だからその、……したい、気分」
「何を?」
ナシェルは口を尖らせ、むくりと上体を起こした。
「分かっているくせにわざわざ言わせるなんて、本当に変態ですね!
い や ら し い こ と を、し た く な っ た か ら、逢いに来たんです。
幻嶺をかっ飛ばしてね。…ほら、言いましたよ。これで満足ですか?」
「うむうむ」
セダルは頬を弛ませ、ナシェルは逆に鼻を鳴らす。
冥王は、じめじめした暗がりに腰を降ろしている己を認識した。
いま彼の肉体は間違いなく、黒水晶に蔽われた黄泉の王宮の、己の寝台に仰臥しているはずなのであるが……、
なぜか魂だけは、形容しがたい死臭に満ちたこの地中の洞穴の片すみで、膝をかかえるようにして、地上と天上のあらゆる生命の耀きをいまだに呪詛していた。
ああ所詮いつものくだらぬ夢であろう。と、彼はすぐに理解した。
孤独が過ぎ去った今でも、疲れている時などは悪夢が時おり、こうして彼の精神を虫喰みに来る。
孤独には慣れているし、そもそも夢だと知っているのだから、取乱す必要はない。
ただひとつ問題があるとすれば、この類の夢は、一度はじまると途方もなく長いのだ。いつものことだ。
ティアーナが、……最愛の半身と引き換えに去ったあの女神が、降嫁したときと同じように夢の中に現れてはじめて、セダルはこの夢から覚醒めることができる。
……しかしそれがいつになるのかは不明だ。
のちに妻となる彼女がこの夢の中に出現するのを待ち続け、永劫ともいえる永い間をのたうち苦しまねばならぬ事もある。
(むろん、目覚めてみればいつも一晩とたってはおらぬのだが)
さてこの忌々しい夢よ疾く醒めてくれぬものかと思いつつ、セダルは低い魔物のような唸り声で、天を呪うための文言などを唱えて気を紛らわせた。
しかし当時と同じようにうずくまっていると、過去に置いて来たはずの痛みもつぶさに思い起こされ、冥王は独りじくじくと昔のように魂を蝕まれるのだった。
気の遠くなるような刻を、呪詛と悲しみの狭間で費やし、とうとう神としての理性と本性を失いかけた頃だった。
一条の気高い光明が突如セダルの元へ燦々と降り注ぎ、待ちわびた気配に彼がふり仰いでみれば、天上より降臨した女神が彼の正面に佇んでいた。
彼女は彼の記憶そのままに、この愚かしい夢の内にあっても柔らかい、慈愛の笑みを浮かべていた。
待ち焦がれたよ、我が妻。―――やっとこれで悪夢から目覚めることができる。
跳ねんばかりに立ち上がったセダルは、そこで異変に気づく。
ティアーナは有無を言わさず、両の腕をのばしセダルを抱擁した。
よく見れば彼女が着ているのは薄物一枚だけであって、それもずいぶん着崩れて、白い肌も露わである。
夢の中とはいえ、貞淑だった女神にしてはあまりに扇情的な姿だ。
む……? いつもの夢と何かが違う……。
ティアーナは訝しむセダルの衣服を寛げ、胸に唇を寄せる。
セダルは逡巡と喜悦との間を彷徨いつつ、女神の誘いに応じた。
本当に彼女であろうかという疑念も沸いたが、それも束の間のこと。
匂いは涙滂沱するほどになつかしく、
吸い合わす唇の感触は、遥か昔に死に別れた妻、そのものであった。
ティアーナはしかし天の女神とも思えぬ情炎を、うつくしい群青のまなざしの淵に迸らせて、セダルをまるで組み敷くかのごとく横たえ、彼の上に覆いかぶさる。
セダルは肌という肌を愛らしい舌にくすぐられ、思わず声に出して笑い、問うた。
些か急ぎ過ぎではないか?
女神の答えはこうであった。
「だって、急に貴方が欲しくなったのです。貴方は?」
余はいつでもそなたが欲しいよ、ティアーナ。
と、なつかしいその名を呼ばわり抱擁を重ねた途端。
彼女の透き通る藍瞳がギリ、と細まり、白い手は愛撫のためではなく明らかに、他の目的をもってセダルの顔に近づいてきたのである。
***
ほれ、なにを、ふるのら……?
しまらない声とともに、冥王セダルは長い眠りから醒めた。
場所は就寝した時のまま、…冥府の王宮の、自分の天蓋の中に居るようである。
しかし彼の上に跨っていたのは、死に別れた妻などではない。
「誰のことが、欲しいですって? この口め……! 今、なんと仰いましたか!?」
王に馬乗りになり口に指を突っ込み、両頬をギリギリと、口裂かんばかりに抓り上げているのは愛しい妻が遺していった、最愛の半身であった。
額いっぱいに青筋をたてている。
「――母上じゃなくて、すみませんね!」
「! おお、おお、ほなたか」
頬から指を、やさしくもぎ離す。ナシェルは尚もブツクサと口中で文句を垂れつつ冥王の手をふり払い、逆立ちかけた髪を後ろへ掻きやった。
――いつの間に寝所に這入ってきたのか。
見れば、仰臥する己も、颯爽とそれに跨る半身も、互いに半裸だ。
どうやら眠っている間に寝着をほどかれて、色々いじられたらしい。
いつもの夢とは毛色が違い、ティアーナがやけに扇情的に振る舞ったのは、王子のこの悪戯のせいだろう。
セダルはつねられた頬をさすり、寝言に亡き妻の名を呼んだことを愧じた。
ついでに己の雄が、すでに堅く漲っていることに気づく。……触られていたのか。
……狼藉の理由を目で問えば、
「せっかく私が臣下の目を忍んで逢いにきたというのに気づきもせず、いつまでもぐうぐう寝ているからですよ……。悪戯してたら起きるかなと思ったら、
『そなたが欲しいよ、ティアーナ、』……ですと?」
と、ナシェルは腹の上で未だめらめらと、殺気立っている。
脱がせる役がいないので自分で自分の腰紐をほどいたのだろう、
ローブの前袷せをはだけて、……むしろ全裸よりも淫猥な姿だ。
父を目覚めさせようと眠る体に色々いたずらしているうちに、我慢できなくなったというところだろう。
めずらしく自分から積極的に愛撫を重ね、そのうち王が寝言に口走った名が、自分のものではなかったのだから、ナシェルの怒るのも無理はない。首を絞められなかったのは幸いだ。
(もっとも、ナシェルは正真正銘、セダル神とティアーナ女神の間の子である。
そこで全く関係のない女の名を呼んだのならともかく……母でも駄目なのか?)
セダルは、匂い立つようなナシェルの裸身を己の上に伏せさせた。
至近に頬を引き寄せて、両手に挟みこむ。
「許せナシェル。長い長い、昔の夢を見ておった。ひとりきりで居た頃のな。
『ティアーナが救いに来る』という、例の段取りを経ずしては目醒めることの能わぬ夢だ」
ナシェルは驚いたように束の間、身を起こしかけ、セダルの顔を覗き込む。
「いまだにそのような悪夢を御覧になりますか」
「見る。時折な」
ナシェルは忸怩の表情を作り、先ほどつねったセダルの頬に触れた。
「すみません……、魘されておいでとは知らず無礼を致しました」
「構わぬ。今宵はティアーナではなくそなたが来てくれた。そなたが起こしてくれなければ、未だあの夢に囚われていたであろうから」
「……そう、ですか」
「さて、それより、そなた何か火急の用件があって参ったのではないのか?」
「火急の用件?」
ナシェルは、何か用事などあっただろうかと一旦視線をはずし、結局また王の胸の上にふわりと頭を横たえた。
「いえ、……まあこれが、用件というか」
「ほう、珍しい。どうしてまた急に?」
ナシェルは、根掘り葉掘り訊くなとばかりに暫く沈黙し、
「たまには、私から訪ねて来ちゃいけませんか。……い気分になったからですよ」
「何?」
「だからその、……したい、気分」
「何を?」
ナシェルは口を尖らせ、むくりと上体を起こした。
「分かっているくせにわざわざ言わせるなんて、本当に変態ですね!
い や ら し い こ と を、し た く な っ た か ら、逢いに来たんです。
幻嶺をかっ飛ばしてね。…ほら、言いましたよ。これで満足ですか?」
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