泉界のアリア

佐宗

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番外編

親愛なる者へ③

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「ではかの名手に鳥琴の教えを請うがよい。そなたも修練さえすれば、あれ位には弾けるようになるであろう?」
「鳥琴の名手になどなる気はありませぬ。聴かせる御方のお耳がその程度で肥えないようでは、いくら修練しても無駄というものです」
「そなたは修練するのが面倒なのであろう……何でもやればできる子なのに、やろうとせぬのは悪い怠け癖だよ」
「また子供扱いですか……」
 ナシェルは少し口を尖らせてみせる。

「けれど『余の耳が肥えぬから』というからには、そなたも余に愛の調べを聴かせてくれるつもりはある、ということだね」
「…そう聞こえました? その程度のお耳に入れるなら、私ごときの鳥琴の音で充分と申し上げたのですけど……」
「ではそなたも鳥琴を持っておいで」
「今は嫌です。せっかく聴こえてくる名手の音色が台無しになりますから。貴方も私に、恥をかかせるつもりはないでしょう……」
「では、後ほどな。皆が帰ったあとで、ゆっくりとそなたの音色を聞かせておくれ」

 王はナシェルの腰を撫でて薄く笑む。
 その指の動きは、弦をつま弾くときのような柔らかさ。
 ナシェルは妖しい指使いを拒んだりはせず、王の肩に頬を寄せる。
「もぉ…、いったい何の話してるんですか……」


 双りの神はそうして微かな調べにしばし耳を傾けた。
 満ち足りた様子の舟上の二人を目に焼き入れてから、ナシェルはそっと、瞼を閉じる。


 幸せになれ、サリエル。
 その男はお前を今度こそ、限りなく広い愛で包んでくれるだろう。
 もどかしい生き様にはいよいよ終止符を打ち、
 そなたはこれからこそ、幸せにならねばならぬ……。






  ……やがて、ナシェルは思い出したように懐から一通の手紙を取り出した。

「そうそう。ルゥからまた手紙が届いたのですよ」
「ほう……それを余に見せてくれるためにここへ来たのだね」
「そう。執務がまだ溜まっているので本当は、貴方の舟遊びに付き合っている暇はないんです。今日は特別ですよ」
「何か封筒に書いてあるようだよ」

 封筒には『命の精どうふうにつき、にいさまととおさまは ちゅういのこと。かならずサリエルがいるところであけてください!』と書かれている。

「何やら不穏な注意書きだな……」
「大丈夫ですよ」
 ナシェルはくすりと笑い、壁際の棚からレターナイフを探してきて、愛らしい花の絵の描かれた封筒を開封した。そうしながら、

「姫とたかが手紙をやりとりするのにサリエルの連れている精霊フェルミナが頼みの綱とは、なんとも遺憾な話です」

と恨めしそうに冥王を一瞥する。姫を天王のところに残してきた一件については、まだ融けきらぬ雪のように根深い遺恨がのこっているのだ。


 封筒を開けると煌々とした七色の光が放たれて、離宮の窓辺を彩色した。
 なかから現れたのはルゥに仕える命の精たち数匹で、王たちの視線の高さにふわわと舞いあがり、精一杯優雅にお辞儀をしてみせた。幼い女神と同じようにまだつたない仕草である。

 精霊たちは七色の燐粉を撒き散らしながら女神の兄と、父に、得意の踊りを披露してみせた。闇神の御前であっても臆する素振りはなく堂々としたもので、さすがはルゥの配下と思わせた。

 遠く聞こえてくるサリエルの鳥琴に、まるで合わせたかのような舞だった。


 王たちは言葉もなく、精霊の余興を微笑ましく見守る。遠く離れた姫からの、戯れめいた贈り物であった。

 ……やがて踊りを終えた精霊たちはまた優雅に一礼し、羽翅をふるわせて窓辺を飛び立ち、湖上にいるサリエルの元へ集まっていった。彼の支配下に……厳密にいえば彼の首飾りの支配下に入るのだ。

「手紙は入っておらぬのか?」
「……そのようですね、まったくあの歳ごろの娘にしては筆無精にもほどがあります。適当に精霊を踊らせて一体何を云いたいものやら」

 とりあえず姫が元気でやっているということだけは、伝わってくるのだが。

「ルーシェの面倒臭がりはそなたの遺伝だよ」
「よく仰います。私の成分はすべて貴方から分け与えられたものだ」
 ナシェルは名残惜しそうに封筒を覗き込み、逆さに振った。花の残り香が漂う。

 ナシェルは諦めて封筒をしまい、精霊たちの描いた光の軌道を追うようにして、湖に視線を投げた。
 いつしか鳥琴の音色は止み、大きな影に寄り添うように萌木の裾が揺れていた。



 窓枠に置いた手を、そっと後ろから持ち上げられる。
 何かが指に嵌められる感触に瞼を持ち上げると、自分の指に真新しく大きな蒼玉の指輪が耀いていた。

「……?」 
 怪訝な貌のナシェルに
地上界テベルには記念日に贈り物をする習慣があるということだよ」

と王は微笑みかける。何時の間に開けられたものか、傍の卓には飾紐リボンのついた、指輪の円い台座があった。
 記念日などという習慣は持たぬ彼らである。聞きしに及ぶそうした噂にかこつけた、王の道楽の一種であろう。

「またやけに凝った意匠の指輪ですね。石も大きい……」
「そなたの瞳に合う蒼玉はなかなか探しても採れぬよ。これは幻獣界の鉱山で三つだけ採れた石のうちの一つだ。矮人族の職人が精を込めて指輪に仕上げた。余のものと揃いでな」

 見れば冥王の同じ指にも、同じ意匠の指輪があった。但しこちらは紅玉である。

「そなたはいつもいつも飾り気がなさすぎるのだよ。確かにそなたの美しさはなまじな装飾品では却って損なわれてしまうかもれぬが、これほどの細工なら、そなたの美を損ないはすまい」
「そういう理由で身を飾らないのではありません」
 単に面倒だからだ。

「……三つ採れたとおっしゃいましたね。では残りの二つの石は?」
「あれに」
 王の示す湖上には、恋人達の語らう小舟がある。
舳先へさきに水乙女の像があっただろう。あの像の両眼にな、」
「それはまた何とも、贅沢な使い方をなさったものですね」
「そなたに与える贈り物には、労も贅も惜しまぬよ。あの舟もそなたにあげる。これからはそなたが余を舟戯びに誘っておくれ」
「……」

 そう来るか……。

「……どうしても私に下賜くださりたいと仰せならば貰っておきますけれど、だからといって見返りを要求されても困りますよ。
 残念ながら贈り物交換会とは聞かされていないので、私は貴方に差し上げるようなものを何も、用意してきていないし……」
 ナシェルは返しつつ、舟の舳先の灯火を見つめていた。

「そうか……それは、残念。でも余は、何もいらぬのだよ」
 王は零しつつ背後からナシェルの手を取り、指輪を嵌めた薬指の先をちゅ……と啜る。
 王の意を悟り、ナシェルは頬骨の上にほんのりと朱を刻んだ。

「……、」

 暫くの沈黙ののち、ナシェルは卓の上の指輪の台座から、飾紐リボンをほどいた。
 王と繋いだ小指の上にそれを、ゆるく巻きつける。
「……貴方に差し上げるものなど、何もありはしませんよ。だって私の全ては、貴方からいただいたもので出来ている」
 泳がせた双眸を、ゆっくりと伏せた。
「私がお返しできるのは、せいぜい忠誠と……」
 絡め合わせた小指を、離れぬようきつく握り、赤らんだ頬を隠すように王の肩に寄せた。
「貴方にこうして、たまに甘えることぐらいで……」
「それで充分だよ」
 王は満ち足りた微笑みとともに、空いた手でナシェルの頤を持ち上げ、唇を重ねる。

「今宵は存分に甘えてもらうとしよう……」


 影の溶け合う窓辺には千年樹の葉がひらひらと凋落し、暗く穏やかな幻霧の離宮の光景を、黄金色に彩っていた。






番外編「親愛なる者へ」 了




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