泉界のアリア

佐宗

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第四部 至高の奥園

55至高の奥園①

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 ……鬱蒼とした幻霧の森の奥に、途切れることのない水音と、四弦の琵琶の調べが響き渡っている。

 水音は、離宮の裏手の小さな滝から聴こえてくる。

 蒼く光る滝壺に流れ注ぐ水は、かの三途の河ステュクスの支流にあたる忘却の河レテ河の、そのまた名も無き支流から運ばれてここに至る。この場所でゆったりと澱んでから、その清水は離宮のテラスの脇をとおって湖水に注がれ、水面に咲く黒睡蓮の糧となる。

 離宮そのものの原形である千年樹もまた、この清水によって育まれてきた。
 この地のほかの木立とは異なり一本だけ白い幹をした大樹である。枝ぶりは広く、湖に張り出して重たくたわんでいた。

 この幻霧の森におこる数々の不思議な現象の原因であると云われているのが、その千年樹の花粉だ。吸った者に甘やかな幻覚を見せ、湖水のなかに招いて陥れるのだと云われていた。



 千年樹の下にあるのが冥王の離宮である。
 白く重厚な幹をくりぬいて造られた居住空間は、王とその半身のみが使うにはあまりに広大であった。
 たくさんの居間と寝室。その窓辺という窓辺に、黄金色の木の葉が舞い散る。遠くのほかの木々からは、梟の声が聞こえてくる。



 ……桟橋につながったひときわ大きなテラスでは、寝椅子の背に凭れかかった王が、戯れに琵琶をつま弾いている。
 卵型の胴に細長い棹のついた弦楽器で、胴部分には貴重な螺鈿らでん細工の装飾が躍っていた。



 湯浴みを終えたナシェルはテラスを通り抜けて湖面に張り出した桟橋に出、たぷたぷと穏やかに揺れる水面に白い相貌を映しながら、精霊たちに接吻を許した。

 死の精らと闇の精らは集まり出でてナシェルの指先に次々と口づけし、去辞とともに飛び去ってゆく。

 湖水の下から顔を覗かせた水乙女たちが、彼らと同じように指先に接吻したがるので、ナシェルは長い脚を折ってかがみ、それを許した。湯上りガウンの裾が桟橋にふれる。

 水妖たちは湖面からのっぺりした顔を覗かせて、冷たく濡れた手でナシェルの手の甲に触れ、伸びあがって頬をすり寄せた。

 またある者は、下垂して水面に届かんばかりのナシェルの黒髪に触り、
『お世継ぎさま、御ぐしを是非に一本賜りませ。我ら水女みずめの一族の宝と致しますゆえ』
などと精霊語でせがむのであった。

 ナシェルは微笑してひとすじの髪を彼女らに与え、音もなく立ち上がる。
 彼女らはたった一本の黒髪を大切に押し戴いて水の中に掻き消えた。




 桟橋からテラスに戻ると、王は寝椅子の上で、琵琶を傍らに置いてもの憂げに瑠璃色の杯を燻らせている。
 卓上に置かれた愛用の細長い煙管からは、ほのかな甘い香りの煙が上がっていた。

「もう演奏は終いですか? 耳に心地よい音色でしたが……」
「弾きすぎて指の感覚がないのだよ。そなたを待ち侘びすぎた」

 冥王は瑠璃杯をもつ手を「おいで、」と拡げ、寝椅子の上に伸ばしていた脚を床へ降ろした。
 そうして王がつくった居場所に、ナシェルは収まるように身を丸くして坐り、王の広い胸に背を預ける。

 王もまた配下の精霊たちを切り離しており、離宮の窓辺には、双神をおいて他には誰の姿もない。
 さらさらと常闇をく風が落ち葉を掃き、湯上り姿のナシェルは少し慄えて、王の抱擁を求める。

 還るべき腕のなかに抱かれる、至福の刻であった。



「湯浴みなどせずとも良かったのに。此処へ来た時、そなたからは、沈丁花の花の香りがしていたよ」
 王はナシェルを抱いたまま黒髪をひと房手にとって、背後から口づけした。

 ことさらそのように花の名などを持ち出すのは、『ルーシェのこと、首尾よくいったようだね』という意味の婉曲的な表現に他ならない。

 ナシェルは自分が着てきた服の懐に、姫からの手紙を入れたままであるのを思い出した。姫の体温を感じられるような気がして肌身離さず持ち歩いていることを、父はきっと分かっていてそう言っているのだろう。……湯殿で脱いでしまったが、あとで父にも手紙を見せよう。

「……貴方からは幻花の匂いがしますね」
「花びらをひと房、煎じて焚いただけだ」

 王は頭上に張り出した千年樹の枝をふわりと見上げた。常闇の地底には似つかわしくない白の花が、枝先にちらほらと咲いている。幻覚作用をもたらす花だ。

「花の見せる幻に、酔っておられたのですか?」
「さてどうだろう……。酔っているのか否か。腕の中のこれは、果たして現か幻か。余はそなたに逢いたさに、酔夢を見ておるのやもしれぬ……」
「……本物ですよ私は。ほら」

 ナシェルは上半身をひねり、王と向き合った。長い指をぴんと閃かせ、とりとめもないことを云う王の頬を、ぎゅっとつねってみせる。

「ほらね」

 王は頬を引っ張られたまま微笑い、まだ少し濡れているナシェルの前髪を掻き上げた。

「……ちっとも痛くないよ……ああ、やはり夢なのであろうなぁ」
「もう……痛みも感じないなんて、おめでたい酔っぱらいだな」
「そなたも酔うてみるか」

 王は傍らの卓上に手を伸ばし、長煙管を取ってナシェルに近づけた。依存性の高そうな、甘い香りが鼻をつく。

 少し躊躇いつつも、唇を近付ける。
 そうして王の手にした煙管の吸い口を、口咥くわえた。
 すっ…と息を吸うと、じんとした痺れが急速に、鼻腔から頭蓋に拡がっていった。
 煙のきつさに少し顔を顰めたナシェルに、背後から王が囁く。

「苦手か?……」

 紅のひとみの奥に、つねの如き、陰鬱で嗜虐的な焔が躍りはじめていた。
 ナシェルは離れてゆく煙管に、唇を再度近付けた。脳が麻痺にも似た陶酔感に覆われてゆく。

「ん……。いいえ――もう少し、酔わせて……」

 ――貴方の見せる幻夢ゆめに。

 ゆらりと立ちのぼる、ほのかな背徳を愉しんだのち、双りの神はどちらからともなく裾を掃いて寝椅子から立ち上がった。

 …そしてより濃密で不道徳な刻に身を委ねるため、眸の奥に互いを映したままテラスの奥の寝閨ねやへと、いざない合う。





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