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第四部 至高の奥園
42再び焔野を翔る①
しおりを挟む常闇の都のすべてがすでに、この日の営みを始めていた。
いったん自分の居室に戻って湯浴みをし、騎装を整えたナシェルは、正式な暇乞いをするため階下に降りて外殿あたりを探したが、冥王の姿はなかった。
捕まえた臣に聞けば、この日は未だ外殿の玉座の間にも審判の間にも降りて来てはおられぬという。
……何も告げずにどこへ消えたのか。気まぐれな王のことであるから己を抱いただけでは飽き足らず、後宮の側女のところへでも出直して、そのまま後寝でもしているのだろうか?
いやいや、まさかな、それはあるまい……と思いつつ、一度そのような想像を働かせるとなかなかうち払うことができない。
結局ナシェルは自分の想像の中ながらも憮然として、優美な眉をふたたび吊りあげ、王を探すのをやめて外の厩舎に降りた。
長滞在をしていた王子が愈々領地に帰るとなれば公爵たち・重臣たちの見送りがあってしかるべきだが、肝心の王に見送る気がないのであればわざわざ帰ることを周囲に触れまわる気にもなれぬ。ひと知れずさっさと帰途につくつもりであった。
拗ねているのかと問われれば『断じて違う』と答えるナシェルだが……表情からしてそれは明らかだ。
厩舎の前には広い馬場があり、王の所有である数頭の黒天馬が軽い運動をこなしていた。どれも神馬・闇嶺の血を受け継ぐ二世代目、三世代目の駿馬である。そのなかにはナシェルの愛馬・幻嶺も含まれる。
暗黒界から精霊の先導で長旅をしてきたにも関わらず、幻嶺は疲労を感じさせぬ軽やかな足取りで馬場を巡っていた。そしてナシェルの姿を認めると鼻を鳴らして擦り寄ってきた。
「幻嶺、元気にしていたか……長いこと、留守にしていて悪かった」
最後に騎乗したのはいつだったか……。謝罪を込めて鼻先を撫でてやると、愛馬はまったくだと言わんばかりに、憤慨と甘えを込めて服の袖を喰んできた。長年の付き合いなのでもう遠慮というものがない。
厩番の侍官らがナシェルに畏まりつつ、幻嶺の背に鞍を用意しはじめた。
馬場の木枠に背を凭せかけ、馬の準備が整うのを待っていたナシェルは、上空を飛翔して向かってくる大いなる気配に気づいた。
「……父上か、」
腕を組み、見上げた視線のはるか先には、暗欝なこの地底世界の天井部がある。上空に立ちこめる瘴気がどす黒い雲となって、驟雨の兆しのようにもやもやと渦巻いている。
その赤黒い靄を背景に、漆黒の騎影が宙空を飛翔していた。
軽やかな足捌きで虚空を蹴る馬脚。はためきごとに豪風を立てる、青みを帯びた翼。
――王の黒天馬、闇嶺であった。
……こちらは気を失うほど翻弄されたというのに、王はさんざんナシェルを啼かせたその翌朝に、乗馬を愉しむ余裕さえあるのだ。
神司の高まりに冥王ととうとう肩並ぶ日が来たかと満悦したのも束の間、こうして日々、格の違いを見せつけられるのである。やはりバケモ……いや、神格でいえばまだまだ王が遥かに上ということか。
――もっと王の援けにならねばと誓ったばかりなのだが、そんな考えはもしかしたら烏滸がましいのではないか、という気がしてくる。
優雅な朝の散歩を終えた闇嶺は、翼を水平にして空を滑り、旋回しながら徐々に降りてきた。
畏まる侍官らの前でナシェルだけは腕を組んだままつんと仁王立ちで、降臨した王馬を出迎えた。
寸分の狂いなく馬場の中央に馬を着地させたのち、手綱を引いて闇嶺の興奮を宥めつつ、王は穏やかな笑みをナシェルに向ける。
「おはようナシェル……やっと身支度が整ったか?」
蒼黒毛の神馬の背からは、ほてった汗が湯気のように朦々と立ち上っていた。
「……何処へ行かれたかと思っていたら、呑気に朝の散歩ですか?」
お寝坊さんだね……、という揶揄の込められた王の眼差しに、ナシェルは棘のある口調で応じる。
むろん、これには目醒めたあとの『後戯』の愉しみがなかったことに対する偏僻が過分に含まれている。――激しく愛し合った翌朝には、体を労わるように軽く愛撫されたいし、体調を気遣われながら口づけ越しに、優しく司を与えられたいのだ。ぷんぷん、である。
「お姿が見えませんでしたので、危うく挨拶なしに出立するところでしたよ」
ナシェルの尖り気味の唇を見て冥王はその内心(の我儘)を察したはずだが、侍官らのいる手前、含み笑いをこぼすだけでそのことには触れない。
「挨拶もなしに? そんなことはさせぬよ。ちゃんと上から幻嶺の姿があるのを確かめておったのだからな。
――さぁ、では参ろうか」
冥王は楊木のごとき長身をわずかに仰のかせ、馬首を巡らす。普段の裾の広がった豪奢な装束ではなく、引き締まった体躯に馴染む乗馬服と軽具足を纏い、ナシェルと同じように黒いマントを肩に羽織っていた。鎧こそ着けてはおらぬが神剣まで帯びている。
半身の壮麗な騎装に不覚にも目を奪われながら、ナシェルは問い返した。
「……参ろうかって、どこに?」
「途中まで送ってあげるよ」
「ありがたいお言葉ですが…いいですよ別に…ひとりで帰れますし……」
いい歳をした自分がたかが領地に帰るのに、途中までとはいえ父に付き添われるなどなんとも微妙な気分になる。
気恥ずかしさから謝辞しようとしたが、端から遠出のいでたちをしている王は闇嶺の背から降りるでもなく告げ直した。
「まあそう言わず、ついて参れ。そなたに見せておきたいものがあるのだよ。
暗黒界へは少し遠回りになるがな……」
「……見せておきたいものって?」
訝しげな王子の問いには答えず、冥王は手綱を振り上げ馬に一声を浴びせた。
瞬間、闇嶺は爆発的な勢いで土を蹴り、再び宙に舞った。
馬場の砂が竜巻のように渦を巻き、侍官らの衣が揺れる。
どこへ向かうというのだ。
王の気紛れと強引さは別に今に始まったことではない。常世を統べる独裁者らしいといえばそれまでだ。……が、付き合わされる身にもなってみたらどうなのだ、とナシェルは嘆息しつつ、諦めて幻嶺の手綱をとる。
強引さのほうはともかく、気紛れのほうの血は己にも確かに受け継がれている。
……それは猫の光彩のように変わりやすい己の気分を顧るに、しばしば感ずるところであった。
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