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第四部 至高の奥園
38氷瀑の棺①
しおりを挟むそんなことがあったばかりであるから、明日はいよいよ暗黒界へ帰還するというこの宵、ナシェルの閨に王の訪れはなかった。ナシェルのほうとしても、それはそれでありがたいことだった。まだルゥへの想いに心乱れていて、王と顔を合わせてもどんな表情をすれば良いのか分からなかったので。
独り寝のその夜、ナシェルは酒気を抜くために再び王宮の下層などを徘徊した。
さすがに二日酔いでの長時間の騎旅は辛い。暗黒界は幻嶺の翼と脚をもってしても、一日以上はかかる行程である。
まだ哀しみに心は泥んでいたが、それとは別個に、臣たちの待つ暗黒界に一刻も早く帰投せねばならないのだ。
通ったことのない回廊を選んで歩む道すがら、あるひとつの廊下でファルク・ヴァルトリス公爵にばったり出くわしてしまった。
ファルクは見知らぬ立派な扉の前で、何かを待つが如く腕を組んで佇んでいた。
「おや、殿下……。よもやこのような下層階で貴方様にお目にかかれるとは」
歩んできたナシェルに気づくと、ファルクは丸眼鏡の奥の瞳に微笑を浮かべた。彼は凭れかかっていた扉から背を離して一礼しながら「今宵はついてるな……」と独白する。
ナシェルは無視して通り過ぎようとしたが、ファルクの背後の扉がふと気にかかった。
「……公爵。貴様の後ろのその部屋は何だ」
「……柩の間でございますよ」
ファルクはしばしの躊躇いののちに答えた。
「柩の間……? 誰の」
この冥王宮にそんな場所があるとは聞いたこともなかった。誰が柩などを必要とするというのだ。
ナシェルや冥王といった神族は、死すればその肉体は砂塵と化し、精神は三界の上にあるという創世界に転位する。
それ以外のすべての冥界の住人……つまりここにいるファルクなどの魔族は、死すればその魂は肉体から離れ、この冥界に散る精霊に変ずるのだ。
抜け殻となった肉体は、炎獄界の焔を種火に火葬されるのが常であった。
因って柩などを必要とする種族はここ冥界にはおらぬ、ということになるのだが。
ナシェルは眉をひそめ『柩の間』の前に立つ。
だがファルクは脇へ寄りもせず、ナシェルの目前に立ちはだかっていた。
「そこをどけ、ファルク」
「……今はお止しになられたほうがよろしいかと」
「なぜだ? 私は今、その棺とやらを見たいのだ。もう一度言う。そこを退け」
有無を言わせず傲然と命じると、ファルクは諦めたように息を吐き、脇へ退いた。
「…………」
ファルクは妖精の手を模した典雅な取っ手に指を掛け、戸を押し開き、王子を中へと促す。そうしながら小声でナシェルに囁きかけた。
「……仕方がありませんね……。貴方様を入れてはならぬとの命令は、陛下から承っておりませんので」
「なに?」
思わず振り返ったナシェルの目の前で、重厚な扉は外より閉ざされた。
静謐な闇に覆い尽くされた室。
ナシェルの群青の瞳の先に、ぼんやりと仄光りを放つひとつの棺が置かれていた。
氷の蒼をした柩。誰が眠っているというのか……。
同時に、ナシェルはファルクの言葉の意味を悟った。
柩のすぐ脇に、氷蒼色の仄光を受けながら佇む優美な影がある。
柔らかな神司を発しながら。
控えめでも、それは翅虫を誘き寄せる陰光の如く、蜜虫を招き寄せる花香の如くナシェルを、見えない糸で手繰り寄せるのだ。
「驚いたな。そなたがここへ参るとは……。姿や神司のみならず、余に行動形式までもが似てきたようだね」
静かに呼びかけてくる声には、慈愛と幽かな笑みが混じっていた。
「それとも余の司に識らずと導かれたのかな」
ナシェルはそれには答えず、柩に眼差しを注いだ。
「何をしておられたのです。……その氷の柩に眠っているのは……誰、ですか」
冥王は優しい声色でナシェルを呼び寄せた。
「そなたもここへおいで。そしてその眼で確かめるが良い。神にも魔にもなり損ねたそなたの異母弟の骸を」
「……エベール……」
ナシェルは息を詰めながら、ひんやりとした冷気を漂わすその柩に近づいた。
父の脇に立ち、共に見下ろす。
室温の中にあっても融けぬ氷の柩は、おそらく永久凍土の氷を運んで誂えさせたものなのだろう。急峻な冷気が蒼白い靄となって、長方形の匣全体を包み込んでいる。
そしてそこに横たわっていたのは、王の怒りを買いファルクの毒に弑された異母弟に他ならなかった。
安らかな顔を見たとたん、自分が異母弟に対して抱いていた憐憫、そして欺かれたことに対する憎しみ……、そうしたものが脳裏に再来する。
……だが忘れよう。もう、すべて、済んだことだ。
父がナシェルのためにこの者に下した断罪。
父が子殺しの責を負わねば、己が復讐者となって弟殺しの罪を犯していただけのこと。
父上はエベールを悼むためにここを……。
ナシェルは、父に倣い哀悼するつもりで、エベールの寝顔を見つめた。
濡れたような黒羽色の髪、潤んだ黒曜の瞳。とうに青年でありながら少年のようなあどけなさを残す、妖艶な美貌の半神半魔の王子エベールは、まるでまだ息をしているような瑞々しさを保ったまま氷の奥にあった。
両眼は閉じておらず、くっきりと見開かれて彼ら双神を見上げていた。
「………………?」
生きている…? いや、違う……。
しかし魔族の骸とはなにかが、違う。
「なぜ、この者は、」
ナシェルは亡骸の異変に気づいて声を震わせた。
「なぜこの者は魂を残したままここに在るのです。魔族の魂は死すれば我らの配下の精霊に変ずるはずでは……!?」
エベールの魂は肉体から抜け出ておらず、体とともに氷の奥にあることが、ナシェルにははっきりと分かった。
しかし魂は肉体の裡にあってももはや鳴動はしておらず、一切の活動を止めていることが感じ取れた。
魔族にとっての死は、その魂が精霊となることで完了する。
つまりここに眠るエベールは、魔族としての死を完全に迎えたわけではないのだ。もはや生きてはおらぬが、死を完遂したわけでもない。人間に譬うるならば脳死状態とでも云えばよいのか……、中途半端な死の光景に、ナシェルは驚きの声を上げた。
「生きて神となりえず、死して遂に魔族とも成り得なかったということだ」
冥王は血の色をした双眸を柩に注いだまま言った。
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