泉界のアリア

佐宗

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第四部 至高の奥園

23冥府神の系譜⑤

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「父上、父上!」
 ナシェルは絞り出すような声で父を呼ばわった。我を忘れて言葉をぶつけた。

「貴方が私のことを大切にしながら、同じ重さでこの世界の将来を案じてこられたことはよく判りました。
 ひるがえって私は、貴方の用いた手段のほんの一角しか見えていなかったがために、貴方の行動を無神経だと罵ったり、憎もうとしてみたり、反撃しようと足掻いたりしてきました。
 私にはどう転んでも貴方のような考え方はできません。貴方の懐の大きさに比べて、私の想いの何と狭小だったことでしょう。

 ――貴方の勝ちです。というより私が貴方に勝っていた瞬間など、これまで一度もなかった。私はそれは認めます。降参という言葉が聞きたいなら、幾らでもこの場で言います。
 ですから……ですから、」

 ナシェルは言葉を探して何度も息を吸う。
 心の殻を剥ぎ落とした叫びが、口をついて溢れ出す。

「前言を撤回してください! ――消滅する時がくるなどと言わず、永劫に私の王であり続けると言ってください。
 貴方はいつも自信に満ちておられたではありませんか。気ちがいみたいな愛情を振るって、それこそ私を貴方と同じように狂わせておきながら、迷いなど微塵もなかったではありませんか!
 私は貴方に未来永劫、束縛され続けるものだと確信していた。そんなもの思い返せば根拠のない確信でしたけど、だからこそ反発心を抱き、そこから逃れようとすることに生き甲斐を見出してきた……。
 なのにいま突然貴方は私を、いつか放り出すから覚悟しろとおっしゃっている!

 貴方の狂った愛情を吸って生きてきた私にとって……それは……、恐怖以外の何物でもないんです!
 父上は私のことは全て知っているといつもうそぶいているくせに、なぜそんなことが分からないんですか!?」

「ナシェル……。言ったであろう。我ら神にとて永遠などどこにも存在しないのだよ。そなたの王であり続けると、約束はできない」
「……私をそんな風に脅迫しないで下さい。貴方がいなくなるかもしれないなんていう、考えもつかないような漠然とした恐怖などで、私をこれ以上苦しめないで下さい。私が本当に欲しいものが何であるのか――父上はちゃんと分かっておられるでしょう!?」

「――そなたの本当に欲しいもの。それは一体何だろう? 前は『自由が欲しい』と言っていた気がしたが、……そうではないの? ちゃんと言葉で伝えてくれねば分からぬよ」

 この期に及んで王は顔をほころばせる。『そなたの魂の叫びをついに得た』と、両腕を掴んで揺さぶられたまま勝利の喜びに浸っているようだった。

 ナシェルは頬のいちばん高いところに紅い羞恥の印があらわれるのを自覚しながら、深く息を吸った。抱え込んだ王へのさまざまな感情で、頭がどうにかなりそうだった。でも今、伝えなくてはならないことはただ一つだ――

「貴方のつくる檻です! どうか貴方の囲いの中で生きさせて。
 今まで私が欲しがったものは全て、貴方を混乱させようとしてついた嘘でした。だから忘れて。
 白状します――本当は自由なんて別に欲しくない! お願いです、永遠に私を繋ぎとめると言ってください!」

 王の手がゆっくりと動いた。袖をつかむナシェルの指をもぎ離し、再びナシェルの頬をとらえた。
 頬を包み込む十本の美しい指。その合間を、幾筋にも分かれて流れおちてゆく雫がある。

 ――ああ……馬鹿馬鹿しい。なんで私は涙など流しているのか?
 それもこれに向かって愛の告白を羅列しながら……。

 至極冷めた感情が、己の中のどこかで、鼻をすするナシェルを阿呆らしげに眺めている。
 いつも冥王の前で防御を張るその冷え冷えした感情を、今は真実の己が背後から勢いよく蹴り倒して、心の殻に隠されていたものが涙の雫となって表面にあふれ出ていた。

「ね、父上――」

 溺れた者が救出を待つような、息も絶え絶えなその涙声に応じて、王の顔が近づけられた。
 泣訴を吸い込むような口づけ。
 今度は喉に蓋をするほどの勢いで、舌が割り込んでくる。
 熱い奔流を口の中に深々と受け入れながら、ナシェルはまたひとつふたつ子供のようにしゃくりあげた。

「―――愛しているよ。愛している。余にはそなたしかおらぬ。黙っていて済まなかったね……背負ってきた秘密もなにもかも、全てそなたのためだったんだよ……ごめんね」
「分かってます……謝らないで。分かっていたけど貴方のそういう愛をずっと重荷に感じていました。時には信じられなくて、憎らしくて、逃れたくて。……だけど今は、あまりにもちっぽけだった自分自身が許せなくて」
「ナシェル……、」

 縺れあい、応接椅子の上に伏してゆきながら、双面の神々は互いの体を引き寄せる。

 途端、数え切れないほどの口づけが押し寄せてくる。髪に、額に、瞼に、頬に、首筋に。
 ひとつひとつの中にいつもと変わらぬ熱い想いを感じ取りながら、ナシェルは胸の奥でのみひたすらに、それに応えている。
 もう二度と恥ずかしくて言葉には出せないような想いを、涙の一粒一粒にのせて。

 ――愛してる。もうずっと前から貴方を愛してた。認めたくなかっただけで。
 あなたの束縛のない世界などあり得ない。
 そんな世界は、私に生きている実感を与えない――

「愛してるよ、ナシェル。余もずっとそなたの王でいてやりたい……永遠に繋ぎとめると約束してあげたい。そなたの我儘をかなえてやりたいよ」

 寝間着を解かれたナシェルは全身に口づけを受けながら譫言うわごとのように、ずっと離さないで、何処にも行かないで、束縛して、と哀願した。

 王は宥めるような甘い声色でただ「愛してる」を繰り返す。落ち着かせようとしているなら、それは失敗だ。なぜなら王の囁き一つごとにナシェルの中で血の流れがどくどくと速まってゆく。
 王に向かって一つの激情の奔流になってゆく――


 ふたりの黒髪が床にまで流れ落ちて、広がっていた。

 室内は静かだった。暖炉の焔の時おり爆ぜる音と、ナシェルの嗚咽だけが今を彩る音楽であった。
 父に圧し掛かられ、急に脇腹のあたりに鋭い痛みを感じた。

「痛て………痛いッ……何か、角ばったものが……当たってる……」

 ナシェルが悲鳴を上げると冥王は思い出したようにむくと起き上がり、長衣の袂に手を入れて何か取り出した。

 黒曜石の大きな御璽だった。魂の審判に使うあれだ。
 なんでこんなものが今、袖から今出てくる。
 と絶句するナシェルの前で、冥王は悪戯ぽく微笑した。

「――忘れていた、余は審判の間にいたのだよ。そなたが目を覚ましたと聞いて慌てて飛んできたので、持ってきてしまったらしい」
「審判の最中!? それじゃ――こんなことしている場合では」

 冥王はしかし躊躇いなく、御璽を床に放り捨てた。
 ナシェルに最後まで云わせずに覆い被さってくる。

莫迦ばかをいえ。
 そなたの愛を確かめること以上に、いまこの瞬間、余が成さねばならぬことなどあるものか!」

 情欲の坩堝の中に、ナシェルの身と心をぐずぐずと浸してゆきながら、冥王は彼の求める残酷な愛の言葉を繰り返し囁いて、彼を導いてゆく。
 言葉の合間に、首筋に噛みつくように口づけを施す。

「そなたを、声が嗄れるほど沢山啼かせてあげる。――覚悟はできているね?
 幾千の夜のまぐわいをあわせても、この一夜には及びもつかぬと後で思えるほど、激しくだよ……」
「臨むところです」

 ナシェルは半泣きのまま、嬉しくて笑った。

「空っぽになってしまった私のこの躯を、貴方の司でいっぱいに満たして。
 私の躯は穢れてしまった……貴方の清めが欲しいのです――我がきみ

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