泉界のアリア

佐宗

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第四部 至高の奥園

16水甕に浸され①

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 とにかくも、今はあの話が先だ。後回しにするわけにはいかない。
 むろん己とて再会の喜びは同様だし、大きな愛に今すぐにでも包まれたい気持ちはあるのだが。


 冥王は、ナシェルが悲愴なまでに両足を踏みしめているのを見て嘆息し、胸の前で腕を組んだ。

「……仕方ないな。聞いてやるから早う話せ」
 ……まずい、怒らせたか? 少々雲行きが怪しい。

 足元のおぼつかないナシェルはやはり壁際の飾り棚に手をつき、何とか立っている、という状態だ。己の腹の奥にも不穏な空気が沸いてくるのを押し止めつつ、極力、静かにナシェルは話し始めた。

「ルゥのことです……、父上。すみません、どうしてもこの話を……後回しにするわけにはいかないと思って。貴方もルゥの瞳の色が違うことにお気づきになったでしょう」
「……分かっておるよ。余もずっと、いつかそなたとその話をせねばならぬと思っていた」

 え……?
 ナシェルは聞き咎め、思わず眉を動かした。

「ずっと? では……お気づきになっておられたのですか。ルゥの……本当の父親が私だということに」
「……むろん知っておったよ」

 冥王は紅の双眸を静かに閉ざした。その表情を読み取るのは難しい。

「そう……ですか。薄々、そんな気はしておりました。父上、ずっと隠していて申し訳ありませんでした。ルゥが生まれたときに、すぐに懺悔していれば良かった。でも、言えなかった。父上の怒りが恐ろしかったのもありますが……本当は貴方を、傷つけたくなくて」
「……傷つく?」
「私が裏切っていたことを知ったら、傷ついたでしょう?」
「ああ、そうか……」

 冥王の反応は感情を排した者のように希薄だった。
 少々の違和感を覚えつつ、ナシェルは続ける。

「……セファニアと関係したのは嫉妬からです。父上が……私を神司で束縛し、私を愛していると云いながら、ある時突然継母上セファニアを連れてきて……。
 私は、父上が私を突然、束縛から解放したのだと思った。ちょうど暗黒界を下賜くださった後でしたし……。
 それまでしっかり鎖に繋がれていたのに突然手離されたようで、私は不要になったのかと思って、わけが分からなくて、私をそれまでめちゃくちゃな方法で育ててきた父上が憎らしくて、父上に嫁いできたセファニアにまで悪感情をいだいていました。
 暗黒界の領主として独立して、むこうで私は毎日貴方がセファニアと過ごすところを想像して、せいせいするのと同じぐらい腹が立って仕方がなかった。嫉妬の感情とは認めたくなかったけど、どう考えても嫉妬でした。
 私は、私をそんなみじめな醜い気持ちにさせた貴方に……一度でいいから衝撃を与えてみたかった。一度、こっぴどく貴方を裏切ってみたらどうだろうと、ふと考えました。それで……貴方が留守にしている間に、セフィに……あんな、酷いことを」

 冥王は目を閉ざしたまま聞いている。

「……でも、セファニアは逝ってしまって、ルゥだけが残って。父上が感情を殺しながらも静かに歎き悲しむ姿を見たら、もう自分がした裏切りのことなど口に出せなくなっていました。
 セフィとのあの辛い別離わかれのあとに、憔悴している貴方に『ルゥが貴方の子じゃない』なんてひどいこと……とても告白できなかった。

 父上を裏切って復讐してみたかったのは本当は、セフィに嫉妬したあの一瞬だけだったんです。あの一瞬の過ちがきっかけで……、ずっと貴方に嘘をつき続けなくてはならなくなって」
「……そうだったのか」

 冥王は溜息とともに言葉を吐き出した。

「そなたの気持ちを考えず、セファニアを迎えたことで、知らずのうちにそなたを傷つけていたのだな。ナシェル、許せ、余は……」
「ま、待って、なぜ父上が謝るのです。謝るのは私のほうです。今さらもう遅いかもしれませんが……裏切っていたこと、申し訳ありませんでした」

 ナシェルは伏せていた蒼い眸を上げ、根本的な問いを投げかける。

「ですが、父上。気づいておられたなら、なぜ黙っていたのですか?
 私は……貴方にばれないように、ヴァルトリス公に目の色を誤魔化す薬まで作らせて小細工していたのに。嘘に嘘を重ねて、……どんどん後ろめたくなって、貴方に会いたいと思っても、もう自分の言動すべてが怪しく思えて、ばれるのが怖くて。精神的にもぎりぎりで、おかしくなりそうだった」

「……余もそなたとの距離を測りかねていた時期があった。そなたは余に自由をくれと言っただろう。それで余は、もう子供のころのようにはいかぬのだと思い、そなたの望み通り少々好きなようにさせてやろうと思っていた。
 それでもそなたはいつも結局、余を求めて戻ってきたから」

「たしかに、自由をくれとは言いましたけど……でも嘘をつかれていたんですよ? 貴方は気づいても知らないふりをして、私の嘘に延々と付き合っていらしたのですか」

「………」

「父上、もう一度聞きますがどうして黙っておられたのです。まさか、私が自分のついた嘘に翻弄され右往左往する様を見て、愉しんでおられたのですか」

「……そなたの苦しむ様を見て愉しんでなど、おらぬ。……余はそなたを、極力苦しみから遠ざけていてやりたかった」
「……なんですか? ……もう一度仰ってください」

 父の言葉に引っ掛かりを感じナシェルは首を傾げる。どうにも今日の冥王はいつになく歯切れが悪い。

 なにかもっと根本的なことを失念してはいないかと、ナシェルはしばし黙考した。

 だが考えれば考えるほど、父が黙ってこちらの嘘に付き合っていた理由が分からず、腹の奥からもやもやした葛藤が上がってくる。




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