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第四部 至高の奥園
3 半身①
しおりを挟む昏睡を続けるナシェルをその室に残し、冥王は再び天王宮の回廊に出た。そのまますぐに隣室には入らず、回廊を横切り、光差す中庭に降りる。
完璧な調和のもとに植えられた緑の木々が、ささやと温い風にそよいでいる。冥王の黒姿だけがその場において異質の色彩だ。
光を浴びることのない冥王の絹肌は、天上界の陽を浴びればちりちりと焦げつきそうに滲みる。
だがそんなことには頓着せず、セダルは懐から小さな繻子布の袋を取り出した。
口を縛っていた紐を解くと、宙空に向けて高々と差し上げ傾けた。
傾けられた小さな袋からはきらきらと光る砂粒が零れ、風に乗ってどこかへ流れていく。
冥王はゆっくりと時間をかけて袋の中の砂を零し続け、やがて袋の中身は全て流出して風に舞い消えた。
この砂は冥王自身が暗黒界の戦いにおいて屠った、十名の若き神々のなれの果てであった。
冥王はあの闘いの直後、己がここ天上界に赴くことを決意して、あの青年神たちの死骸―――神の死骸は朽ちることなく、砂塵となる命運である―――を、一握ずつ集めおいたのだった。
せめて彼らの塵だけでもこの世界に還すために。
ひと仕事成し終えると、セダルは天王の待つ隣室に入ろうと再び回廊に上がった。己で屠った神々の弔いをするところなど誰かに見せたいわけもなく、天王が先に隣室に消えたのは都合が良かった。
扉の開いている隣室に入ろうとして、セダルは戸口でふと足を止め、回廊の遙か先に視線を泳がせた。
天王はここ一帯を封鎖したと云っていたが、何者かが回廊の端に佇みこちらを見つめている。
セダルは目を細め、その燃えるような赤髪をした若い神―――この天宮に棲む光神一族の誰かであろう―――を睨み返した。
赤髪の青年の頬には、遠目でもはっきりと殴られたような傷があった。
刻の流れが止まったように静まり返る中、冥王とレストルはほんの数瞬の間、視線を交わしていた。
冥王は、若者の視線の中に、嫌悪と侮蔑―――異端の神に対する当然の反応――以外の、何か複雑な感情を読み取った。
冥王は寸分の隙も見せず彼を射貫いた。無意識に剣の柄に手がかかる。
「セダル、早く来い」
天王が室の中から呼んだのと同時に、赤髪の若者は顔を背けて回廊の角に消えた。
冥王の放つ神気に敵わぬと悟ったか。
あと数瞬長く睨み合っていたら、躍りかかっていたに違いない。
「……アレンが王女を呼びに行っている間にさっきの話の続きをしようじゃないか。それからナシェルの件ではお前に云っておきたいことがある。
――それと、今後の話だ」
今後の話だと? 我らに共に語るべき今後などない――あってたまるか。
冥王は苦々しく独白し天王の待つ室に入った。今は吾が子の容態を慮って早く帰途につくべきだ。ともかくも時間が惜しい。
レオンは広い部屋の中央にある、テーブルを挟んだ長椅子のひとつに腰掛けていた。入室してきた冥王に向かいに座るよう勧めながら、戸棚から出してきた銀杯に葡萄酒を注ぐ。
だがセダルは示されるままには座らず、まず典雅な素早い歩調で窓辺に近づき、留め具を外して全ての窓にカーテンを引いた。
「ああ……陽の光が苦手であったね、そういえば。気が回らずに失礼した」
天王の苦笑にも、冥王は表情一つ変えることはない。
部屋の中は適度に薄暗くなり、隙間から僅かばかり差し込む光が、絨毯に細い糸のような模様を途切れ途切れに描いた。
「悠長にしている場合ではないと云ったのは貴様だぞ、レオン」
カーテンから手を離した冥王は二つ注がれた葡萄酒を睥睨する。
「貴様と乾杯などしている暇はない」
天王はまあまあと宥めながら二脚の杯を手に立ち上がった。己で近寄り、冥王に片方を差し出す。
「そう時間はとらせないさ。300年ぶりぐらいに会ったのだ。再会を祝うぐらいのことは、してもいいと思うがね。それに王女が――ルーシェがここへ来るまでの間の辛抱じゃないか? 私の話に付き合うのも」
渋々受け取る冥王の杯に、己の杯をカチンと合わせ、天王はそのままそれを悠々と唇に運んだ。
「ひとつ真面目な話をさせてもらうよ。あの子――ナシェルのことだ」
レオンは隣室とこちらを隔てる壁にちらりと目を向ける。
「今は神司を失ってしまっているようだが、あの子は通常時ならば恐らく、第二世代の中では最強クラスだろうね。アレンの息子の剣神が今までは7位の座にあった。――お前を入れれば8位だ――。神位表を書き換えあの冥界生まれの王子を加えるべきかな? 頂点である私とお前、太陽神アレン、地水火風の四方神、そのあとがレストルか、お前の子ナシェルか――どちらかだろうな」
「――その必要はない。二界はこれからも、これまで通り交わらぬままだ。袂を分かつと、遥か昔に話し合って決めたことだろう。
余は貴様らの、くだらぬ神位争いなぞに今一度加わるつもりはないし、ナシェルにしても然りだ。格付けに振り回され一喜一憂する貴様ら天の神族の姿は、傍から見ていると滑稽だからな」
「ほう、そうか。意外だな。ナシェルの神位を上げるために己の神司を注いできたお前が、神位の格付けを気にしていないというのはね。
それにしても感心するよ、セダル――あの子をあそこまで育てたお前の根気と妄執にはね」
そう感服する天王の目許に、笑みはない。僅かに細めた眼差しはいかにも別のことを云いたげであった。
セダルは手にした杯に口をつけることなく、双子の兄神を見据えた。
「……廻りくどいぞ。何が云いたい?」
「――セダル。お前が己の後継としてティアーナにあの子を産ませたのは私としても理解できる。神とはいえ不死ではないことが明らかとなった以上、あちらの世界における神の支配を絶対とするためにはどうしても同族が必要なこともな。
しかし、その後継者の神位を上げるためとはいえお前は――あの子を……あの子の意志とは無関係に…抱いていたのか? 実の子だぞ」
ようやく杯に口をつけながら唇の端を持ち上げる冥王に、レオンは真剣な表情で迫った。
「あの子を介抱していて分かった。あの子はお前を呼んでいた……堕落した眼差しで。お前以外の者はなにひとつ目に入らないという顔をして……。お前があの子をそのように貶めたのだろう、セダル。
ただ神司を分け与えるためだけにしては、いささか外道が過ぎるというものではないか?
なぜあの子をあんな風になるまで貪り尽くした?
お前のやってきたことは――ひとりの神の尊厳を打ち崩す行為だよ。生まれた瞬間に母を失ったあの子には、恐らくもっと健全な……父性愛が必要ではなかったのか?」
「ふん……何のつもりだ? 双子の兄として、弟に説教のひとつもぶってやろうとでもいうのか」
冥王はせせら嗤う。
「……いちいち常識的なことをほざいているようが、貴様に我々親子の絆について口を挟む筋合いはないぞ、レオン。だいたい余の王子を、あんな状態にしておいて――」
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