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第三部 天 獄
51それぞれの檻①
しおりを挟むルゥは窓枠に座り、ぼんやりと窓の外の陽気を眺めていた。
「あーあ……つまんない……。早く残りの『じゅぎょう』っての、終わんないかなぁ……」
肩より少し長い金の巻き毛が、そよ風を受けてふわふわと頬を撫でている。その愛らしい桃色の唇から出るのは、愚痴とため息ばかり。
ちなみに足はいつもの裸足ではない。天王宮にあった、誰かのお古のサンダルを借りている。裸足で行ってはいけないと云われたので、仕方なく履いているのだ。
彼女の視線の先……色とりどりの草花に彩られた園庭では、同年代の幼い神たちが思い思いに昼休みを楽しんでいる。追いかけっこをしたり、輪になってボール遊びをしたり、花を摘んだり、本を読んだり、語らったり……。朗らかなはしゃぎ声があちこちで上がっていた。その周りでは、これまたそれぞれの侍らす精霊たちが、ふわふわと気ままに主の傍を浮遊している様が見える。
水の精、火の精、風の精、砂の精……、これほど多くの種類の精霊たちが一堂に会しているのを見るのは、ルゥも初めての経験だ。神族の子供たちを集めた学園(幼稚舎)という、特殊な場所ならではの光景だ。
「うう……どうして?」
のどかな光景を視界に入れつつ、ルゥはわなわなと呻いた。
「どうしてルゥが、こんなとこへ来なきゃいけないの? ルゥは、あの子たちとは違うもん。ルゥになんのお勉強をさせようってわけ? 関係ないじゃん」
あどけない唇からぶつくさと不平を零す。周囲で聞いているのは、彼女のそばにいる数匹の命の精だけだ。
ひとりぼっちのルゥは、昼休みの時間を教室に残って過ごしていた。自分から精神的な壁をこわして、あれらの遊びの輪に加わろうなどという気は起らない。
ルゥはひとり、拳を握り締めた。
「レオンおじさまめ……こんなところへルゥを通わせて天上界に染めようったって、そうはいかないんだから……」
ルーシェには、たかが幼稚園とはいえ、天上界の神族どもに阿るつもりは毛頭ないのである。誇り高き冥界の王女には孤高こそがふさわしいと、誰に教わるでもなく悟っているのだ。そうした彼女の頑なな性質は、本人がそれに気づいているかは別にして、明らかにナシェル譲りといえよう。
きっかけは、天王レオンのこの思いつきに違いない一言だった。
「ルゥ、きみはお勉強を習いに行ったほうがいいと思うね」
中庭のテーブルを挟んで向かい合って座る二人は、朝食を摂っていた。
ルゥはデザートの冷たいゼリーをがつがつと喉の奥に流し込んでいる最中だったが、皿から顔を離すことなく上目遣いにレオンを見た。なんということを思い出させるのか。
ここに連れて来られて以来、疑似天ではとても嫌だった「お勉強の時間」がなくなったことに気づいて、ちょっとだけ解放感を感じているところだったのに。
「お勉強ならサリエルから教わってたよ。読み書きだってもうできるもん、いちおう……」
「お勉強って、読み書きのことだけじゃないんだよ。キミは、精霊のちゃんとした使い方ってものを、まだ知らないだろう? キミの育った世界にはなかっただろうけど、ここにはちゃんとそういうことも教えてくれる所があるんだよ。小さい子はみんなそこへ通って、立派な一人前の神や女神になるんだ」
「そんなトコ行かなくたって、ルゥはちゃんとりっぱなオトナの女神になるもん」
頬を膨らますルゥを、天王は苦笑混じりに青々とした瞳で眺めてくる。彼の素晴らしい金色の長い髪は、今日も複雑に結いあげられていて、ルゥに云わせるとまるで「クジャクの羽根みたい」に綺麗だ。
「……ちゃんとした大人の女神になるには、大人の女神らしいお行儀も教えてもらわなくちゃいけない」
「おぎょうぎが悪いとなにかダメなことでもあるの?」
「お嫁の貰い手がないよ。天上界では、清楚で慎ましやかな女性のほうが持て囃される。キミの母上セファニアも、それはそれは慎ましい女性だったな」
「お嫁のもらい手なら心配いらないもん。ルゥは、兄さまのお嫁さんになるから」
「ほう、兄上のね。はいはい」
「本当なんだから!」
「分かった分かった。どっちにしろ、キミもせっかくたくさんの精霊を侍らせているのに、それをうまく使えるようになりたくはないのかい?」
「それは、なりたいけど……」
ルゥはここに連れてこられた時のことを不意に思い出した。あの抜け穴での、ヴァニオンとの最後の会話。
『姫さん、空に集まってきた精霊たちを使ってあいつらを追い払えねえか?』
『ルゥわかんないよ! つかうって、どうやるの?』
あのとき自分が精霊の使い方を知っていたら、もしかしたらこんな所に連れてこられていなかったかも……。そういう気持ちは無論ある。
「……なりたいけど、だったらおじさまが教えてくれればいいじゃない」
「ルーシェ……」
天王は困り気味に眉を顰めた。手で回している水晶杯の中で、氷と蜂蜜酒とが混ざり合いからんころんと長閑な音を立てている。
「困ったね。私もここのところ毎日会議で、暇ではないんだよ。キミがどうしても学校に行くのが嫌で、専属の家庭教師をつけて欲しいっていうなら、アドリスあたりに任せようかな? 警邏団には解散を云い渡したところだし、レストルともども王宮内で暫くおとなしくしているように云ってある。きっとあのあたりは、空いた時間を持て余しているだろうからね」
「アドリスって、あの茶髪のいつも眠たそうな感じの? ゼッタイおことわり」
「じゃあ、諦めて学校に行くかい? 学校といってもルゥ、まだキミは小さいから幼稚園からだけどね。なに、大したことをするわけじゃないんだ。いい機会だと思ってたくさんお友達をつくってくるといい。それにちゃんと行って勉強をするって約束してくれるなら、毎日帰ってから兄上やサリエルと面会してもいいよ。どうだい?」
「……ずるい、おじさま、そんな手でつるのは卑怯だわ!」
ルゥは飲み干した蜂蜜水のグラスを勢いよく置いた。がん、と甲高い音がしたが、レオンは微動だにせず、静かな温かな眼差しを注いでくる。
暫くその視線に一方的な挑戦を挑み……やがてルゥは、根負けした。
「……わかったわ、がっこうとかようちえんとかいう所へ、行けばいいんでしょ! その代わり、帰ったら毎日、サリエルやにいさまの所へ遊びに行くんだから」
このようなやりとりがあってから、レオンはさっそく下級神の誰かに頼んで天王宮に送迎の馬車を呼び、ルゥに弁当を持たせ、ちゃんと靴を履かせて幼稚園へ送り出したというわけなのだ。
「思わず受けて立っちゃったけど……これはしんどいわ。おゆうぎにお歌……バカみたい。お勉強もちんぷんかんぷんでうんざりだけど、この休み時間ってのも、またこたえるわ……」
ルゥが零す愚痴を、命の精たちがきょとんとした表情で聞いている。そのうち庭先にいた花の精たちも近寄ってきて、ルゥの頬に口づけ、幼い女神の無聊を慰めようと肩の上で踊り出す。
「はーあ。ナシェル兄さまは、今頃なにしてるかなぁ」
ルゥはナシェルのことを思い出して溜息をつきながら、行儀悪く足を窓枠の外に出しぶらぶら揺らした。少しサイズの合わなかったサンダルが片方脱げてぽーんと弧を描き、その辺の茂みの中に落ちて行った。
「あ」
拾いに行こうかどうしようか迷ったその時、不意に背後から少女たちの笑い声がした。
「やあねえ、あの子あんな所に座ってる。まるで野性児って感じじゃない?」
「仕方ないわよ、あっちの世界じゃまともなお行儀も教えてくれないんだわ、きっと」
「知ってる? あの子今日、レオンさまの宮殿から通ってきたらしいわよ」
「うそ! 冥界生まれの魔族のくせに!? レオンさまの宮殿に住んでるの!?」
ルゥは窓枠に座ったまま肩ごしに振り返った。教室にいつの間にか入ってきた数人の少女が、ルゥの背後に立って彼女を睨みあげていた。
ルゥは負けじと、顎をかるく突き出し、高所から思いきり睨み返した。
陽光に金色の髪が反射して、ルゥの全身を鮮やかに照らし出している。彼女たちはルゥの思いがけなく鋭い眼差しを受けて、わずかに怯んだ。
彼女たちはルゥと対峙した瞬間、悟ったに違いない。全く以って非の打ちどころのない金髪碧眼のルーシェルミア女神は、明らかにその場の誰よりも、神族らしい美に満ち溢れているのだ。
対してルゥを取り囲む女神たちはどれも茶金色かせいぜい金褐色の髪色で、瞳の色もくすんでいる。
少女たちは容姿で負けていることを悟るや、一層ルゥへの敵愾心をむき出しにして彼女に詰め寄った。
「……な、何よ、その目つき!生意気な子ね!」
「魔族がこの天界に何の用なのよ!」
「できそこないの闇の娘のくせに!」
「そんなところに座ってないで、降りなさいよね!」
「………………」
ルゥは窓枠に足を掛けて、すっくと立ち上がった。上から不意に飛びかかられるのではという不安からか、少女たちは数歩、後ろに下がる。
少女たちはそれぞれ何かしらの精霊をつれている。ルゥは愛らしい目をぐっと細めて、無意識にそれらを数えた。真ん中にいる女神が一番格上らしく、火の精を10匹ほど連れている。あとは霜の精に、音の精、それに絹の精がそれぞれ数匹づつ……。
一番端っこで一言も発さず黙って俯いている娘、その大人しそうな子も、ルゥと同じように花の精を数匹、連れていた。花の女神の一族だろうか。
驚いたことにルゥが一瞥をくれただけで、その子を取り巻いていた花の精がルゥの方へ近づいてきて、自然にルゥの支配下に入った。その子の精霊を図らずも奪い取ってしまったことに、ルゥ自身も驚き戸惑い、自分の周囲を見回した。
中央にいた赤金髪の娘が指を突き付けてきた。
「ちょっと! あなた、どうして花の女神でもないのに命の精だけじゃなくて花の精まで連れてるのよ! 花の精はエゼルのものなのよ! 返しなさいよね!」
「……返せって云われても、どうやって返せばいいの? それに別に、ルゥが命令したわけじゃないし」
ルゥは唇を尖らせ云い返しながらも、エゼルと呼ばれたおとなしそうな娘に申し訳なさそうな眼差しを送った。初めての経験で、どうしていいのかわからない。ルゥはまだうまく精霊を扱えないので、借りるとか返すとか、奪わずに共有するとかいう方法を、知らないのだ。
精霊たちは自分への支配力を持つ神が近くに来た時に、自然とその配下に入る。誰かに侍っているときでも、より神司の強い神がそこへ現れれば、そちらへ移動してしまう。
神々は互いの精霊を取り合わないように、常に己の神司を制御して、自分の影響の及ぶ範囲を体の周囲だけに限定したり、集ってきた精霊を手放したりして調節しているのだ。
この場合は花神一族の娘エゼルよりも、ルゥの神司が遙かに強大かつ無遠慮だったため、エゼルの傍にいた精霊たちを奪う形となってしまったようだ。
エゼル当人はおどおど、おろおろと、びくついた表情を見せているだけだが、他の娘たちのルゥに対する風当たりはなおも厳しい。
「あなた一体いくつ!? 精霊の使い方もまともに知らないなんて信じられない! もしかして頭悪いんじゃない?」
「あら! 仕方ないわ、この子、姿は私たちと似てるけど、なんたってあの闇の神の娘なんだから!」
「そうね、私たちとは違うもんね!」
「異端のバケモノの娘!」
「その金髪も青い眼もきっとまやかしよ! 本当は汚い真っ黒なんだわ! こわい!」
「冥王は悪い魔物だって聞いたわ、どうして魔物の娘がこんな所にいるのよ!」
「魔物の娘! 真っ暗じめじめな冥界に早く帰ればいいんだわ!」
「そうよ! 帰りなさいよ! 魔物は帰れ!」
かーえーれ! かーえーれ! 少女たちは甲高い声で大合唱をはじめた。
ルゥは片っぽだけになったサンダルをおもむろに脱いで手に取った。……全く聞くに堪えない。王女の小さな胸にある堪忍袋は、まだ許容量もほんの僅かなのだ。
――バシィィッ!
ルゥの手首が翻るや否や、手にあったサンダルが宙を飛び、真ん中にいた気の強そうな娘の顔面に、見事に命中する。
きゃーっと悲鳴をあげて、娘が顔を押さえしゃがみこんだ。
「うるさいうるさいうるさーい!! だまれだまれー!!」
ルゥの愛らしい唇から、今まで発したことのないような凄まじい怒声が迸った。
「とおさまは悪い魔物なんかじゃないもん! 醜くもないし、不気味でもない! あんたたちの云ってることのほうが、よっぽどブサイクってこと、わかんない!?」
「なにをー!?」
「よくもやったわね! こいつ!」
「やっちゃえ!」
少女たちの手に握られていた教科書の束が、その途端ばらばらと飛んでくる。
「そっちがその気なら、受けてたつわ!」
ルゥは闘うことを決意した。
闘って勝利を収め、冥王セダルの名誉を守らねばならないという固い信念のもと、窓枠を蹴って少女たちの頭上に、ダイブした……。
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