泉界のアリア

佐宗

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第三部 天 獄

34焦燥④

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 起き上がり、ぬかづきはじめた兵らの姿さえ一顧だにせず、王は闇嶺の背を降り、近くに居た騎士に手綱を預けた。崩れかけた石垣の傍まで歩み寄り、静かなる憤怒をその背に宿したまま、宙に両手を差し伸べる。

 とたん、宙空で静止していた死と闇の精霊たちが帯のように次々に王の手許を訪れ、手の甲に唇を寄せ挨拶しては散らばっていった。数十億という数の精霊が一気に飛翔するさまを見るのは、アシュレイドもはじめてだった。

 戦を終え冥界じゅうに飛び去っていく精霊たちが、しかしいているように、アシュレイドには見えた。虚しい戦で落とした命のあまりの多さを嘆いているのかと思ったが、そうではなかった。
 精霊たちは事実、慟泣していた。仕えるべき神の片割れを失ったことを。

 彼らは……残った死の精らは口々に王に問いかけていた。アシュレイドが抱くのと同じ問いかけを、より神に親しい精霊らが代弁していた。

 あるじよ。……死の影の王はいずこに! 我らが愛しき御子神……あるじの半身は、いずこに?

 それに沈黙で応ずる冥王の、背中が発する嵐のような悲哀を、アシュレイドは感じた。心臓が跳ねた。



 戦場を覆い尽くしていた怒りが去り、精霊たちが風に載せて運んできたのは、重々しい嘆きの気であった。

 あれほどの殺戮を成し遂げておきながら、宙天を見据える蒼白い王の顔には一滴の返り血もない。たなびく漆黒の戦装束もいささかも乱れ汚れてはおらぬ。すべて夢の中の出来事であったかのように、現れたときとまったく同じ清き美しさで、そこに立っている。

 だが王の心が流す血涙が見えぬ者がこの場にいるだろうか?
 その背を見つめるアシュレイドの胸にも、云いようのない悲哀が吹きあがった。

 王の背を見つめているだけで、悟るには充分だった。
 かけがえのないものが、この世界から奪われたのだと。
 王の背はこの場の誰よりも大きな傷を負い、涙を流しているように映るのだった。





(やはり、そうか)

 セダルは神司を収め精霊らを散らしながら、確信を得ている。
 この下級神らの無謀な行為と、ナシェルの気が感じられなくなったことが一つの線で結びついていると。
 
(怒りのままに瞬殺してしまったが、交換材料として生かしておくべきだったか?
 ……いや、どう振り返ろうと魔族どもを屠った罪、我が領土への不可侵の禁を破った罪は重い。一柱ひとりも生かして帰すわけにはいかぬ。
 それにあのような下級神ども、たとえ10名捕虜にしようがナシェルひとりと釣り合うはずもない…)


 そして王子はやはりあちら側・・・・か。死に瀕しているのではなかろうか。
 否、落ち着け。レオンのことだ、あれの重要性はもとより承知しているはず。殺しはすまい。
 だが己と同じ相貌ゆえ若い神らの間で吊し上げられたり晒し者にされたりしている可能性は充分考えられる。

 今すぐ闇嶺を駆って取り戻しに往かねば。
 今すぐにもこの場を離れて!

 しかしセダルはその激情を抑え己に言い聞かせる。
 壊滅的となった前方ふたつの砦、そしてジェニウスに調べに行かせた疑似天の状況を把握してからだ。
 三界のひとつを治める王の立場が、これほどまでにもどかしいのは初めてだった。 



 冥王は紅の双瞳を閉ざし神経を研ぎ澄ませる。

 聞こえてくるのは御子神を見失った精霊たちの歎きばかり……。

 崩れかけた城崖に置いた手を握りしめる。
 常になく、その拳は焦りのあまり震えていた。 



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