泉界のアリア

佐宗

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第三部 天 獄

6 対峙②

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 側背に立ち、アドリスに得物を突きつけた美貌の黒い影……、そう、まさにそれは黒い影と呼ぶべき者であった。

 天上界では、黒は不吉な色とされ忌まれている。使われることは滅多にない。よってアドリスは、それほどまでに惜しげもなく黒一色を纏った者を見るのは初めてだった。

 長身を包む服も。その流れる腰までの髪も。ただ、肌は雪花石膏の如く限りなく、透き通るほどに白い。
 鋭利な目元、そして形のよい顎。華奢とも呼べる顔立ちはしかし、それを補って余りあるほどの雄々しき憤怒を湛えて。

 どこか見覚えのある相貌の中で、唯一アドリスが見たことがなかったのが……その輝かしい瞳の色。

 夜空のような群青色をしていた。全員がほぼ金髪青眼、それに類する容姿を持つ己たち神族の中でも、これほどに深い蒼の瞳を持つ者は……居るまい。

 思わず、見惚れた。

(うわうわ、凄ッい美人……だれ?……魔族?)

 魔などに、一瞬とはいえ心奪われるなんて。だが……、美しすぎる。そして危険だ。

 その男の放つ殺気と怒気が、一瞬にしてアドリスから抵抗する意思を奪い去っていた。
 少しでも動いたら本当に殺られる。

 それほどに静謐な、しかも鮮烈な殺気を、その影は纏っていた。一瞬前までは、アドリスでさえ背後を取られるほど完全に気配を消していたのにも関わらず、この凄まじい気は何なのだ。


(いやいやいや、こいつ、めっちゃくちゃやばいぞ……!?)



 アドリスは中腰の体勢のまま、表情だけは呑気を装う。

「……ものすごい美人さん……初対面だけどどっかでお会いしたこと、あるような気が??」
「黙れ、それ以上喋れば喉を掻き切る」

 穏やかとさえいえる美声が、そう断じた。不気味な緊迫感をはらむ穏やかさ。

 いまだかつて神族の立場にある自分に……それも天上界最高位の天王に近しい自分に、これほどまで威圧を与え、ここまで侮蔑の視線を送ってきた者があっただろうか? 己の優位を殊更に主張するかのような、その冷徹な瞳……。

 アドリスは、これほどまでに見下されたことは未だかつてなかった。
 そう思わせるほど、背後に立つ影なる者は傲然たる気配を身に纏っていたのである。

 彼の、逆手に持つ短剣の、その鋭利な切っ先が寸分の揺れもなく、アドリスのうなじにぴたりと吸い付いていた。




***




 彼は……ナシェルは、激怒していた。いま、身の内に収め置けぬほどの激憤に任せて、この男の喉を掻き切るのは容易だった。

 目の前で繰り広げられていた非道! かつての同族たるサリエルに対して彼らが行った無慈悲な振舞を、断じて許すことはできない。

 サリエルは、今はもう何の力も持たぬ堕神に過ぎぬが、かといって裏切り者として断罪されるほどのことは何一つしていない。助けを求める者を、いともあっさりと足蹴にしたこの連中は、いったい何様のつもりだというのだ?

 更に、いま目の前に居るこの男はサリエルに対し何と云っていた?

 『気違きちがい冥王の生け贄になったのか』

  そう嘲笑を浴びせていたではないか。

 ……今すぐここで殺してやりたい。父を冒涜したこいつを!
 気ちがいだと? 冥王が……父が、千年もの永きに亘る孤独に向き合っていた時、貴様ら神族は何処で何をしていた?

 ぬくぬくとこの世の春を謳歌し、子孫繁栄にでも精を出していたのだろうが!

 貴様らに父を気違い呼ばわりされる筋合いはない……、……あの壮絶な孤独を味わったことのない貴様らなどに!




 ナシェルはぐっと短剣の柄を握り直し、その輝く刃面を強くアドリスのうなじに押し当てる。アドリスがごくりと唾を嚥下するのが、刃面に直に伝わってくる。

 ……殺してやる。二度とそのへらず口が叩けぬよう、創世界に今すぐ送り返してやる!

 何が神族だ! なにが天上界だ。其処にのんべんだらりと暮らしてきた連中は皆、やはりこんなものか。

 父上が、あれほどまでに同族たちを憧憬し思慕した理由が私には分からぬ。
 こいつらは、腐りきっている!



 ……だが、とナシェルはぎりぎりのところで辛うじて己を鎮める。
 冷静になれ。今はこいつを始末している場合ではない……。

 ナシェルは、眼前のアドリスをゆっくりと直立させた。アドリスの腰の剣を拝借することにする。

 ――今は、ルゥとサリエルを助けるほうが先決だ。



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