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第二部 虚構の楽園
28夢想②
しおりを挟むルゥの部屋の前で、ノックしようとする半瞬前に扉が開き、サリエルと出くわした。
お互い面食らい、すぐには言葉が出ない。
月の麗神であった者のほうが僅かに早く口を開いた。
「殿下、いつこちらへ……」
サリエルはそう云いながら部屋を出て来、後ろ手に扉を閉めた。答えようとするナシェルに対し、彼は端から返事など求めていなかったように細指を唇にあて、小声で続けた。
「妹君はお昼寝の時間です。今しがた、お眠りになったところです。残念ながら」
「そうか……遊んでやろうと思ったのだが、残念だ」
いやむしろ眠っているのは好都合であったが、ここはそう云っておく。
目の前に立つサリエルは、ためらいがちに、ぎこちなく微笑した。王女に会いに来たナシェルが目的を果たせぬ今、自分がしばらく茶の相手でもするべきか否かという葛藤が、彼の泳いだ眼のふちに浮かんでいる。ナシェルはそれを見破って苦笑した。
「では姫の寝顔でも眺めるとしよう。今日はここで寝んで行くから、上階の私の部屋を開けておいてくれ」
サリエルはその言葉に胸を撫で下ろすように僅かに頷いた。一歩脇に退いた彼に、ナシェルは付け加えるように、
「サリエル、今日はヴァニオンを連れて来ていないんだ、申し訳ないんだが」
「……」
その揶揄に、普段ならば純貴に頬を染めるはずの彼は、この日はどうしたわけかびくっと熱い物にでも触れたかのように竦み、さらに表情まで消した。
「どうした?」
「い、いえ……」
慌てて表情の陰を打ち消し微笑を装うサリエルであったが、一礼して足早に立ち去るその様子はナシェルから見ても明らかに不自然だった。
ははぁ……、ヴァニオンと、何かあったのだな……。分かりやすい奴……。
自分のことは棚に上げてナシェルはそう感じた。しかし今は連中の恋路をとやかく云々している暇はない。
彼は音を立てぬよう王女の部屋に入った。
レースの天蓋付きの寝台で、女神ルーシェルミアが心地良さげな寝息を立てていた。
ナシェルは彼女を起こさないよう音を立てず寝台の端に座った。
幼い女神の周りで、命の精たちも同じように寝入っている。相反する神司を持つ死の神が傍らまで来ても、気づくこともない。女神の遊びに付き合わされて彼女達も疲れきっているのだろうか。ナシェルが死の精たちをもし連れて来ていたら、この隙にとばかり攻撃を仕掛けていたかもしれぬが、無論、疑似天に入る前に精霊たちを追い払ってある。王女やサリエルに配慮してのことだった。
命の精に囲まれて無防備な寝顔を見せるルゥを、上から覗き込む。
ちいさな瞼に隠されて今は見えないが、もし瞼を開けたとすれば彼女の瞳はいま、青みがかった翠をしていることだろう。薬が切れかけているはずなのだ。薬が完全に切れれば、彼女の瞳はナシェルの娘であると主張するかのような深い群青色に戻るはずであった。
ルーシェ、私を赦してくれなどと、都合のよいことは云えない。
ただこれだけを云わせてくれ。
済まない。そして愛している……。
己の浅はかな意地のために二人の関係を兄妹と偽らねばならないことを、ルゥに会うたびナシェルは胸中で詫びる。
だがセファニアの生まれ変わりであるはずの彼女は、生前の記憶などどこへやら、何食わぬ顔で彼をナシェル兄さまと呼んで慕い、ときに父さまと呼んだりもする。王と本当に間違えているのか。それとも全てを承知の上でからかっているのか。それはないとは思うが……。
ナシェルは懐から「例の目薬」の小瓶を取り出した。透き通る玻璃の瓶の中で、ほんのり翠色に波打つ薬液。
蓋を回し開け、眠るルゥの瞼をそっと親指で押し上げる。
傾けた玻璃の窄まった瓶先から数滴ずつ彼女の両瞳に落とす。
そしてルゥの瞼のふちから流れ出た薬液をそっと親指で拭い取った。
それらの罪深い行為を成し遂げるナシェルの心は、張り裂けんばかりに乱れていた。
心の最奥を深々と刺し貫いた見えない槍が、彼の罪過を鳴らすようにぶるぶると鳴動するのを感じる。
しばらくナシェルは動けずに、浅く呼吸を繰り返し己の胸を宥めた。
そして王女の傍らに己の傷ついた心身を横たえた。途方も無い疲労感が押し寄せて来ていた。
眼を閉じると再び父王の双瞳と腕が、脳裏の中にナシェルを蝕みに現れる。ぎりぎりまで追い詰めながらそれ以上は近づいて来ずに、ただただ呼び戻そうとするのだ。ナシェルは父王の幻影を打ち払おうと暗闇でしばし藻掻いた。そして王の幻がやはりそれ以上の間を詰めて来ないと悟ると、抗うのをやめて対峙した。
貴方が追って来ないなら、私はこのまま往くしかない。
血悪にまみれようとも往くしかないのだ。私からはもう断じて立ち止まるまい。
私をどうにかしたいなら貴方が追ってくるしかないのだ。
貴方は私にルゥを娶ればいいと云った。云われなくとも其の通りにするつもりだ。
私は今度こそ彼女の魂を得る……、セファニアの魂を。
我々に嫉妬しろ。そして追ってくるがいい。
ナシェルは、冥王の幻に対しそう挑発した。父はただ例の如く冷笑を浮かべていた。
……束の間、微睡んでいたらしい。気がつくと己はルゥの傍らで虚空に両の腕を伸ばしていた。指先を鉤形に曲げて何かを手繰り寄せるようにして。
続けざまに見た夢の終わりで、なにかに必死に追いすがっていたようだ。己のさまにナシェルは自嘲し、腕を下ろした。少し汗をかいていた。
挑発し追わせていたのは断じて、己のほうであった。
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