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第二部 虚構の楽園
13三途の河
しおりを挟む比較的乾いた場所を選んで陣を張ったつもりであったが、まだ足元は泥濘んでいた。
天幕の中でさえ。
アシュレイドが目の前に立つ若い将校の足元にふと視線を遣ると、その軍靴は数日の間に幾重にも上塗りされた泥で、黒のはずが茶黄に変じていた。
若者は進捗報告を読み上げながら、指揮卓の向こうに座る将軍が自分の泥まみれの乾いた軍靴に着目していることに気づき、おそるおそる両脚をゴリゴリ擦り合わせた。
無論それでこびりつく泥が落とせるはずもない。
司令官はその滑稽な様に苦笑した。
報告を終えると、将校は情けなさそうに付け加える。
「お目汚しで申し訳ありません、閣下。以後気をつけます」
「なんの、謝ることはない」
アシュレイドは指揮卓の横に片脚を踏み出して己の靴を部下に見せた。彼のそれも負けず劣らず泥だらけであった。
若者はほっとした笑みを浮かべた。
靴だけではない。軍服も汚れている。指揮官たる彼はまだましであるものの、外で土嚢を回収して回っている兵士たちは格好など気に留める余裕もなく、みな靴を放り出し裸足に裾を捲くって作業に当たっているのだ。
まあこれも武勲と思え。目一杯汚い姿で城に帰って、そのままナシェル殿下に謁見して皆で超過勤務代を請求してやろう。
そう軽口で励ますと、若い連中は笑い、気勢を上げて作業に取り組んでくれたが……。
アシュレイドは部下を退がらせてから天幕の外へ出た。
眼下に広がるのはステュクス河の雄大なる眺め。
炎獄界の灼熱の火山麓に源流を発し、幻霧界に入って忘却の河と名を変え、そしてここ暗黒界に流れ込めばステュクス河と……つまり、三途の河と呼ばれるに至る。
広大で長細い洞窟世界であるエレボスの、ちょうど地上界への出口に横たわる河だ。
ここは、冥王の支配の及ぶところ……冥界の、最果てであった。
洞窟世界の出口といっても狭いわけではない。
地上界はこの河の遥か向こう岸。
泳ぎなどでは到底辿り着けぬどころか、舟を出しても難があろう。
湖かと見紛うほど、その河幅も流域面積も広く、向こう岸は視認できぬ。
光のない世界を流れるため、見渡すかぎり一面の黒河である。
このステュクス河によって地上界と冥界は完全に隔てられ、二界に住むものが行き来することはない。
通行できるのは、基本的に神と、精霊たちと、そして死者の魂のみである。
(例外もいるがな……)
例外の顔をアシュレイドは思い出した。
魔族でありながら、王子の乳兄弟を名乗り、黒天馬に乗ってほいほいと禁を破り気軽に地上界に旅に出る不届き者も中にはいる。
黒天馬は希少な幻獣である。それを所有できるのは王や貴族たち、そして一部の(アシュレイドを含めた)軍の高官たち、冥府と暗黒界だけに配置された黒翼騎士団に限られていた。
その黒天馬さえあれば地上界どころか天上界の間近までも往くことができるのだと、ヴァニオンは酒席で以前云っていた。
それを試したことがあるという、彼の度胸と無鉄砲さに、アシュレイドなどは慄然として酔いも冷めてしまったものだ。
アシュレイドには、地上界や天上界への興味など更々ない。
彼の大事なもの……主君、家族、部下たち、栄誉と武勲……それらはいつでもすべてここ冥界にあり、それ以上何も欲するものはない。また冥界以外の場所で得られるものも、何一つないだろうから。
アシュレイドは今は遠くにいるそうした大事な者たちに束の間、想いを馳せ、やおら軽く両頬を叩いて強引に己を現実逃避から引き戻した。
(いかんいかん、どうも疲れているな)
先日氾濫したこの河の復旧護岸工事と、濁流に押し流された中州の見張り櫓の再建工事、そこに至るまでの橋梁工事が軌道に乗るまでは、家族のことなど考えている暇はない。
アシュレイドは将軍職を示す深い蒼のマントを払って、再び堤の上から三途の河を注視した。
(これが……同じステュクス河か。一昨日までとはまるで違う)
数日前まで怒れる濁流であったそれは、今はまだ多少色を濁してはいるものの水量も減り、元の寂々としたゆるやかな流れに戻っている。
堤が決壊したと聞いて黒天馬で駆けつけたときには、今彼が立っている場所は勿論、天幕を張っている場所も、一里先までも水に浸かっていた。もし河辺に魔族の集落があったならば、被害はさらに甚大だったであろう。
幸いにして、暗黒界は地上界への前線という位置づけで一般民の居住はほとんどない。軍官の家族や城抱えの商人らが少数、エレボス城周辺に小さな城下街を形作っているのみだ。だから一般の魔族らへの被害はなかった。
だが一般民ではないにせよ、犠牲者は出た。ここからは見えぬ遠い中洲に建てられた、詰め所つきの見張り櫓が橋ごと押し流され、そこに詰めて冥界の入口の見張りを3交代で勤めていた一個中隊30名が行方不明となった。
このステュクスが何処へ流れていくのか、誰も知らぬ。
地上界ならば必ず海に注ぐであろうという常識も、ここ冥界には通用しない。
この大河は冥界の各小世界の狭間を流れ流れて……、もしかしたら奈落の深淵に注いでいるのかもしれない。
神ならば知っているだろうか? 彼の主君である死の神や、その父である冥王ならば?
どちらにせよ、不明となった30名はおそらく死体も揚がるまい。
失った部下たちにも家族があったろう。
その命の重みに思いを致し、死を悼んで拳を胸に暫時ひっそりと中てた。
踵を返し、彼は堤の下に見える数百名を奮い立たせるため声を張った。
「お前ら、チンタラやっていると、死者行列の見張り役に配置換えするぞぉ!」
うへえ。
それだけは勘弁してくれ。
鬼だ、悪魔だ、あの司令官は。
本当は殿下よりタチ悪いんじゃないか?
等々の声が挙がる。
審判の間を目指す死者たちの行列を監視するのは、暗黒界方面隊の重責の一つではあるのだが、なにぶん恐ろしいほど単調で何の興趣もないとして、もっとも兵たちから敬遠されている任務であった。
アシュレイドは笑い、河沿いにぬかるんだ堤の上を歩きながらその他の隊にも声をかけて回った。
若くして将軍職に就き、最前線の司令官として、また兵たちの敬慕する王子神の最たる片腕として、口うるさい人柄も含めて、人望厚い男であった。
……・水面をゆく暗黒界の不気味な風の音に、種類の違う風が……翼のはためきが不意に混じったように感じた。
アシュレイドは何気なく宙を振り仰ぎ、それが気のせいではないと悟って、驚愕のあまり静止した。
2頭の黒天馬が、旋毛風のようにあっという間に目の前に舞い降りてきたのだ。
見紛うことなどあるわけがない。
1頭は幻嶺である。
もう1頭はイスマイルの馬だろうか。
黒天馬の嘶きに、作業中だった兵士たちも将校たちも思わず手を止めて視線を上げ、そこに突然現れた美貌の主君の姿を認めると、みな跪礼することも忘れあんぐりと口を開けた。
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