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第一部 血族
29翳りゆく灯③
しおりを挟む炎獄界のヴェルキウス公屋敷では、執事のグレイドルが少々の驚きを示しつつも丁重にナシェルを出迎えた。
「久しいな、グレイドル。変わっておらぬようだな」
「殿下は一段とご立派になられて。ヴァニオン様から常々伺っております」
「世辞はよせ。そなたに尻を叩かれたころから精神的には何も成長してはおらぬさ」
ヴァニオンが来るまで、庭の見える居間の窓辺で待たせてもらう。
世話をしようとするグレイドルを退がらせ、ナシェルは羽織っていたマントの留め金を外して椅子の背に掛けた。卓上に置かれた水差しを取り、グラスに冷水を注いで口に含む。暗黒界から黒天馬を飛ばしてきたので、喉が乾いていた。
背後に大火山が聳え、近くを溶岩流が流れているとは思えないほど、屋敷の中の気温は快適に保たれている。
顔を窓硝子に近づけると、窓に映る冷徹な群青色の瞳の向こうに、懐かしい大木が見えた。
……幼い頃を、よくこの乳兄弟の屋敷で過ごした。
戸外に吹き荒ぶ熱風をものともせず、庭の大木によじ登り葉陰に隠れては、探しに来たグレイドルに木の実を投げつけたり二人で悪戯したものだ。
公爵家の若き教育係だった彼に、もろともに尻を打ち据えられては、二人で拗ねた日々。
懐かしいあの大木が、まだそこに佇んでいる。
少し視線をずらすと、白壁の離れが窓硝子の端にかすかに映った。
小さな針が、胸を突く。
まだ二人がこの愛ならばどんな障害も乗り越えられると錯覚していた、あの未熟な日々に、何度か肌を重ね合わせたその部屋。
若さゆえの過ちと、今は二人とも笑い草にしているが。
今はあの場所に別の者が住み、あの場所で……。
だが胸を一瞬焦がしたその想いの正体に気づく前に、背後から戸を叩く音が。
振り返れば、開いていた居間の扉に、凭れかかるようにして立ち戸を叩いたのはその乳兄弟だった。
「ヴァニオン、」
いつもとは違う空気を纏っていると感じさせるのは、整っておらぬ髪か、それとも無精髭の所為か?
普段身に着けている緋色の裏打ちのマントの代りに、王妃の喪中であることを示す黒い簡素な私服を着て。
乳兄弟は無言でナシェルを見つめ……、そして逸らした。
かける言葉もなく、ナシェルは口を閉ざした。言葉少なであるべきだった。
しばしの沈黙ののち。
「……あいつに会うか?」
来てしまったなら仕方がない、会わせてみるか、とでもいうように彼は尋ねてきた。
ナシェルは頷いた。今さらながら、病んでなおヴァニオンの心を掴んで離さぬ者への興味が湧いていた。
ヴァニオンに促され、死の精たちには待てを命じ、離れに足を踏み入れる。
調度品も当時のまま。
湧きかけた懐かしさを封じ込めた。
続き部屋の奥の間に、衝立と寝台がある。
ヴァニオンが先に入って何事かをサリエルに囁き、ナシェルに向かって頷く。
ナシェルは衝立を横切り、サリエルの傍らに立った。
「……お初に、御目にかかります。お見苦しい姿で……失礼致します」
かつて、天の神族としての誇りに満ち溢れていた青年と、天を追われた堕神の子であるはずのナシェルの、奇妙な邂逅であった。
天の正統な神族の血を引く光の子孫が今はやせ衰えて頭を伏し、彼ら天の者らのいう”卑しき冥界の嗣子”が燦然と、遥かな高みにあった。
初めて見る男神というものが……いや、もう神と呼ぶべきではないが……、その姿があまりに想像していた神の姿とはかけ離れていたことに、ナシェルは言葉を失った。
ナシェルは、天界から来た神族としてはセファニア以外を知らない。
セファニアも死の直前はかなり弱っていたが、それでも上級神たる彼女は神らしい容姿そのままに消えていった。
だが彼はどうだろう。四肢は細り、酷く窶れ、髪はかつての金ではなく色が抜け灰色に変じている。
彼は呼吸するのも億劫そうに、疲れ果てて翼を畳んだ鳥のようにじっとナシェルを見上げていた。
決して屈さない強情さだとヴァニオンが語っていたその瞳からはすでに、何か譲れぬものがあるという強固な意思は感じられなかった。傍観者のような眼差しだった。
ただ目の前に立つ異端の死神の、凍てつくような美貌と溢れんばかりの神気に慄いたのか、微かに肩が震え、ヴァニオンに縋るように身を寄せたのが意外といえば意外であった。
「……大丈夫か。だいぶ具合が悪いと聞いたが」
神であった者には敬語で話すべきかどうか迷ったが、彼のほうから目に見えない膝を折ったようであったので、ナシェルもそれに応じて話すこととした。
「……私のような者を気にかけていただき……恐縮でございます」
「堅苦しくしないでくれ。ヴァニオンと私の仲は聞き知っているだろう」
「……はい」
サリエルは遠慮がちにヴァニオンと視線を合わせた。忍び寄る死が皮肉にも、二人の距離を一歩づつ詰めはじめたかのようであった。それはそれであまりに遅い雪解けではないかとナシェルは思う。
衝立に立てかけられた鳥琴が目に入った。
「鳥琴が得意だと伺っているが」
「……実を申しますと、最近は、もうあまり弾くことができませぬ。指が思うように、動きませぬので」
細った指を、サリエルは恥じ入っているのか隠して握った。その手をヴァニオンが上から黙って包む。
痛々しい光景を、しかし目を逸らしてはならぬ気がして、ナシェルは見つめていた。
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