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遺体争奪編
剣呑嫌悪
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「これはこれはナギサ『殿』。本日もたいそうご盛況なようで」
耳障りな声を聴いて、ナギサは見られぬように顔を顰めた。
きっちりと数も確認した翼人族からの献上品の帳簿を閉じて、顔を直して振り返る。微妙に刀の間合いから外れたところに、扇子を持って口元を隠しているマサトキと、彼の見張りである翼人族のオルディニがいた。
「何の用だ」
ナギサが言うと、マサトキが大げさに肩をすくめて体を震わせた。
「おお怖い」
眼光を鋭くすると、マサトキが楽し気に目を細めた。
「陛下の義弟殿が来たというではないですか。ならば挨拶でもと思いまして」
「させると思うのか? 陛下を窮地に追い込んでおいて、のうのうと顔を出した貴様を?」
脅し虚しく、ナギサの優秀な耳はこちらに近づいてくるメルクリウスの足音を捕えてしまった。
「ですが、あそこで戦わなければ勇者一行の力を身をもって知ることはできなかったはず。ガイエル殿の合流も身共の手柄ではありませんかな?」
膨れ上がる怒気を抑えて、この場から離そうと考えて、言葉にするタイミングでマサトキが口を開いた。
「それに、身共は人間共に勇者一行を失うきっかけを作ったと謂れなき誹謗中傷を受けております。ここに来ましても奥方様や右腕ともいえるナギサ『殿』に殺せと言われる始末。辛うじて擁護していただいた陛下には恩を感じておりますので裏切ることはございません」
「口では何とでも言える」
「はて、この城の中において奥方様と右腕『殿』の意見が一致した時に反対意見を通すことができる者が陛下以外におりますかな?」
自分が生きているのは陛下の意思だ、反するなよ、と。そう、ねちっこく言ってきているだけである。
メルクリウスの足音が止まった。
「ナギサさん、その方は協力者ですか?」
言いながら、メルクリウスの手が腰に帯びている剣を掴んだ。
この姉弟は微妙に脳と武器が直結している。
「これはこれは、義弟殿。身共はマサトキ・クノヘと申す者。ナギサ殿の叔父にあたります」
扇子を閉じて顔をさらけ出し、マサトキが笑みを浮かべた。頭は下げない。
「ご丁寧にどうも。知っている様ではありますが、私はメルクリウス・ベルスーズと申します。以後、お見知りおきを」
メルクリウスも手を剣の柄からは離さなかった。
「こちらこそ、よしなに」
マサトキが目じりを下げた。
ナギサの横顔を見てから、メルクリウスが口を開く。
「マサミツ様には良くしていただきましたから、忘れることはないと思います。しかし、似ていない兄弟ですね。いえ、私自身、姉上とは似ていない姉弟ですから、よくある話なのだなと腑に落ちただけです。ああ、雷獣でしたら申し訳ありません」
(王妃様とメルクリウスはよく似ていると思うけど)
と、ナギサは心の中で突っ込まずにはいられなかった。
「妖狐であっておりますよ、義弟殿。それに、我ら兄弟が似ていないのは兄が高潔すぎたため。忠実公平清廉など、妖狐でも異端ですゆえ」
「良い兄をお持ちだったのですね。さぞや鼻高々だったでしょう。求められるものも大きかったのでは?」
「兄は兄、身共は身共。やり方が違うのは当然のことです」
「しかし、現状を見るとはっきりと結果がでておりますが?」
「痛ましい事です。死ねば終わりだというのに。義弟殿も、王妃陛下によく言い聞かせておいた方がよろしいのではないでしょうか」
「……それは叛意ありということですか?」
メルクリウスの腰が下がった。光のない昏い目がマサトキを映す。
「命あっての物種と言っているだけです」
やんわりと信用できない笑みでマサトキが腰を軽く曲げた。
(実際、私の父上を見習ったらどうだというメルクリウスに対して、嫌だと言っていただけだからな)
加えるなら、マサトキがナギサの父とセスに忠義を尽くす姿勢を小馬鹿にして。
「話は変わりますが、ベルスーズ殿には誰ぞいい人はいるのですかな?」
あまりの変わりようにメルクリウスの顎が少し浮いた。
「陛下と王妃陛下の仲も睦まじく、和子様の誕生は時間の問題でしょう。ガイエル殿は既にお子がいらっしゃいますが、他の者にはいない。幼少の頃より共に過ごすのは忠臣を作る良い手にございますれば、ベルスーズ殿もそろそろ考えている頃かと思いまして。うまく行けば、しばらくは翼人族も安泰でしょう?」
メルクリウスの目がマサトキから外れた。
もう光のない目ではないのがナギサからも良く見える。
「今は忙しくそのような場合ではないため、何とも」
何とも歯切れの悪い言い方であった。
マサトキが扇子を広げて口元を隠す。
「ふむ。陛下からの信任が厚いのであれば、クリンゲル殿が良縁でしょうか。お子にも期待が持てますゆえ、悪くはないかと。いや、年齢が離れすぎているのが難点ですかね? ベルスーズ殿の年齢なら、まだ十二歳差は大きいでしょう」
ゆっくりとマサトキがメルクリウスに近づいた。
メルクリウスも体を起こして、あからさまにならないように距離を開けようとするも、近づく距離の方が圧倒的に多い。
「何ですか?」
「いえ、そう言えば身共の娘もベルスーズ殿と同じぐらいの年齢でございまして。どうですかな。陛下の右腕であるナギサ殿とも親類になることになりますれば、悪い話ではないかと。身共も、幾ばくかは疑いが晴れるのであれば嬉しい事この上ありませんので、互いに良い話ではないですかな?」
一気にメルクリウスの顔からたどたどしさ、年相応の戸惑いが消える。
「なるほど。互いに、私にもクノヘ殿にも利点はありますが、私がヴァシム城にずっと詰めていられないことを考慮していないのではないですか?」
「いえいえ、連れて行ってもらって構いませんよ」
「その手段です。陸地では内乱が起こっている地域や人間の支配地域があり、海にはクラーケンがいる。まさか、人間の様にクラーケンは魔王の支配下だから魔族は安全に航海ができるとおっしゃられるわけではありませんよね?」
「そのようなことはございません。ただひとえに、ベルスーズ殿の腕なら切り抜けられると信じているだけにございます」
「行きが安全だったからと言って、帰りもそうとは限りません。私共も、自分の身を守るのに必死になって手が回らぬかもしれませんし」
メルクリウスが一歩離れた。マサトキも、今度は距離を詰めるようなことはしない。
「身共の娘も、自分の身ぐらいであれば守れます故、ご案じ召されずともよろしいですよ」
マサトキが小さく首を傾けた。
「航海に絶対はありません。きっちりと準備ができていれば違いますが、このような不意の出来事で種族の評価を下げたくはありませんので」
「評価が下がるとは限りませんよ」
「今が大事な時期ですから。余計なことはしたくないのです」
ナギサは吐きたいため息を我慢して、帳簿を抱えなおした。
(嫁がせたら殺しますよ、と直接言えば終わる話なのに)
離れるタイミングを見失ったため、時間がないからいい加減にしてくれという思いを募らせながらナギサは顔を横に向けた。珍しくセスが近くにいないシルヴェンヌが目に入る。足音は全くない。
「ならばナギサを娶れば解決ですかね」
「は?」
ナギサは思わずマサトキを睨んだ。
マサトキがナギサをちらりと見るだけで、メルクリウスを越えたあたりに焦点を合わせつつ続けてくる。
「実力は申し分ありません。そもそもナギサでも渡れないのであれば、この航路によって結ばれる全ての意味がなくなります。さらに、身共もベルスーズ殿と親類になれ、ベルスーズ殿も押しも押されぬ要人となります。四歳差の年上女房と言うのも、中々いいのではないですかな?」
飛んできた矢が、綺麗にマサトキの持つ扇子を持ち手から切断した。他には切り傷一つ付けず、矢と扇子が地面に落ちる。
「失礼ではなくて?」
シルヴェンヌが弓を下げて言うと、マサトキが膝をついて頭を下げた。オルディニも礼を取り、ナギサも軽く頭を下げてから戻す。
「わたくしに対しても口元を隠すとは、どういう了見かしら?」
「身共はベルスーズ殿、メルクリウス殿に言っていたのであります。決して、奥方様に申し上げていたわけではありません」
「わたくしが、わたくしに話しているように感じた以上言い訳は無用です。加えてわたくしの弟に関する縁談。隠して話を進めようとしていることも不快です」
「これは失礼いたしました」
ナギサはマサトキが言葉をこねくり回すかと思ったが、意外なほどにあっさりと認めた。頭がより下がり、首が見える。
「第一、ナギサさんはセス様にとって大事な人。この城から動かすことはもちろん、貴方ごときが勝手にどうこうできる存在ではありません」
シルヴェンヌの弓が、マサトキの首に押し当てられた。
「何を勘違いしているかは知りませんが、この城に貴方が留め置かれているのは外に出すと何をするかわからないからです。決して、セス様から信頼があるとは思わないように」
「は。肝に銘じておきます」
シルヴェンヌの目が細められた。
「貴方に関しては、セス様が悲しまないという確証が得られた時点で殺しますから。悠長におしゃべりをしている暇はないのではなくて?」
「これは手厳しい」
どこか愉し気に笑いながらマサトキが言った。音に合わせて首が動き、弓がわずかに揺れる。
「ですが常に気を張っていたところで身共の有用性を示す場がないのも事実。時が来れば、いずれわかりましょう」
「それまで首が繋がっているといいわね」
シルヴェンヌが弓をマサトキの首からはなした。
「失せなさい」
「はは」
大仰にマサトキが頭を下げ、腰を曲げたまま下がり、シルヴェンヌと十分に距離を取ってから背を向けて腰を伸ばした。そのまま歩いて去っていく。オルディニがしっかりと後に続いた。
「義兄上は?」
メルクリウスがシルヴェンヌに尋ねる。
「セス様は忙しいの」
ナギサをちらりと見ることもなくシルヴェンヌがメルクリウスの方に振り向き、彼の肩に弓を当てて顔を近づけた。
「メーク、アンヘル・サグラーニイは本当に死んでいるの?」
何度目かわからない心のため息を吐きながら、ナギサは周囲の警戒に当たる。マサトキの足音はもう警戒しなくてもいい距離だろう。
「ヴァシム城からミュゼルに運ぶまでの距離は相当あるし、生きてたら相当抵抗すると思うんだけど」
「前線基地イシオンからリフルを経由してミュゼルに移送したなら船団を使ったかもしれない。それに、陸路でも翼人族に攻め込むときの師団を利用すれば大軍勢の中に入れて置ける。備えはいくらでも取れないかしら」
「可能性は低いよ」
話が飲みこめないのか、メルクリウスが眉を寄せながら小声で言った。
シルヴェンヌの昏く冷たい目がメルクリウスに向く。
「万が一その低い可能性に当たったら、貴男がアンヘル・サグラーニイを殺しなさい」
ナギサの見開いた目とメルクリウスの目が合った。
メルクリウスがゆっくりと目を逸らす。
「義兄上は?」
「セス様なら死んだという覚悟ができているわ。それによく考えて。生きているアンヘル・サグラーニイは必要? 邪魔なだけじゃない。ニチーダさんくらいでしょ。居ても裁量権が変わらないのは」
「僕が殺したって義兄上には言わないでよ」
ため息交じりにメルクリウスが言った。
口を挟もうとしたナギサを、シルヴェンヌの底のない目が捉える。
「あれはわたくしとセス様の仲を裂こうとしたの。セス様が悲しまない状況なら、死んで当然じゃない。それに、生きていたとしてもいつかは別れるもの。二度も味わう方が不幸ではなくて?」
シルヴェンヌの紅い目がゆっくりとナギサから離れた。そこで漸く、ナギサは自身の息が止まっていたことを自覚した。息も荒い。
シルヴェンヌの白脚に巻き付いている羽根だけが見える魔法の矢筒から、グシスナウタルが一本ぬきだされた。そのままメルクリウスの手に渡る。
「全力を出せない状態であることを祈るよ。流石に、人間をけしかけてもたかが知れているだろうしね」
メルクリウスがいつもの調子でそう言った。
シルヴェンヌがメルクリウスから離れる。
「現を抜かさないように」
「……何に抜かすんだよ」
冷たく言ったシルヴェンヌに、メルクリウスが親に事実を指摘されて拗ねた男子中学生のような声を出した。怒っているのに怒っていないとでも言っているような声である。
何時ものように光のない紅眼がナギサに向いた。
「ナギサさんも、よろしく頼みます。セス様のために、ね」
やや硬く威圧のあった声だが、珍しいこともあるのだなという感情が勝ったため少し呆けたような間が空いてしまった。
ナギサが軽く頭を下げる。
「かしこまりました」
ナギサが頭を上げる前にシルヴェンヌが去っていく気配がした。
頭を上げればメルクリウスが近づいてくる。
「心配性なんです。あれで。……特に義兄上に必要な人が自分の目から離れるときは。ま、元々精神的に不安定な人ですから。気まぐれだなー程度に思っていてください」
後半は明るく言って、メルクリウスが笑い飛ばした。
耳障りな声を聴いて、ナギサは見られぬように顔を顰めた。
きっちりと数も確認した翼人族からの献上品の帳簿を閉じて、顔を直して振り返る。微妙に刀の間合いから外れたところに、扇子を持って口元を隠しているマサトキと、彼の見張りである翼人族のオルディニがいた。
「何の用だ」
ナギサが言うと、マサトキが大げさに肩をすくめて体を震わせた。
「おお怖い」
眼光を鋭くすると、マサトキが楽し気に目を細めた。
「陛下の義弟殿が来たというではないですか。ならば挨拶でもと思いまして」
「させると思うのか? 陛下を窮地に追い込んでおいて、のうのうと顔を出した貴様を?」
脅し虚しく、ナギサの優秀な耳はこちらに近づいてくるメルクリウスの足音を捕えてしまった。
「ですが、あそこで戦わなければ勇者一行の力を身をもって知ることはできなかったはず。ガイエル殿の合流も身共の手柄ではありませんかな?」
膨れ上がる怒気を抑えて、この場から離そうと考えて、言葉にするタイミングでマサトキが口を開いた。
「それに、身共は人間共に勇者一行を失うきっかけを作ったと謂れなき誹謗中傷を受けております。ここに来ましても奥方様や右腕ともいえるナギサ『殿』に殺せと言われる始末。辛うじて擁護していただいた陛下には恩を感じておりますので裏切ることはございません」
「口では何とでも言える」
「はて、この城の中において奥方様と右腕『殿』の意見が一致した時に反対意見を通すことができる者が陛下以外におりますかな?」
自分が生きているのは陛下の意思だ、反するなよ、と。そう、ねちっこく言ってきているだけである。
メルクリウスの足音が止まった。
「ナギサさん、その方は協力者ですか?」
言いながら、メルクリウスの手が腰に帯びている剣を掴んだ。
この姉弟は微妙に脳と武器が直結している。
「これはこれは、義弟殿。身共はマサトキ・クノヘと申す者。ナギサ殿の叔父にあたります」
扇子を閉じて顔をさらけ出し、マサトキが笑みを浮かべた。頭は下げない。
「ご丁寧にどうも。知っている様ではありますが、私はメルクリウス・ベルスーズと申します。以後、お見知りおきを」
メルクリウスも手を剣の柄からは離さなかった。
「こちらこそ、よしなに」
マサトキが目じりを下げた。
ナギサの横顔を見てから、メルクリウスが口を開く。
「マサミツ様には良くしていただきましたから、忘れることはないと思います。しかし、似ていない兄弟ですね。いえ、私自身、姉上とは似ていない姉弟ですから、よくある話なのだなと腑に落ちただけです。ああ、雷獣でしたら申し訳ありません」
(王妃様とメルクリウスはよく似ていると思うけど)
と、ナギサは心の中で突っ込まずにはいられなかった。
「妖狐であっておりますよ、義弟殿。それに、我ら兄弟が似ていないのは兄が高潔すぎたため。忠実公平清廉など、妖狐でも異端ですゆえ」
「良い兄をお持ちだったのですね。さぞや鼻高々だったでしょう。求められるものも大きかったのでは?」
「兄は兄、身共は身共。やり方が違うのは当然のことです」
「しかし、現状を見るとはっきりと結果がでておりますが?」
「痛ましい事です。死ねば終わりだというのに。義弟殿も、王妃陛下によく言い聞かせておいた方がよろしいのではないでしょうか」
「……それは叛意ありということですか?」
メルクリウスの腰が下がった。光のない昏い目がマサトキを映す。
「命あっての物種と言っているだけです」
やんわりと信用できない笑みでマサトキが腰を軽く曲げた。
(実際、私の父上を見習ったらどうだというメルクリウスに対して、嫌だと言っていただけだからな)
加えるなら、マサトキがナギサの父とセスに忠義を尽くす姿勢を小馬鹿にして。
「話は変わりますが、ベルスーズ殿には誰ぞいい人はいるのですかな?」
あまりの変わりようにメルクリウスの顎が少し浮いた。
「陛下と王妃陛下の仲も睦まじく、和子様の誕生は時間の問題でしょう。ガイエル殿は既にお子がいらっしゃいますが、他の者にはいない。幼少の頃より共に過ごすのは忠臣を作る良い手にございますれば、ベルスーズ殿もそろそろ考えている頃かと思いまして。うまく行けば、しばらくは翼人族も安泰でしょう?」
メルクリウスの目がマサトキから外れた。
もう光のない目ではないのがナギサからも良く見える。
「今は忙しくそのような場合ではないため、何とも」
何とも歯切れの悪い言い方であった。
マサトキが扇子を広げて口元を隠す。
「ふむ。陛下からの信任が厚いのであれば、クリンゲル殿が良縁でしょうか。お子にも期待が持てますゆえ、悪くはないかと。いや、年齢が離れすぎているのが難点ですかね? ベルスーズ殿の年齢なら、まだ十二歳差は大きいでしょう」
ゆっくりとマサトキがメルクリウスに近づいた。
メルクリウスも体を起こして、あからさまにならないように距離を開けようとするも、近づく距離の方が圧倒的に多い。
「何ですか?」
「いえ、そう言えば身共の娘もベルスーズ殿と同じぐらいの年齢でございまして。どうですかな。陛下の右腕であるナギサ殿とも親類になることになりますれば、悪い話ではないかと。身共も、幾ばくかは疑いが晴れるのであれば嬉しい事この上ありませんので、互いに良い話ではないですかな?」
一気にメルクリウスの顔からたどたどしさ、年相応の戸惑いが消える。
「なるほど。互いに、私にもクノヘ殿にも利点はありますが、私がヴァシム城にずっと詰めていられないことを考慮していないのではないですか?」
「いえいえ、連れて行ってもらって構いませんよ」
「その手段です。陸地では内乱が起こっている地域や人間の支配地域があり、海にはクラーケンがいる。まさか、人間の様にクラーケンは魔王の支配下だから魔族は安全に航海ができるとおっしゃられるわけではありませんよね?」
「そのようなことはございません。ただひとえに、ベルスーズ殿の腕なら切り抜けられると信じているだけにございます」
「行きが安全だったからと言って、帰りもそうとは限りません。私共も、自分の身を守るのに必死になって手が回らぬかもしれませんし」
メルクリウスが一歩離れた。マサトキも、今度は距離を詰めるようなことはしない。
「身共の娘も、自分の身ぐらいであれば守れます故、ご案じ召されずともよろしいですよ」
マサトキが小さく首を傾けた。
「航海に絶対はありません。きっちりと準備ができていれば違いますが、このような不意の出来事で種族の評価を下げたくはありませんので」
「評価が下がるとは限りませんよ」
「今が大事な時期ですから。余計なことはしたくないのです」
ナギサは吐きたいため息を我慢して、帳簿を抱えなおした。
(嫁がせたら殺しますよ、と直接言えば終わる話なのに)
離れるタイミングを見失ったため、時間がないからいい加減にしてくれという思いを募らせながらナギサは顔を横に向けた。珍しくセスが近くにいないシルヴェンヌが目に入る。足音は全くない。
「ならばナギサを娶れば解決ですかね」
「は?」
ナギサは思わずマサトキを睨んだ。
マサトキがナギサをちらりと見るだけで、メルクリウスを越えたあたりに焦点を合わせつつ続けてくる。
「実力は申し分ありません。そもそもナギサでも渡れないのであれば、この航路によって結ばれる全ての意味がなくなります。さらに、身共もベルスーズ殿と親類になれ、ベルスーズ殿も押しも押されぬ要人となります。四歳差の年上女房と言うのも、中々いいのではないですかな?」
飛んできた矢が、綺麗にマサトキの持つ扇子を持ち手から切断した。他には切り傷一つ付けず、矢と扇子が地面に落ちる。
「失礼ではなくて?」
シルヴェンヌが弓を下げて言うと、マサトキが膝をついて頭を下げた。オルディニも礼を取り、ナギサも軽く頭を下げてから戻す。
「わたくしに対しても口元を隠すとは、どういう了見かしら?」
「身共はベルスーズ殿、メルクリウス殿に言っていたのであります。決して、奥方様に申し上げていたわけではありません」
「わたくしが、わたくしに話しているように感じた以上言い訳は無用です。加えてわたくしの弟に関する縁談。隠して話を進めようとしていることも不快です」
「これは失礼いたしました」
ナギサはマサトキが言葉をこねくり回すかと思ったが、意外なほどにあっさりと認めた。頭がより下がり、首が見える。
「第一、ナギサさんはセス様にとって大事な人。この城から動かすことはもちろん、貴方ごときが勝手にどうこうできる存在ではありません」
シルヴェンヌの弓が、マサトキの首に押し当てられた。
「何を勘違いしているかは知りませんが、この城に貴方が留め置かれているのは外に出すと何をするかわからないからです。決して、セス様から信頼があるとは思わないように」
「は。肝に銘じておきます」
シルヴェンヌの目が細められた。
「貴方に関しては、セス様が悲しまないという確証が得られた時点で殺しますから。悠長におしゃべりをしている暇はないのではなくて?」
「これは手厳しい」
どこか愉し気に笑いながらマサトキが言った。音に合わせて首が動き、弓がわずかに揺れる。
「ですが常に気を張っていたところで身共の有用性を示す場がないのも事実。時が来れば、いずれわかりましょう」
「それまで首が繋がっているといいわね」
シルヴェンヌが弓をマサトキの首からはなした。
「失せなさい」
「はは」
大仰にマサトキが頭を下げ、腰を曲げたまま下がり、シルヴェンヌと十分に距離を取ってから背を向けて腰を伸ばした。そのまま歩いて去っていく。オルディニがしっかりと後に続いた。
「義兄上は?」
メルクリウスがシルヴェンヌに尋ねる。
「セス様は忙しいの」
ナギサをちらりと見ることもなくシルヴェンヌがメルクリウスの方に振り向き、彼の肩に弓を当てて顔を近づけた。
「メーク、アンヘル・サグラーニイは本当に死んでいるの?」
何度目かわからない心のため息を吐きながら、ナギサは周囲の警戒に当たる。マサトキの足音はもう警戒しなくてもいい距離だろう。
「ヴァシム城からミュゼルに運ぶまでの距離は相当あるし、生きてたら相当抵抗すると思うんだけど」
「前線基地イシオンからリフルを経由してミュゼルに移送したなら船団を使ったかもしれない。それに、陸路でも翼人族に攻め込むときの師団を利用すれば大軍勢の中に入れて置ける。備えはいくらでも取れないかしら」
「可能性は低いよ」
話が飲みこめないのか、メルクリウスが眉を寄せながら小声で言った。
シルヴェンヌの昏く冷たい目がメルクリウスに向く。
「万が一その低い可能性に当たったら、貴男がアンヘル・サグラーニイを殺しなさい」
ナギサの見開いた目とメルクリウスの目が合った。
メルクリウスがゆっくりと目を逸らす。
「義兄上は?」
「セス様なら死んだという覚悟ができているわ。それによく考えて。生きているアンヘル・サグラーニイは必要? 邪魔なだけじゃない。ニチーダさんくらいでしょ。居ても裁量権が変わらないのは」
「僕が殺したって義兄上には言わないでよ」
ため息交じりにメルクリウスが言った。
口を挟もうとしたナギサを、シルヴェンヌの底のない目が捉える。
「あれはわたくしとセス様の仲を裂こうとしたの。セス様が悲しまない状況なら、死んで当然じゃない。それに、生きていたとしてもいつかは別れるもの。二度も味わう方が不幸ではなくて?」
シルヴェンヌの紅い目がゆっくりとナギサから離れた。そこで漸く、ナギサは自身の息が止まっていたことを自覚した。息も荒い。
シルヴェンヌの白脚に巻き付いている羽根だけが見える魔法の矢筒から、グシスナウタルが一本ぬきだされた。そのままメルクリウスの手に渡る。
「全力を出せない状態であることを祈るよ。流石に、人間をけしかけてもたかが知れているだろうしね」
メルクリウスがいつもの調子でそう言った。
シルヴェンヌがメルクリウスから離れる。
「現を抜かさないように」
「……何に抜かすんだよ」
冷たく言ったシルヴェンヌに、メルクリウスが親に事実を指摘されて拗ねた男子中学生のような声を出した。怒っているのに怒っていないとでも言っているような声である。
何時ものように光のない紅眼がナギサに向いた。
「ナギサさんも、よろしく頼みます。セス様のために、ね」
やや硬く威圧のあった声だが、珍しいこともあるのだなという感情が勝ったため少し呆けたような間が空いてしまった。
ナギサが軽く頭を下げる。
「かしこまりました」
ナギサが頭を上げる前にシルヴェンヌが去っていく気配がした。
頭を上げればメルクリウスが近づいてくる。
「心配性なんです。あれで。……特に義兄上に必要な人が自分の目から離れるときは。ま、元々精神的に不安定な人ですから。気まぐれだなー程度に思っていてください」
後半は明るく言って、メルクリウスが笑い飛ばした。
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