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その5
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「どうしたんですか? 具合でも悪いんですか?」
部屋に入るなり、いきなり玄関先で後ろから翔一郎さんに抱きすくめられた。翔一郎さんが持っていた荷物が、目の前の床に放り投げられる。
言ってしまった後で、びっくりしたとは言え、その色気のない返しはなんだよ、と自分にがっかりする。翔一郎さんの前では、いつもスマートでかっこよくありたいのに。
「……疲れた……」
途中でメシも食わず、とにかく早く帰りたがっていた翔一郎さん。今回は一泊だったし、初日でもないし、ライブも問題なく終わった。ずっと一緒にいたのに、俺には翔一郎さんの疲れの原因が分からない。つねに見守っているつもりでも、なにも察せられないんだったら、見てないのと同じだ。俺はせつなく思いながら、胸に回された腕に手を添える。
翔一郎さんが俺の頭に頬を押しつけてきて、耳もとで髪の毛がざりざりとこすられる音がする。求められているのは、うれしい。たとえ理由が分からなくても、少しでも支えになれてるのなら。
「俺、あいつ嫌い」
わがままな子供のように、ぼそりとつぶやく翔一郎さん。
「あいつって……?」
大きなため息。さらにきつく抱きしめてくる腕。
「今井のことだよ。仕方なくつきあってるけど……」
翔一郎さんにだって、人の好き嫌いはあって当然だ。それでも、意外だった。俺も周りから二人は仲がいいって聞かされてたから、翔一郎さんの態度を見ても、まさか嫌いだとは思わなくて。しかも、こんなに精神的にぐったりするレベルだなんて、思いこみはおそろしい。
「とりあえず、中入りましょう」
求められている理由が分かって、俺は少しほっとした。靴を脱ぎ、リビングの隅に荷物を置く。
俺が住む部屋はミュージシャン向けで、リビングが防音になっていて、ドラムもOKだ。リビングの奥にドラムセットを置き、今はドラムセットのそばに翔一郎さんのエレアコも一本、アンプにつないで置いてある。そしてリビングを入ってすぐ、右隅に寄せるようにソファとテーブル。
壁に背もたれをつけて置いた、二人がけのソファの右が翔一郎さん、左が俺の定位置。こんなふうに、二人の間でなんとなくルールが決まっていき、翔一郎さんの物が部屋に増えていくのは、幸せなことだ。
「お茶、淹れましょうか?」
「いいからこっち来て」
切羽詰まった声で言われ、翔一郎さんにソファへと引っ張られた。座ると、また抱きしめられる。翔一郎さんの気持ちはまだ、おさまらないようだ。
「ごめんな、あいつのせいでちょっと……」
声が、心なしか震えていた。髪をなでたり、ぎゅっと抱きしめたり、背中をなでたり。俺のぬくもりをむさぼるように、せわしなく動く腕。
されるまま身を任せながら、俺は今日のチェックアウトから今井さんと別れるまでのことを、思い返す。やっぱりあの、タクシーの中でのやりとりだろうか。「真面目すぎるせいで、あんなことが起こった」と今井さんは言った。意味ありげには思えたけど、そんなにも重い意味があったんだろうか。
「……翔一郎さん……?」
肩に、熱く濡れる感覚。驚いて翔一郎さんの顔を見ようとしても、翔一郎さんの顔は、俺の肩に強く押しつけられている。その上、しっかりと俺を抱きしめる腕がそれを許さない。じわじわと肩を濡らす熱さが、するりと俺の肌を滑り落ちる。
翔一郎さんが抱える傷は、なにかのきっかけですぐ開いてしまうほど、いまだに赤々と生々しい。初めてそれを見せられて、俺はただただとまどうばかりだ。
俺が思うバンドの解散の件だとしたら、あれからもう十五年ぐらいは経っている。いつまでも癒えない、深すぎる傷を穏やかな笑顔の下に隠して、この人はずっと生きてきた。重すぎる事実に、目の前が暗くなる。
昔翔一郎さんのバンドがデビューして数年経った頃、バンド内で意見の衝突があり、メンバー同士のケンカや嫌がらせの果てに、ベースの岡さんが対バンイベント当日に失踪した。イベントはなんとか代役を立ててこなしたものの、今でも岡さんは見つかっていない。ベースがいなくなったバンドは、あまり売れてなかったこともあり、解散に追いこまれた。俺が知っているのは、そういう話だった。
俺はただ、「知っている」だけだった。それがいまだに翔一郎さんをこんなにも苦しめているなんて、思いもよらなかった。
言葉が、頭の中からいっせいに逃げ出してしまった。かけるべき言葉を探すどころか、呆然としてなにも考えられない。今の俺にできることは、翔一郎さんの髪や背中をなでることだけ。
「ごめん、ごめんな、隆宣……」
涙声で謝る翔一郎さん。訳が分からない。謝られるようなことは、なに一つされていない。今はひたすら、幸せなだけなのに。
「またあいつに、大事なものを奪われるかも知れないと思うと怖くて、それに今まで気づけなかったのも、バカすぎて情けなくて……」
翔一郎さんはようやく顔を上げ、鼻をすすり上げながら涙で濡れた顔を手の甲でこすった。俺はテーブルの上にあったティッシュを引き出し、翔一郎さんの顔をそっと拭く。
約半年前、俺達が結ばれた時は逆だった。俺は飲み過ぎたせいか、翔一郎さんに髪をなでられて涙腺が崩壊して、涙とともに想いを告げた。最低の告白だった。でもそんな俺を、翔一郎さんは優しく受け止めてくれた。
まだまだガキの俺に、翔一郎さんの傷を受け止めきれるとは思えないけど、それでも。
「また、っていうのは、どういうことですか?」
俺はおそるおそる訊いた。
「ベースの岡、分かるよな? 岡を追いつめたのは、どうやらあいつだったらしいんだ。俺はリーダーだったのに、ずっと一緒にいたのに、全然気づけなかった……」
やっぱり、その話だった。
今みたいにそこまで気軽にネットで動画が見られる時代じゃなかったし、翔一郎さんのバンドは映像があんまり残ってない。だから俺は、岡さんを写真でしか知らない。岡さんはバンドのムードメーカーで、丸い目と団子鼻。見た目だけじゃなく性格も、愛嬌のある人だった。そう、バンドのファンだった兄貴に聞いている。
俺の肩に顔を埋める、翔一郎さんの髪をなでる。どう言うべきか分からず、翔一郎さんをなぐさめる力もなく、ただ弱々しくなでているだけ。情けない。かなしい。つらい。
「なんで、そんなことを?」
ようやく俺の口から出た言葉。俺を抱きしめる腕にまた力がこもり、翔一郎さんは黙ってしまった。
「……まさか、翔一郎さんのことが好きだったから、とか……?」
少しの間の後、ほんのわずかに、でも確かに翔一郎さんはうなずいた。
「ごめんな、もしお前になんかあったらごめんな」
真っ赤になった目で、翔一郎さんは少し取り乱したように言った。
「あれからかなり経ってるし、あいつも結婚したし、もうあきらめたと思ってたんだ、でもあいつがお前を見る目が厳しいのにも、リハの時から気づいてたのに……」
翔一郎さんは興奮し、冷静さを失っていた。今井さんになにかされるかも知れないという思いに、とらわれすぎている。その姿が痛々しすぎて、俺まで泣きそうになってしまう。
「もう、あんな思いはしたくない……」
また泣き出した翔一郎さんを、しっかり抱きしめる。愛しい。本当に愛しい。
酔っていた今井さんに「俺よりあいつの方がいいのか」と言われたことで、もしかすると昔と同じことが繰り返されるかも知れないと、翔一郎さんは恐れたのだろう。そしてそれは、今日一日で確信に変わったのか。ということは、翔一郎さんと岡さんは……。
「俺は、大丈夫です」
根拠なんてない。でも、とにかく翔一郎さんを安心させたい。今井さんがなにかしかけてくるとは限らないし、その見きわめはツアー中にできるだろう。
「岡さんの時は、ベーシスト同士でしょう? でも俺はドラマーですから」
翔一郎さんを見つめ、手を握りながら言うと、翔一郎さんは泣きながら、弱々しく首を振った。
「あいつは岡を追いつめといて、なにも知らないふりで代役をした、そんな男だ」
鋭い目が笑うと途端に優しくなる笑顔を思い出しながら、俺にはまだ信じられない思いがある。そんなに悪い人には思えない。それもこれから、見きわめていこう。
「大丈夫です、なんかあったら逃げますから。音楽やめて、店でもやります」
絶句して俺を見つめる翔一郎さん。よっぽど衝撃的だったのか、涙も止まった。
つらいことからは、逃げればいい。生き方は一つじゃない。音楽も大事だけど、俺には翔一郎さんを守っていくことの方が大事だ。
「……そうか、お前は料理もできるもんな……」
やがて、そろそろとようやく言葉を吐き出すように、翔一郎さんは言った。
「はい、翔一郎さんも手伝ってくれますか? ライブができる店がいいかもですね」
元気づけられればと思った。でも、翔一郎さんの表情は曇ったままだ。
「音楽は、やめられないよ」
少しの沈黙の後、濡れたまつげを伏せて、ほんのわずかに翔一郎さんは微笑んだ。
「岡の分も、俺は死ぬまで音楽をやるって、決めてるから。そのために、あいつのこととか、ずっと耐えてきたんだから」
はかない、声。それでいながら、固い決意がこめられている。傷とともに、岡さんへの想いも抱えて、翔一郎さんは音楽をやるために生きてきた。この人の強さの源を見た気がして、今度は俺がなにも言えなくなる。
「……でも、そうだな、必ずしもプロであることにこだわらなくてもいいんだよな」
盛大に鼻をかむと、噛みしめるように翔一郎さんは言った。結構濡れちゃったな、とか言いながら俺の濡れた肩も拭いてくれる笑顔に、少し明るさが戻る。
「俺だってこのまま行けばビルオーナーだもん、店で好き勝手に音楽やるって手もあるか」
たちまち想像が広がる。店には小さなステージがあって、夜はなにかしらライブをやる。翔一郎さんは友達が多いから、ミュージシャンのたまり場になるかも知れない。俺が料理を作って、昼はランチをやってもいい。
「それ、いいですね。テナント料も浮きますし」
くすくす笑いあう。涙で濡れた笑顔のまま、翔一郎さんは俺を見つめた。
「ありがとう、隆宣」
透きとおるような、とてもきれいで清々しい笑顔。
「逃げる勇気も、必要だよな」
「そう、嫌なら逃げればいいんです」
俺の言葉が一瞬でも、翔一郎さんの気持ちを晴らすことができた。それが本当に、うれしくて。
どちらからともなく、キスをする。どうかこれ以上は、涙味のするキスはしなくても済むようにと、願いながら。
「さあ、泣いたら腹減ったでしょう? なんか作りますから、顔洗って下さい」
「お前は、本当に……」
立ち上がりながら、苦笑いする翔一郎さん。
「本当に、なんです?」
「おふくろみたいだ」
いつもの、俺が大好きな優しい笑顔。きれいで、心に染み渡る。
「元気になるには、うまいものが一番ですから」
今日は、翔一郎さんが好きな中華にしよう。チャーハンとスープを作って、あとはなにか適当に、炒め物でも作ろう。
本当に大変なのは、これからかも知れないけど。翔一郎さんと一緒なら、大丈夫だ。
部屋に入るなり、いきなり玄関先で後ろから翔一郎さんに抱きすくめられた。翔一郎さんが持っていた荷物が、目の前の床に放り投げられる。
言ってしまった後で、びっくりしたとは言え、その色気のない返しはなんだよ、と自分にがっかりする。翔一郎さんの前では、いつもスマートでかっこよくありたいのに。
「……疲れた……」
途中でメシも食わず、とにかく早く帰りたがっていた翔一郎さん。今回は一泊だったし、初日でもないし、ライブも問題なく終わった。ずっと一緒にいたのに、俺には翔一郎さんの疲れの原因が分からない。つねに見守っているつもりでも、なにも察せられないんだったら、見てないのと同じだ。俺はせつなく思いながら、胸に回された腕に手を添える。
翔一郎さんが俺の頭に頬を押しつけてきて、耳もとで髪の毛がざりざりとこすられる音がする。求められているのは、うれしい。たとえ理由が分からなくても、少しでも支えになれてるのなら。
「俺、あいつ嫌い」
わがままな子供のように、ぼそりとつぶやく翔一郎さん。
「あいつって……?」
大きなため息。さらにきつく抱きしめてくる腕。
「今井のことだよ。仕方なくつきあってるけど……」
翔一郎さんにだって、人の好き嫌いはあって当然だ。それでも、意外だった。俺も周りから二人は仲がいいって聞かされてたから、翔一郎さんの態度を見ても、まさか嫌いだとは思わなくて。しかも、こんなに精神的にぐったりするレベルだなんて、思いこみはおそろしい。
「とりあえず、中入りましょう」
求められている理由が分かって、俺は少しほっとした。靴を脱ぎ、リビングの隅に荷物を置く。
俺が住む部屋はミュージシャン向けで、リビングが防音になっていて、ドラムもOKだ。リビングの奥にドラムセットを置き、今はドラムセットのそばに翔一郎さんのエレアコも一本、アンプにつないで置いてある。そしてリビングを入ってすぐ、右隅に寄せるようにソファとテーブル。
壁に背もたれをつけて置いた、二人がけのソファの右が翔一郎さん、左が俺の定位置。こんなふうに、二人の間でなんとなくルールが決まっていき、翔一郎さんの物が部屋に増えていくのは、幸せなことだ。
「お茶、淹れましょうか?」
「いいからこっち来て」
切羽詰まった声で言われ、翔一郎さんにソファへと引っ張られた。座ると、また抱きしめられる。翔一郎さんの気持ちはまだ、おさまらないようだ。
「ごめんな、あいつのせいでちょっと……」
声が、心なしか震えていた。髪をなでたり、ぎゅっと抱きしめたり、背中をなでたり。俺のぬくもりをむさぼるように、せわしなく動く腕。
されるまま身を任せながら、俺は今日のチェックアウトから今井さんと別れるまでのことを、思い返す。やっぱりあの、タクシーの中でのやりとりだろうか。「真面目すぎるせいで、あんなことが起こった」と今井さんは言った。意味ありげには思えたけど、そんなにも重い意味があったんだろうか。
「……翔一郎さん……?」
肩に、熱く濡れる感覚。驚いて翔一郎さんの顔を見ようとしても、翔一郎さんの顔は、俺の肩に強く押しつけられている。その上、しっかりと俺を抱きしめる腕がそれを許さない。じわじわと肩を濡らす熱さが、するりと俺の肌を滑り落ちる。
翔一郎さんが抱える傷は、なにかのきっかけですぐ開いてしまうほど、いまだに赤々と生々しい。初めてそれを見せられて、俺はただただとまどうばかりだ。
俺が思うバンドの解散の件だとしたら、あれからもう十五年ぐらいは経っている。いつまでも癒えない、深すぎる傷を穏やかな笑顔の下に隠して、この人はずっと生きてきた。重すぎる事実に、目の前が暗くなる。
昔翔一郎さんのバンドがデビューして数年経った頃、バンド内で意見の衝突があり、メンバー同士のケンカや嫌がらせの果てに、ベースの岡さんが対バンイベント当日に失踪した。イベントはなんとか代役を立ててこなしたものの、今でも岡さんは見つかっていない。ベースがいなくなったバンドは、あまり売れてなかったこともあり、解散に追いこまれた。俺が知っているのは、そういう話だった。
俺はただ、「知っている」だけだった。それがいまだに翔一郎さんをこんなにも苦しめているなんて、思いもよらなかった。
言葉が、頭の中からいっせいに逃げ出してしまった。かけるべき言葉を探すどころか、呆然としてなにも考えられない。今の俺にできることは、翔一郎さんの髪や背中をなでることだけ。
「ごめん、ごめんな、隆宣……」
涙声で謝る翔一郎さん。訳が分からない。謝られるようなことは、なに一つされていない。今はひたすら、幸せなだけなのに。
「またあいつに、大事なものを奪われるかも知れないと思うと怖くて、それに今まで気づけなかったのも、バカすぎて情けなくて……」
翔一郎さんはようやく顔を上げ、鼻をすすり上げながら涙で濡れた顔を手の甲でこすった。俺はテーブルの上にあったティッシュを引き出し、翔一郎さんの顔をそっと拭く。
約半年前、俺達が結ばれた時は逆だった。俺は飲み過ぎたせいか、翔一郎さんに髪をなでられて涙腺が崩壊して、涙とともに想いを告げた。最低の告白だった。でもそんな俺を、翔一郎さんは優しく受け止めてくれた。
まだまだガキの俺に、翔一郎さんの傷を受け止めきれるとは思えないけど、それでも。
「また、っていうのは、どういうことですか?」
俺はおそるおそる訊いた。
「ベースの岡、分かるよな? 岡を追いつめたのは、どうやらあいつだったらしいんだ。俺はリーダーだったのに、ずっと一緒にいたのに、全然気づけなかった……」
やっぱり、その話だった。
今みたいにそこまで気軽にネットで動画が見られる時代じゃなかったし、翔一郎さんのバンドは映像があんまり残ってない。だから俺は、岡さんを写真でしか知らない。岡さんはバンドのムードメーカーで、丸い目と団子鼻。見た目だけじゃなく性格も、愛嬌のある人だった。そう、バンドのファンだった兄貴に聞いている。
俺の肩に顔を埋める、翔一郎さんの髪をなでる。どう言うべきか分からず、翔一郎さんをなぐさめる力もなく、ただ弱々しくなでているだけ。情けない。かなしい。つらい。
「なんで、そんなことを?」
ようやく俺の口から出た言葉。俺を抱きしめる腕にまた力がこもり、翔一郎さんは黙ってしまった。
「……まさか、翔一郎さんのことが好きだったから、とか……?」
少しの間の後、ほんのわずかに、でも確かに翔一郎さんはうなずいた。
「ごめんな、もしお前になんかあったらごめんな」
真っ赤になった目で、翔一郎さんは少し取り乱したように言った。
「あれからかなり経ってるし、あいつも結婚したし、もうあきらめたと思ってたんだ、でもあいつがお前を見る目が厳しいのにも、リハの時から気づいてたのに……」
翔一郎さんは興奮し、冷静さを失っていた。今井さんになにかされるかも知れないという思いに、とらわれすぎている。その姿が痛々しすぎて、俺まで泣きそうになってしまう。
「もう、あんな思いはしたくない……」
また泣き出した翔一郎さんを、しっかり抱きしめる。愛しい。本当に愛しい。
酔っていた今井さんに「俺よりあいつの方がいいのか」と言われたことで、もしかすると昔と同じことが繰り返されるかも知れないと、翔一郎さんは恐れたのだろう。そしてそれは、今日一日で確信に変わったのか。ということは、翔一郎さんと岡さんは……。
「俺は、大丈夫です」
根拠なんてない。でも、とにかく翔一郎さんを安心させたい。今井さんがなにかしかけてくるとは限らないし、その見きわめはツアー中にできるだろう。
「岡さんの時は、ベーシスト同士でしょう? でも俺はドラマーですから」
翔一郎さんを見つめ、手を握りながら言うと、翔一郎さんは泣きながら、弱々しく首を振った。
「あいつは岡を追いつめといて、なにも知らないふりで代役をした、そんな男だ」
鋭い目が笑うと途端に優しくなる笑顔を思い出しながら、俺にはまだ信じられない思いがある。そんなに悪い人には思えない。それもこれから、見きわめていこう。
「大丈夫です、なんかあったら逃げますから。音楽やめて、店でもやります」
絶句して俺を見つめる翔一郎さん。よっぽど衝撃的だったのか、涙も止まった。
つらいことからは、逃げればいい。生き方は一つじゃない。音楽も大事だけど、俺には翔一郎さんを守っていくことの方が大事だ。
「……そうか、お前は料理もできるもんな……」
やがて、そろそろとようやく言葉を吐き出すように、翔一郎さんは言った。
「はい、翔一郎さんも手伝ってくれますか? ライブができる店がいいかもですね」
元気づけられればと思った。でも、翔一郎さんの表情は曇ったままだ。
「音楽は、やめられないよ」
少しの沈黙の後、濡れたまつげを伏せて、ほんのわずかに翔一郎さんは微笑んだ。
「岡の分も、俺は死ぬまで音楽をやるって、決めてるから。そのために、あいつのこととか、ずっと耐えてきたんだから」
はかない、声。それでいながら、固い決意がこめられている。傷とともに、岡さんへの想いも抱えて、翔一郎さんは音楽をやるために生きてきた。この人の強さの源を見た気がして、今度は俺がなにも言えなくなる。
「……でも、そうだな、必ずしもプロであることにこだわらなくてもいいんだよな」
盛大に鼻をかむと、噛みしめるように翔一郎さんは言った。結構濡れちゃったな、とか言いながら俺の濡れた肩も拭いてくれる笑顔に、少し明るさが戻る。
「俺だってこのまま行けばビルオーナーだもん、店で好き勝手に音楽やるって手もあるか」
たちまち想像が広がる。店には小さなステージがあって、夜はなにかしらライブをやる。翔一郎さんは友達が多いから、ミュージシャンのたまり場になるかも知れない。俺が料理を作って、昼はランチをやってもいい。
「それ、いいですね。テナント料も浮きますし」
くすくす笑いあう。涙で濡れた笑顔のまま、翔一郎さんは俺を見つめた。
「ありがとう、隆宣」
透きとおるような、とてもきれいで清々しい笑顔。
「逃げる勇気も、必要だよな」
「そう、嫌なら逃げればいいんです」
俺の言葉が一瞬でも、翔一郎さんの気持ちを晴らすことができた。それが本当に、うれしくて。
どちらからともなく、キスをする。どうかこれ以上は、涙味のするキスはしなくても済むようにと、願いながら。
「さあ、泣いたら腹減ったでしょう? なんか作りますから、顔洗って下さい」
「お前は、本当に……」
立ち上がりながら、苦笑いする翔一郎さん。
「本当に、なんです?」
「おふくろみたいだ」
いつもの、俺が大好きな優しい笑顔。きれいで、心に染み渡る。
「元気になるには、うまいものが一番ですから」
今日は、翔一郎さんが好きな中華にしよう。チャーハンとスープを作って、あとはなにか適当に、炒め物でも作ろう。
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