過去形呪文、不可視呪文

天渡清華

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「……入って」
 うつむいたまんまでも、村田の表情がよく見えた。長いまつげがひっそりまたたいて、唇がほんのちょっとゆがむ。
 ああ、こんなに髪短い村田は初めてだな。
 そんなことをぼんやり思って俺は笑った。そよ風ひとつ吹かない砂漠みたく、心が静かだ。たぶん砂の下には、サソリだのヘビがいるんだろうけど。
 きれいだと思ってた、俺の欲しかったもの。ずっとずっと欲しかった。手を伸ばしては振り払われて、それでも欲しかった。だけどそれは、もう凌太のものだった。
 気づくチャンスはいくらでもあったんだろうけど、俺は俺が見たい村田しか、見てなかったことになる。バカだ。でもこれが、俺なんだよな。
 無言でエレベータに乗り、鍵を開けて部屋に入っても、村田は電気もつけず突っ立っている。
 東京に出てきてから、初めて入った村田の部屋。暗くても、必要最小限の家具しかないのが分かる。ただ、テレビだけは大きい。
「いいのか」
 訊くと、本当に小さく影がこくん、とうなずいた。
 明るくしたくない気持ちは、分かる。でも俺にそれを許す気はなかった。だって俺が欲しいのは、確かに村田を抱いてるんだっていう実感だから。
 食う側に、容赦や躊躇があっちゃなんねえんだ。
 なにも言わず電気をつけて、荷物をソファに放り投げ村田を抱き寄せる。
 ごつん、ごとごとっ。袋から落ちた缶ビールが床に転がる重い音が、やけに部屋に響く。
「そうだ、ビール飲むか?」
 ぬくもりが重なり、混じりあってとける。夏の初めの今は、幸せなその感覚もちょっとべたつく。俺なに言ってんだろう、って思いも、人肌でとけた。
 答えずに相変わらず黙ってる村田の頬にふれると、少し汗ばんでいた。キスする瞬間、唇がぴくりと動いて俺を拒否する。構わずにきつく身体を触れあわせたまま、両手で顔を包みこんで思いっきりむさぼった。
 むさぼるほどに膨張していく俺の熱を避けるように、村田の腰が引ける。その腰をぐっと引き寄せ、俺のそこを村田の腰に押しつける。
「この前までガリガリだったのに、だいぶ筋肉ついてきたな」
 村田は今稽古中の舞台のために、身体を鍛えていた。もともとスリムな身体にほどよく筋肉がついて、まさに細い身体で俊足な草食動物だ。
 目を伏せ、俺を見ない。なにも言わない。それでいい。それで構わない。俺はただひたすら、気が済むまで食い尽くすだけだ。そうだ、恋人ごっこがしたいなんて、思うべきじゃねえんだ。
 立ったまま、何度も髪をなでキスを繰り返す。髪は、長い方がよかったな。村田には長い方が似あうし、色っぽい。指先で髪をもてあそぶ楽しみもなくて、少しつまんねえ。
「好きなんだ」
 すいっ、と紙を引き出すように、自然にそう言ってた。まっすぐで、弾むようにやわらかい声。俺にもこんな声が出せるなんて。少し、驚いた。
 やっぱり俺は恋人ごっこがしたい。ただ犯すように抱くなんて嫌だ。
「え?」
 村田が、なにか言った。でもかすかすぎて、聞き取れない。
「いつ? いつ、見た?」
 まっすぐに俺を見る瞳。力強く、まぶしく。きれいだ。きれいすぎて、残酷なくらい、きれいだ。
「……まあ、いいや。一回だけだからな」
 さらっとなんでもないことのように言う、その言葉が一撃で俺を打ちのめす。ほんの少し、微笑んでさえいる。こんなこと、村田に言わせちゃいけなかった。気づいても、もう遅い。
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