過去形呪文、不可視呪文

天渡清華

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 その時、左の方から歩いてくる人影。あの髪型、歩き方、たぶん村田だ。
「村田!」
 なんとかそいつがマンションに入る前に、道の向こう側から声をかけた。思わず出てしまった大声に振り返ったのは、やっぱり村田だ。
「日置? なんで?」
 村田は露骨に眉をしかめて、道を渡る俺を見る。アポなし訪問、しかも片手には缶ビール。当然の反応だ。
「ちょっと、話がしたくて」
 村田はなにも言わない。不安げで不審げな、警戒の表情。
 凌太は、凌太は……。俺が、凌太だったら……。
 ああダメだダメだ、考えんな、俺!
「とりあえず、部屋入れて」
 すさまじい勢いで沸騰する思いを、なんとかぐっとこらえる。ここでぶちまけたら、みんなパーだ。
「……話って、なに?」
 村田は動かない。表情も硬いままだ。できればこの場で追い返そうってのか?
 悔しいけど、友達でさえあんまり部屋に入れたがらないヤツだから、想定内の反応。それにこれまでのことを考えれば、村田と二人きりで俺がやることなんて、一つっきゃねえし。
 ごめん村田、俺もう、こうするっきゃねえんだ。これしか思い浮かばねえんだ。好きなんだ、好きだから抱きてえんだ。
「凌太にはしょっちゅうヤらせてんのかと思うと、気狂うわ」
 やっぱりダメだった。思ったことがまんま、言葉になっちまった。どす黒くて、鉄の玉みたいに硬い言葉の塊。
 でも村田は、まるで全部分かってたみたいに、表情を動かさずちょっとだけ目を伏せた。俺をたまらなくさせる、繊細な仕草。
 見ちまった。見ちまったんだよ、見るまでは凌太とはなんもないと思いこんでた俺がおかしいんだろうけどさ。
 演劇集団カーゴ初の全国ツアー、千秋楽間近の東京公演中、マチネとソワレの間。他に誰もいない楽屋で、疲れてぼんやりしている村田の肩を、凌太が後ろから揉んでやっていた。そこまでは、珍しいことじゃない。だけど、次の瞬間。
 後ろから村田にするっと腕を回して抱くと、凌太はごく自然にそのままキスした。入り口付近に立ってた俺に鏡越しに見られてるとも知らず、少しの間キスを交わすと、あとは何事もなかったように二人して黙って並んでた。
 そこにいたのは、俺の知る凌太じゃなかった。いかにも慣れた仕草がエロくて、見たことのない男の顔をしてた。村田の顔は見えなかったけど、そういう関係になってある程度長そうなのは、普通に受け入れてることからしても明らかで。
 ああ、そうだったんだ。ぽつんと、思った。その時は、ただそれだけ。
 しばらくしたら波が来たように、そりゃもういろいろ考えた。考えすぎて嫌になって、もうやめようと思っても、それはいつでもどこでもやってくる。たちまち俺の思考を支配する。
 そして今、ここにいる。
 俺達ふたり、サバンナの肉食動物と草食動物みたいだと、村田は言った。意味が分からずあとで凌太に訊くと、食べ物が違うってだけで、絶対に分かりあえない。人生が重なるとしたら、食う食われるのその一瞬だけ。凌太はなんで分からないんだとばかり、俺にそう解釈してみせた。
 なら俺は、肉食動物になるしかねえ。分かりあうことさえできないんだと、そう言われちまった。そしたらもう、村田を食って肌を重ねて、一瞬でいいから力ずくでも俺のモノにするしか、ねえじゃんか。
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