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茶と菓子と犬神の軍師
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■
じゅうじゅうと音を立てて、金網の上の肉が焼けていく。
絶え間なく湧き上がる煙は、瞬く間に無煙ロースターの穴に吸い込まれていく。
切風は、真剣な眼差しで、特性カルビを見つめていた。
「……あのう」
「どうした、茉莉? カルビ嫌い? ロースにする? ラムやマトンがいいかな、好みが分かれるかなって思ったんだけど」
「いえあの、そうではなくて。……どうして焼肉なんですか?」
その問いに答えたのは、茉莉の向かいに座る切風ではなく、横に並んだ雷蘭だった。
「どうして? どうしてって、勝利のお祝いだからよ」
「分かるような、全然腑に落ちないような。というか雷蘭さん、怪我はもういいんですか?」
「必要な手当てはしたし、お肉食べれば治るでしょう」
雷蘭は、器用にトングでカルビをひっくり返しながら答える。目はじっと肉を見つめ続ていたが。
「そういうの、よくないと思いますけど……」
「そうか、マツリはよそから来たんだものね……。信州は飯田というところはね、なにがあっても焼肉、なにもなくても焼肉なのよ。これが、裏世界にお肉や道具を持ち込んでも、なぜか表世界でやるほどおいしくならないのよね」
本当ですか? と茉莉が切風に視線で問う。切風は、「前半も後半も本当だなー」と言いながら、きゅうりのキムチをぽりぽりとかじった。
「さ、これとこれはもういけそうね。マツリ、焼肉のたれもいいけど、このお店オリジナルのねぎだれも試してみてね。もともとはおでん用に生まれたという話も聞いたことがあるけれど、飯田のねぎだれはすべての料理のおいしさを引き出す魔法の調味料なの」
はあ、と言いつつ、茉莉は取り皿にカルビを取り、(そこまで言われては)ねぎだれにつけて口に入れた。
「え、うわ……おいしいです。凄く」
「飯田には焼肉店が多いから、切磋琢磨し合うのよね……ここみたいに、お肉屋さんが直接経営している焼肉店もあるし」
茉莉と、切風と、雷蘭。
あの大戦の翌日、三人だけの、平日昼間、ささやかな祝勝会だった。飯田市の夏は暑く、辛めに味つけした肉やビールのおすすめ文句が所狭しと張り出されている店内は、それなりに混んでいたが、さすがに飲酒している客は多くない。
あれほどの大勝を収めたのだから、宴などが催されるのだろうかと思っていた茉莉だったが、酒の席に誘われたりしなくてよかった、と少々安堵した。軍師という立場上、一方的に断るというのがなかなかに心苦しい(切風は気にするなと言ってくれたが)。
一応犬神茶房で祝勝会は予定しているらしいが、切風の軍には酒を飲む習慣のある妖怪は少ないという。ただ、大酒飲みの妖怪も珍しくないそうで、祝い事があるや七日七晩飲み続ける一族などが信州にもいるという。
「茉莉、君がいなかったら、少なくともこんなに犠牲を少なくして勝てなかったろーね。ありがとう」
「い、いえそんな。たまたま上手くいったところもありますし、私の思いつきが机上の空論にならないように、みなさんにかなり助けてもらいましたから。……あの、私はともかく、お二人は裏世界にいなくて大丈夫なんですか? いわゆる、戦後処理というか」
切風が、ふっと爽やかに笑った。
「そんなの、おれが得意なわけないじゃん。魏良に任せときゃいいようにやってくれるよ。ま、今回は攻めてきたやつらを返り討ちにしただけだから、分捕り品の類もないし、適当に済むでしょ」
「適当って。いいんですか、それで……?」
雷蘭が、次の肉を金網に並べながら言う。
「妖怪ってそんなものよ。今回の手柄で、のし上がりたい者はそうするでしょう。独自の兵力を持ったり、別勢力として独立するやつも出てくるかもしれない。そうだとして、それを止める権利も、そんなつもりもあたしたちにはない。とはいえ、しばらくは、南信州は一枚岩でいけそうね」
勝利の後、魏良が、正式に表明した。魏良党の解散と、新生切風党の本格的な立ち上げを。魏良の仲間をはじめ、『赫の王』たち外乱の脅威を前に、改めて切風のもとに集うべしと、南信州の妖怪は結束を決意していた。
「なんせ、おれっていう『牙の王』と、絶対不利を覆した軍師様がいるからね。大樹の陰に寄りたいんでしょ。……たぶん、おれたちが負け始めたら簡単にいなくなる味方だけどな」
切風が、面白くもなさそうに言う。茉莉も、その通りだろうなとうなずいた。
「あ、それと、犬神茶房で切風さんたちが祝勝会をやる時なんですけど……千哉くんって呼んでもいい……ですか?」
言葉の途中で、切風の目が明らかにすっと細められたせいで、茉莉が言いよどみかけた。
「ああー。いいんじゃねー? だめとは言わないよなー、誰も」
「切風様っ」
聞いたところ、千哉は今回の経緯を一通り師である祖父に報告し終えないうちは話してもらえないとのことで、恐らくは今朝からずっとそれに従事しているのだろう。
切風も千哉には感謝している様子はあるのだが、表立ってはそれを表現してくれない。仲良くなってくれるといいな、と茉莉は無邪気に思った。
「だってさー、あいつ完全に、茉莉の味方だから今回参加しただけでしょ? 祓い師と妖怪が共闘するって、あんまいいことないからなー。ま、これからも戦力になってくれるってんならありがたいけどさー」
「これから……」
茉莉が、焼けたロースに伸ばしかけた箸を止める。雷蘭が、「取っちゃいなさい」と言ってきた。
「あの、『赫の王』が言ってましたけど……今起きている事態に対処するには、七王をすべて束ねるくらいの力がいる、みたいなことを……。それって、前に切風さんが言ってた、日本最強の妖怪のことですよね」
「ああ。百年くらい前に並び立ってた、七匹の妖怪だよ。おれの『牙の王』と『赫の王』のほかに、『蒼穹王』『異郷の王』『碧玉の王』『霧の王』『乱神王』……だったかな。時には戦って、時には――本当にまれにだけど、時には手を組んだりもした。決着がついたことはなかったけどね。本拠地も互いに遠かったし。今どうしているのか、生き残ってるのかどうかも知らないけど」
「切風さんと同格の妖怪が、七人集まる必要があるくらいの危機……?」
「……ちょっと思ったのは、ね。恒河沙のやつ……あんな強引な進軍なんて、いくら信州を狙ってたとしても、道理に合わないなあ、と。まるで、なにかに怯えてるようにも見えたよ。そうでなけりゃ、仮にも七王の一角の本人が、『七王を統べる力』なんて口にしないんじゃねえかな。おれたちの力が、ほとんど互角だったのは、おれたち自身がよく知ってんだから」
物思いに半ばふけるようにしながらも、切風の箸は止まらなかった。二皿目の牛タンが、次々に切風の皿に収まり、雷蘭が「マツリの分!」とたしなめる。
当の茉莉は、いいんです大丈夫、と言いつつ、雷蘭が焼いてくれたカルビをサンチュにくるみながら、ぽつりと漏らした。
「でも、それなら……おびえていたって、なにに……」
「さあね。気のせいかもしんねーし。とりあえずは、南は守ったんだから今度は西と北だ。体制が整ったら向かうぜ」
■
その翌日、茉莉が裏界線を通って、雷蘭の付き添いを得て犬神屋敷に向かうと、すでに祝勝会は始まっていた。
本当にほとんど酒類はないようで、代わりに、切風特製の茶が振舞われている。さすがに兵のすべては建物内に入りきらず、周りの平地に思い思いに腰を下ろした様々な妖怪が、その雑多さに見合わない精緻な造りの茶器を手にしてはしゃいでいた。
「切風さんっ」
「お、茉莉、来たか」
切風は犬神茶房の厨房で、大量の湯を沸かしている。さらに茶を入れ続けるらしい。
その横には、一足早く来ていた千哉がいて、切風を手伝っていた。茉莉がそれに触れると、
「正直言って、妖怪がどんなふうにお茶を入れるかなんて、凄く興味がある」
と照れたように言った。千哉はこの日は和装ではなくグレーのシャツの中に黒いTシャツ、グリーンのジーンズと、普段着で来ていた。
喫茶室には、魏良、伊織、紺模様、ワタヌキが奥にいて、茉莉に手を振ってきた。
また、第二軍にあって茉莉たちとともに恒河沙のもとへ切り込んだ犬妖たちも、茉莉が来たと知ると群がって賞賛の声を浴びせてきた。
「軍師殿、お見事でした!」
「初陣とは思えぬ名采配! 感服いたしました!」
「軍師殿なしには、この勝利はなかったでしょう! 切風様を頂きながら不甲斐ない我らをお導きくださり、なんと御礼を申してよいか!」
ひええ、と恐縮しながらちらりと見ると、隅のほうから成家が羨ましそうにこちらを見ている。聞いたところでは、彼も掃討戦ではそれなりに活躍したらしいが。
茉莉は、こちらこそと礼を述べて厨房に戻った。
幸い、そこには切風と千哉、雷蘭もいたので、気になっていたことを切り出す。
「その……これから、のことなんですけど」
「おう、なに、茉莉?」
「表と裏の世界の時間の流れ方が違うおかげで、裏世界に長い時間いても、表での影響が小さいっていうことには、感謝しているんですけども」
「うんうん」
「凄く……言いにくいことなんですが」
ただならぬ気配に、切風が、火元から茉莉に深く注意を向ける。
千哉と雷蘭も顔を見合わせた。
「どうした? いいよ茉莉、なんでも言って」
「私、もうすぐ……学校が始まるんですよね」
茉莉以外の三人は、なにを言っていいのか分からず、続きを待った。
「も、もちろん、裏世界にとっては学校どころじゃないことが起きてるんだろうなって、分かっているんです。でも私、ずっと友達がいなくて。大人になったら、あまり人としゃべらなくていいような仕事に絶対につこうって思っていたくらい、人づき合いが苦手で。でも切風さんたちと出会って、少しだけ自信というか、私もがんばればやれるかもって思い始めたというか、雷蘭さんとだって仲良くなれましたし、こんな私でも将来のことを少しは考えてまして、そのためには学校は……行っておきたくて。そうすると……みなさんと一緒に戦うのに、制約ができてしまうと思うんです……どうしたらいいんだろうって、私……」
うつむいてまくしたてていた茉莉が、恐る恐る三人を見る。三人ともあっけにとられていた。
「……ああ。うん」と切風が、火加減に再び気を配りつつ答えた。「その辺の感覚、おれたちと茉莉たちで違うのかもだけど。それで全然構わないよ、学校行きながらで。ずっとべったり一緒にいてほしいとは思わない」
「そ、そう……なんですか? 薄情というか、無責任なんじゃないかって……」
「茉莉がいない間の戦いは、おれたちの責任だよ。そうだな、学校って昼間でしょ? 夜だけ来てくれれば充分ありがたいよ。必要な時以外は毎日じゃなくていいし、妖怪の性質からして、たぶん大事な戦になるのはほとんど夜だしね」
雷蘭が、茉莉の横に来て言った。
「睡眠や疲労については、仙薬で負担を軽減できると思う。あたしたちのほうこそ、マツリには無理をさせてるって分かってるから……」
確かに、昨日雷蘭にもらった謎の黒い粉末を飲むと、睡眠不足も疲れもだいぶましになった。
こんな便利なものがあるんだ、と驚き、ハイになって千哉に教えてやったりもした。
「あ、でも今は私、まだ夏休みですから、しばらくはいろいろ無理もきくんです。今のうちに、できることをできれば」
そこで千哉が口を挟んだ。
「しばらくって、もう八月上旬だぞ。そんなに余裕ないだろ」
「え、どうして? まだあと一ヶ月近く夏休みでしょ?」
へ? と片眉を上げた千哉が、ああと手を打つ。
「茉莉、君、ちゃんと二学期の案内読んでないだろ。長野県の学校って、全部かどうかは知らないけど、夏休みが八月三十一日までじゃないぞ。僕もこっちに来てから知ったんだけど」
「え!? そんなことあるの!?」
「思い込んでたな。盆明け、すぐに二学期だ。まだ登校の準備してないなら、早くやっておけよ」
「き……聞いておいてよかった……! ありがとう、千哉くん……!」
両手を合わせる茉莉に、千哉がよせよと言って厨房を出ていく。
切風が、ふーんほーと言いながらその様子を見て、雷蘭はいたずらっぽい笑顔でそれを眺めていた。
・
屋根の上は、裏世界にしてはいくらか心地いい風が吹いていた――ように茉莉には思えたが、切風によると「気のせい」らしい。裏世界の風は、表のそれとはずいぶん理を異にするらしかった。
「あの祓い師の小僧、帰ったんだな」
「はい。おじいさんと用事があるそうで。小僧って」
切風は、盆の上に二人分の茶と菓子を載せている。
宴はまだ続いていた。しかし犬神屋敷の屋根の中央あたりに座ると、周囲の地上からはほとんど屋根の上の者の姿が見えなくなる。
喧騒はあるのに、切風以外の誰も景色の中にいない。独特の感覚だった。
「ん。食う?」と切風が盆を差し出した。
「なんだか私、全然遠慮しない人みたいですけど……いただきます」
菓子は、練り切りだった。白あんに、黄色のかぼちゃあんと明るい紫色の紫芋あんを合わせた鮮やかな色合いで、菖蒲をかたどっている。横に緑色の薄いようかんが添えられていた。
「茶は狭山茶だよ。色は静岡、香りは宇治、味は狭山でとどめさす……だったかな。仕上げの時にえらく高い温度で乾燥させるそうで、香りもいいよね」
「静岡や京都の人が聞いたら、怒られませんか」
「そうしたらそこの茶を飲みに行こう。練り切りにようかん添えたのはね、おれ、小豆あんに比べて、白あんてどうも触感がザラッとしてて気になってたんだけど。ぴんときたんだ、薄いようかんと一緒に口に入れれば、滑らかさが足されて解決するんじゃないかって」
目をきらきらさせている切風に促されて、茉莉は黒文字を手に取った。
練り切りを三分の一ほど切り取り、ようかんも少し切って、一緒に横から刺して口に運ぶ。
果たして、切風の狙い通りの味わいになっていた。
「わあ、おいしい……さらっとして、白あんの味が、かぼちゃや紫芋の味が分かるほどよい淡さで」
「だろー? 茉莉は、そう言ってくれると思ったんだー」
無邪気に笑う切風を見て、茉莉は切り出した。
「雷蘭さんもそうでしたけど、切風さんも、傷のほうはどうですか……?」
総大将が重傷を負ったという噂でも広がれば士気に関わるので、この件については人前で触れないように茉莉は切風から釘を刺されていた。
そのため、戦いを終えてから今まで、茉莉は切風の脇腹に視線さえ送らないように意識していた。
「だいぶいいよ。裏世界は、表より霊気が濃いからさ、自分から遮断でもしてなければ傷の治りは人間とかよりずーっと早い」
「そういう感覚、私も早く慣れなくちゃいけないですよね。作戦を立てるのに、大事なことですもんね」
「……作戦ね」
「……なにか?」
「本当に、これからもおれたちと戦うの?」
「え?」
「作戦を立てて成功させて、最前線まで危険を冒して戦ってくれた。もう、恩なんて返し終わったんじゃないのか? そうすれば、おれたちはただの人間と妖怪だよ。交わらないことが当たり前で、交われば大抵人間が不幸になる。君は裏世界のことなんて忘れて、表で安全に平和に生きていけばいい。裏界線の通り方を忘れるだけで、おれたちとは縁が切れる」
「……そ、」
「学校だって行き放題だ。誰にも気兼ねなく」
「それは……そうです、けど」
切風の目は真剣だった。
茉莉が喉を鳴らした。つい今まで口の中に残っていた練り切りの後味も、狭山茶の香りも、消え失せた。
「ここから先は、一緒に戦うならそれなりの覚悟がいる。ああ、さっき言ったとおり、ずっと寝食を共にしてべったりくっついて戦い抜くような覚悟じゃないよ。敵を、ためらいなく殲滅する覚悟だ。軍師は、そうじゃなきゃ務まらない。迷いがあれば、仲間や自分を決定的な死地に追い込むだろうね」
その道理は分かる。
茉莉は、日本の戦争史について人より多少詳しい程度だったが、中世以降現代にいたるまで、戦というのはそういうものだろうと理解できる。
「茉莉、君は、おれたちみたいな妖怪と、一部でも分かり合えちまう人間だ。妖怪の傷に心を病んで、怪異の死を悼んでしまう。戦の経験がない君が見せた、戦略の冴えはありがたいよ。ほかのやつらにはない力だ。でも、力ってのは、使わない自由もある」
決して、お前が役立たずだというわけではない。
切風がそう言ってくれているのは、茉莉にも分かった。
「で、も……」
「うん?」
「私が、いないと、……切風さんの武器が」
「どうにかして取り返すさ。刀になるおれの牙は四本あった。もう三本手に入れれば、一本くらいなくても平気だよ」
屋根の下の喧騒は続いている。
自分と切風のいる場所がそこから遠く隔たっている感覚は、強度を増した。
目の前の切風さえ遠く感じる。
「茉莉、目の前の感謝に流されることはないよ。たぶん、君は戦いに向かない。おれたちが勝てば、人間に手を出す妖怪なんて駆逐してやる。だから、心の中で応援でもしててよ」
「……そんな風に」
茉莉は、ん? と聞き返す切風の双眸を見つめた。吊り上がった目。けれど眼差しは優しい。
「そんな風に、私の祖父母とも別れたんですか」
しばらく、切風は黙った。
そして、遠くのほうを見つめながら答える。
「そう。確か、この飯田で、お練り祭りっていう祭りがあった年だったな。東野大獅子っていう獅子舞が出て、あいつらをとらえてた怪異の障りを全部消し飛ばした。それを好機に、別れたんだ。おれが傍にいれば、また怪異があいつらを絡めとるから、その前に」
「それっきり、二人とも会わずに?」
「ああ。別れ際に、支度が整ったらまた会いに行くって噓をついた。おれは生まれてから今まで、戦の駆け引き以外で嘘をついたことは、その一度しかない」
茉莉が立ち上がった。屋根の上には傾斜がなく、床板と変わらない。危なげなく歩き、食器をことことと盆に戻した。
「茉莉?」
「決めました」
「……そっか。この戦のことは、本当にありがとうな。おれたちは、君のこと絶対に忘れな――」
「戦います」
盆を手にして立つ茉莉を、座ったままの切風が見上げて、目をしばたたかせる。
「へ?」
「軍師として、新生切風党として戦います。感謝に応えるためじゃありません。私の意志で、私が望んでです」
「え。いや。……なんで?」
「私、独善的だし、心は狭いし、全然いい人じゃないんですよ。友達ができないのを、自分が悪いって思ったこともないんです。ほかに理由があるんだから仕方ないじゃないって思っていました。謙虚じゃないでしょう?」
「いや、謙虚さなんて犬に食わせてやりゃいいけど。そ、それで?」
「私は、私が守りたい人たちのために、襲いかかってくる敵を倒します。知識も経験も、まだ全然ないけど、軍師として成長して、勝つべきすべての戦いに勝ちます。今度のことで、思い上がるつもりはないですけど、私には……できるかもしれないって思うから」
切風が立ち上がった。
茉莉が微笑む。
「不思議ですね。怪異のために私には居場所がないって思っていたのに、今は、妖怪さんの隣が私の居場所なんですから」
「まったくだ。しかし、守るべく勝つべき戦い、か。じゃあ、おれたちがよその領地に侵攻しようとしたら、協力してはくれないんだ?」
二人の笑みが、揃って濃くなる。
「私利私欲のためなら。でも、切風さんを信じてます」
「こっわ」
そう言って、切風は盆をひょいと取り上げると、片腕で茉莉を抱き寄せた。
「わっ!? き、切風さん!?」
「犬神の感情表現だよ。感謝の。流されないでね。受け止めて」
「よ、妖怪の人って、こんな欧米みたいな表現方法を!? 初耳なんですけど!?」
切風が茉莉の首筋に鼻を寄せた。
「茉莉」
「は、はい」
「いい香りがする」
「はっ!? は、放してくださいっ!」
しかし、犬神はさらに深く茉莉を抱く。
「なにかつけてるよね、香水的なもの。柑橘類?」
「つ、つけてますよシトラスのやつつけてますけど! えっなに凄くがっちり腰つかまれてる! く、首から離れてっ!」
茉莉は両手で、腰に回された切風の腕をはがそうとしたが、びくともしない。
その様子を、屋根にかけた梯子の下で、雷蘭と千哉が聞いていた。
「あらー。センヤは、いいわけ? あれは。これからも見せつけられたらつらいんじゃない?」
「なにがだよ? 僕と茉莉は、そんなんじゃないし、これからも一緒にやっていくなんて言ったつもりもない。あんたこそ、いいのか?」
「あたしこそ、切風様とはそんなんじゃないわよ。あの方が幸せなら、もう二度と会えなくたって全然平気」
「へえ。それは殊勝な……」
そう言いかけた千哉は、雷蘭を見てぎょっとした。いきなり、ぼろぼろに泣いている。
「いや……」
「な、なにが?」
「切風様と二度と会えなくなるなんて、いやあああっ!」
「自分で言い出しておいて自分で泣くなよっ!」
その声が屋根の上に響き、茉莉の赤面が極致に達した。
「凄く聞かれてるじゃないですか……!」
「雷蘭は、あれで相当喜んでるよ。茉莉と一緒にいられるからね」
「……それは、私も嬉しいですけど」
「西と北に放った物見によれば、今日明日にことが大きく動くことはなさそうだ。君にも、兵にも休みがいるだろうから、今日は家でゆっくりしておいで。それで、明日になったら」
明日になったら? と、茉莉が、すぐ目の上にある切風の瞳に視線で問いかける?
「お茶とお菓子を用意してるから、犬神茶房に来てくれよ。おれの素敵な軍師様」
終
じゅうじゅうと音を立てて、金網の上の肉が焼けていく。
絶え間なく湧き上がる煙は、瞬く間に無煙ロースターの穴に吸い込まれていく。
切風は、真剣な眼差しで、特性カルビを見つめていた。
「……あのう」
「どうした、茉莉? カルビ嫌い? ロースにする? ラムやマトンがいいかな、好みが分かれるかなって思ったんだけど」
「いえあの、そうではなくて。……どうして焼肉なんですか?」
その問いに答えたのは、茉莉の向かいに座る切風ではなく、横に並んだ雷蘭だった。
「どうして? どうしてって、勝利のお祝いだからよ」
「分かるような、全然腑に落ちないような。というか雷蘭さん、怪我はもういいんですか?」
「必要な手当てはしたし、お肉食べれば治るでしょう」
雷蘭は、器用にトングでカルビをひっくり返しながら答える。目はじっと肉を見つめ続ていたが。
「そういうの、よくないと思いますけど……」
「そうか、マツリはよそから来たんだものね……。信州は飯田というところはね、なにがあっても焼肉、なにもなくても焼肉なのよ。これが、裏世界にお肉や道具を持ち込んでも、なぜか表世界でやるほどおいしくならないのよね」
本当ですか? と茉莉が切風に視線で問う。切風は、「前半も後半も本当だなー」と言いながら、きゅうりのキムチをぽりぽりとかじった。
「さ、これとこれはもういけそうね。マツリ、焼肉のたれもいいけど、このお店オリジナルのねぎだれも試してみてね。もともとはおでん用に生まれたという話も聞いたことがあるけれど、飯田のねぎだれはすべての料理のおいしさを引き出す魔法の調味料なの」
はあ、と言いつつ、茉莉は取り皿にカルビを取り、(そこまで言われては)ねぎだれにつけて口に入れた。
「え、うわ……おいしいです。凄く」
「飯田には焼肉店が多いから、切磋琢磨し合うのよね……ここみたいに、お肉屋さんが直接経営している焼肉店もあるし」
茉莉と、切風と、雷蘭。
あの大戦の翌日、三人だけの、平日昼間、ささやかな祝勝会だった。飯田市の夏は暑く、辛めに味つけした肉やビールのおすすめ文句が所狭しと張り出されている店内は、それなりに混んでいたが、さすがに飲酒している客は多くない。
あれほどの大勝を収めたのだから、宴などが催されるのだろうかと思っていた茉莉だったが、酒の席に誘われたりしなくてよかった、と少々安堵した。軍師という立場上、一方的に断るというのがなかなかに心苦しい(切風は気にするなと言ってくれたが)。
一応犬神茶房で祝勝会は予定しているらしいが、切風の軍には酒を飲む習慣のある妖怪は少ないという。ただ、大酒飲みの妖怪も珍しくないそうで、祝い事があるや七日七晩飲み続ける一族などが信州にもいるという。
「茉莉、君がいなかったら、少なくともこんなに犠牲を少なくして勝てなかったろーね。ありがとう」
「い、いえそんな。たまたま上手くいったところもありますし、私の思いつきが机上の空論にならないように、みなさんにかなり助けてもらいましたから。……あの、私はともかく、お二人は裏世界にいなくて大丈夫なんですか? いわゆる、戦後処理というか」
切風が、ふっと爽やかに笑った。
「そんなの、おれが得意なわけないじゃん。魏良に任せときゃいいようにやってくれるよ。ま、今回は攻めてきたやつらを返り討ちにしただけだから、分捕り品の類もないし、適当に済むでしょ」
「適当って。いいんですか、それで……?」
雷蘭が、次の肉を金網に並べながら言う。
「妖怪ってそんなものよ。今回の手柄で、のし上がりたい者はそうするでしょう。独自の兵力を持ったり、別勢力として独立するやつも出てくるかもしれない。そうだとして、それを止める権利も、そんなつもりもあたしたちにはない。とはいえ、しばらくは、南信州は一枚岩でいけそうね」
勝利の後、魏良が、正式に表明した。魏良党の解散と、新生切風党の本格的な立ち上げを。魏良の仲間をはじめ、『赫の王』たち外乱の脅威を前に、改めて切風のもとに集うべしと、南信州の妖怪は結束を決意していた。
「なんせ、おれっていう『牙の王』と、絶対不利を覆した軍師様がいるからね。大樹の陰に寄りたいんでしょ。……たぶん、おれたちが負け始めたら簡単にいなくなる味方だけどな」
切風が、面白くもなさそうに言う。茉莉も、その通りだろうなとうなずいた。
「あ、それと、犬神茶房で切風さんたちが祝勝会をやる時なんですけど……千哉くんって呼んでもいい……ですか?」
言葉の途中で、切風の目が明らかにすっと細められたせいで、茉莉が言いよどみかけた。
「ああー。いいんじゃねー? だめとは言わないよなー、誰も」
「切風様っ」
聞いたところ、千哉は今回の経緯を一通り師である祖父に報告し終えないうちは話してもらえないとのことで、恐らくは今朝からずっとそれに従事しているのだろう。
切風も千哉には感謝している様子はあるのだが、表立ってはそれを表現してくれない。仲良くなってくれるといいな、と茉莉は無邪気に思った。
「だってさー、あいつ完全に、茉莉の味方だから今回参加しただけでしょ? 祓い師と妖怪が共闘するって、あんまいいことないからなー。ま、これからも戦力になってくれるってんならありがたいけどさー」
「これから……」
茉莉が、焼けたロースに伸ばしかけた箸を止める。雷蘭が、「取っちゃいなさい」と言ってきた。
「あの、『赫の王』が言ってましたけど……今起きている事態に対処するには、七王をすべて束ねるくらいの力がいる、みたいなことを……。それって、前に切風さんが言ってた、日本最強の妖怪のことですよね」
「ああ。百年くらい前に並び立ってた、七匹の妖怪だよ。おれの『牙の王』と『赫の王』のほかに、『蒼穹王』『異郷の王』『碧玉の王』『霧の王』『乱神王』……だったかな。時には戦って、時には――本当にまれにだけど、時には手を組んだりもした。決着がついたことはなかったけどね。本拠地も互いに遠かったし。今どうしているのか、生き残ってるのかどうかも知らないけど」
「切風さんと同格の妖怪が、七人集まる必要があるくらいの危機……?」
「……ちょっと思ったのは、ね。恒河沙のやつ……あんな強引な進軍なんて、いくら信州を狙ってたとしても、道理に合わないなあ、と。まるで、なにかに怯えてるようにも見えたよ。そうでなけりゃ、仮にも七王の一角の本人が、『七王を統べる力』なんて口にしないんじゃねえかな。おれたちの力が、ほとんど互角だったのは、おれたち自身がよく知ってんだから」
物思いに半ばふけるようにしながらも、切風の箸は止まらなかった。二皿目の牛タンが、次々に切風の皿に収まり、雷蘭が「マツリの分!」とたしなめる。
当の茉莉は、いいんです大丈夫、と言いつつ、雷蘭が焼いてくれたカルビをサンチュにくるみながら、ぽつりと漏らした。
「でも、それなら……おびえていたって、なにに……」
「さあね。気のせいかもしんねーし。とりあえずは、南は守ったんだから今度は西と北だ。体制が整ったら向かうぜ」
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その翌日、茉莉が裏界線を通って、雷蘭の付き添いを得て犬神屋敷に向かうと、すでに祝勝会は始まっていた。
本当にほとんど酒類はないようで、代わりに、切風特製の茶が振舞われている。さすがに兵のすべては建物内に入りきらず、周りの平地に思い思いに腰を下ろした様々な妖怪が、その雑多さに見合わない精緻な造りの茶器を手にしてはしゃいでいた。
「切風さんっ」
「お、茉莉、来たか」
切風は犬神茶房の厨房で、大量の湯を沸かしている。さらに茶を入れ続けるらしい。
その横には、一足早く来ていた千哉がいて、切風を手伝っていた。茉莉がそれに触れると、
「正直言って、妖怪がどんなふうにお茶を入れるかなんて、凄く興味がある」
と照れたように言った。千哉はこの日は和装ではなくグレーのシャツの中に黒いTシャツ、グリーンのジーンズと、普段着で来ていた。
喫茶室には、魏良、伊織、紺模様、ワタヌキが奥にいて、茉莉に手を振ってきた。
また、第二軍にあって茉莉たちとともに恒河沙のもとへ切り込んだ犬妖たちも、茉莉が来たと知ると群がって賞賛の声を浴びせてきた。
「軍師殿、お見事でした!」
「初陣とは思えぬ名采配! 感服いたしました!」
「軍師殿なしには、この勝利はなかったでしょう! 切風様を頂きながら不甲斐ない我らをお導きくださり、なんと御礼を申してよいか!」
ひええ、と恐縮しながらちらりと見ると、隅のほうから成家が羨ましそうにこちらを見ている。聞いたところでは、彼も掃討戦ではそれなりに活躍したらしいが。
茉莉は、こちらこそと礼を述べて厨房に戻った。
幸い、そこには切風と千哉、雷蘭もいたので、気になっていたことを切り出す。
「その……これから、のことなんですけど」
「おう、なに、茉莉?」
「表と裏の世界の時間の流れ方が違うおかげで、裏世界に長い時間いても、表での影響が小さいっていうことには、感謝しているんですけども」
「うんうん」
「凄く……言いにくいことなんですが」
ただならぬ気配に、切風が、火元から茉莉に深く注意を向ける。
千哉と雷蘭も顔を見合わせた。
「どうした? いいよ茉莉、なんでも言って」
「私、もうすぐ……学校が始まるんですよね」
茉莉以外の三人は、なにを言っていいのか分からず、続きを待った。
「も、もちろん、裏世界にとっては学校どころじゃないことが起きてるんだろうなって、分かっているんです。でも私、ずっと友達がいなくて。大人になったら、あまり人としゃべらなくていいような仕事に絶対につこうって思っていたくらい、人づき合いが苦手で。でも切風さんたちと出会って、少しだけ自信というか、私もがんばればやれるかもって思い始めたというか、雷蘭さんとだって仲良くなれましたし、こんな私でも将来のことを少しは考えてまして、そのためには学校は……行っておきたくて。そうすると……みなさんと一緒に戦うのに、制約ができてしまうと思うんです……どうしたらいいんだろうって、私……」
うつむいてまくしたてていた茉莉が、恐る恐る三人を見る。三人ともあっけにとられていた。
「……ああ。うん」と切風が、火加減に再び気を配りつつ答えた。「その辺の感覚、おれたちと茉莉たちで違うのかもだけど。それで全然構わないよ、学校行きながらで。ずっとべったり一緒にいてほしいとは思わない」
「そ、そう……なんですか? 薄情というか、無責任なんじゃないかって……」
「茉莉がいない間の戦いは、おれたちの責任だよ。そうだな、学校って昼間でしょ? 夜だけ来てくれれば充分ありがたいよ。必要な時以外は毎日じゃなくていいし、妖怪の性質からして、たぶん大事な戦になるのはほとんど夜だしね」
雷蘭が、茉莉の横に来て言った。
「睡眠や疲労については、仙薬で負担を軽減できると思う。あたしたちのほうこそ、マツリには無理をさせてるって分かってるから……」
確かに、昨日雷蘭にもらった謎の黒い粉末を飲むと、睡眠不足も疲れもだいぶましになった。
こんな便利なものがあるんだ、と驚き、ハイになって千哉に教えてやったりもした。
「あ、でも今は私、まだ夏休みですから、しばらくはいろいろ無理もきくんです。今のうちに、できることをできれば」
そこで千哉が口を挟んだ。
「しばらくって、もう八月上旬だぞ。そんなに余裕ないだろ」
「え、どうして? まだあと一ヶ月近く夏休みでしょ?」
へ? と片眉を上げた千哉が、ああと手を打つ。
「茉莉、君、ちゃんと二学期の案内読んでないだろ。長野県の学校って、全部かどうかは知らないけど、夏休みが八月三十一日までじゃないぞ。僕もこっちに来てから知ったんだけど」
「え!? そんなことあるの!?」
「思い込んでたな。盆明け、すぐに二学期だ。まだ登校の準備してないなら、早くやっておけよ」
「き……聞いておいてよかった……! ありがとう、千哉くん……!」
両手を合わせる茉莉に、千哉がよせよと言って厨房を出ていく。
切風が、ふーんほーと言いながらその様子を見て、雷蘭はいたずらっぽい笑顔でそれを眺めていた。
・
屋根の上は、裏世界にしてはいくらか心地いい風が吹いていた――ように茉莉には思えたが、切風によると「気のせい」らしい。裏世界の風は、表のそれとはずいぶん理を異にするらしかった。
「あの祓い師の小僧、帰ったんだな」
「はい。おじいさんと用事があるそうで。小僧って」
切風は、盆の上に二人分の茶と菓子を載せている。
宴はまだ続いていた。しかし犬神屋敷の屋根の中央あたりに座ると、周囲の地上からはほとんど屋根の上の者の姿が見えなくなる。
喧騒はあるのに、切風以外の誰も景色の中にいない。独特の感覚だった。
「ん。食う?」と切風が盆を差し出した。
「なんだか私、全然遠慮しない人みたいですけど……いただきます」
菓子は、練り切りだった。白あんに、黄色のかぼちゃあんと明るい紫色の紫芋あんを合わせた鮮やかな色合いで、菖蒲をかたどっている。横に緑色の薄いようかんが添えられていた。
「茶は狭山茶だよ。色は静岡、香りは宇治、味は狭山でとどめさす……だったかな。仕上げの時にえらく高い温度で乾燥させるそうで、香りもいいよね」
「静岡や京都の人が聞いたら、怒られませんか」
「そうしたらそこの茶を飲みに行こう。練り切りにようかん添えたのはね、おれ、小豆あんに比べて、白あんてどうも触感がザラッとしてて気になってたんだけど。ぴんときたんだ、薄いようかんと一緒に口に入れれば、滑らかさが足されて解決するんじゃないかって」
目をきらきらさせている切風に促されて、茉莉は黒文字を手に取った。
練り切りを三分の一ほど切り取り、ようかんも少し切って、一緒に横から刺して口に運ぶ。
果たして、切風の狙い通りの味わいになっていた。
「わあ、おいしい……さらっとして、白あんの味が、かぼちゃや紫芋の味が分かるほどよい淡さで」
「だろー? 茉莉は、そう言ってくれると思ったんだー」
無邪気に笑う切風を見て、茉莉は切り出した。
「雷蘭さんもそうでしたけど、切風さんも、傷のほうはどうですか……?」
総大将が重傷を負ったという噂でも広がれば士気に関わるので、この件については人前で触れないように茉莉は切風から釘を刺されていた。
そのため、戦いを終えてから今まで、茉莉は切風の脇腹に視線さえ送らないように意識していた。
「だいぶいいよ。裏世界は、表より霊気が濃いからさ、自分から遮断でもしてなければ傷の治りは人間とかよりずーっと早い」
「そういう感覚、私も早く慣れなくちゃいけないですよね。作戦を立てるのに、大事なことですもんね」
「……作戦ね」
「……なにか?」
「本当に、これからもおれたちと戦うの?」
「え?」
「作戦を立てて成功させて、最前線まで危険を冒して戦ってくれた。もう、恩なんて返し終わったんじゃないのか? そうすれば、おれたちはただの人間と妖怪だよ。交わらないことが当たり前で、交われば大抵人間が不幸になる。君は裏世界のことなんて忘れて、表で安全に平和に生きていけばいい。裏界線の通り方を忘れるだけで、おれたちとは縁が切れる」
「……そ、」
「学校だって行き放題だ。誰にも気兼ねなく」
「それは……そうです、けど」
切風の目は真剣だった。
茉莉が喉を鳴らした。つい今まで口の中に残っていた練り切りの後味も、狭山茶の香りも、消え失せた。
「ここから先は、一緒に戦うならそれなりの覚悟がいる。ああ、さっき言ったとおり、ずっと寝食を共にしてべったりくっついて戦い抜くような覚悟じゃないよ。敵を、ためらいなく殲滅する覚悟だ。軍師は、そうじゃなきゃ務まらない。迷いがあれば、仲間や自分を決定的な死地に追い込むだろうね」
その道理は分かる。
茉莉は、日本の戦争史について人より多少詳しい程度だったが、中世以降現代にいたるまで、戦というのはそういうものだろうと理解できる。
「茉莉、君は、おれたちみたいな妖怪と、一部でも分かり合えちまう人間だ。妖怪の傷に心を病んで、怪異の死を悼んでしまう。戦の経験がない君が見せた、戦略の冴えはありがたいよ。ほかのやつらにはない力だ。でも、力ってのは、使わない自由もある」
決して、お前が役立たずだというわけではない。
切風がそう言ってくれているのは、茉莉にも分かった。
「で、も……」
「うん?」
「私が、いないと、……切風さんの武器が」
「どうにかして取り返すさ。刀になるおれの牙は四本あった。もう三本手に入れれば、一本くらいなくても平気だよ」
屋根の下の喧騒は続いている。
自分と切風のいる場所がそこから遠く隔たっている感覚は、強度を増した。
目の前の切風さえ遠く感じる。
「茉莉、目の前の感謝に流されることはないよ。たぶん、君は戦いに向かない。おれたちが勝てば、人間に手を出す妖怪なんて駆逐してやる。だから、心の中で応援でもしててよ」
「……そんな風に」
茉莉は、ん? と聞き返す切風の双眸を見つめた。吊り上がった目。けれど眼差しは優しい。
「そんな風に、私の祖父母とも別れたんですか」
しばらく、切風は黙った。
そして、遠くのほうを見つめながら答える。
「そう。確か、この飯田で、お練り祭りっていう祭りがあった年だったな。東野大獅子っていう獅子舞が出て、あいつらをとらえてた怪異の障りを全部消し飛ばした。それを好機に、別れたんだ。おれが傍にいれば、また怪異があいつらを絡めとるから、その前に」
「それっきり、二人とも会わずに?」
「ああ。別れ際に、支度が整ったらまた会いに行くって噓をついた。おれは生まれてから今まで、戦の駆け引き以外で嘘をついたことは、その一度しかない」
茉莉が立ち上がった。屋根の上には傾斜がなく、床板と変わらない。危なげなく歩き、食器をことことと盆に戻した。
「茉莉?」
「決めました」
「……そっか。この戦のことは、本当にありがとうな。おれたちは、君のこと絶対に忘れな――」
「戦います」
盆を手にして立つ茉莉を、座ったままの切風が見上げて、目をしばたたかせる。
「へ?」
「軍師として、新生切風党として戦います。感謝に応えるためじゃありません。私の意志で、私が望んでです」
「え。いや。……なんで?」
「私、独善的だし、心は狭いし、全然いい人じゃないんですよ。友達ができないのを、自分が悪いって思ったこともないんです。ほかに理由があるんだから仕方ないじゃないって思っていました。謙虚じゃないでしょう?」
「いや、謙虚さなんて犬に食わせてやりゃいいけど。そ、それで?」
「私は、私が守りたい人たちのために、襲いかかってくる敵を倒します。知識も経験も、まだ全然ないけど、軍師として成長して、勝つべきすべての戦いに勝ちます。今度のことで、思い上がるつもりはないですけど、私には……できるかもしれないって思うから」
切風が立ち上がった。
茉莉が微笑む。
「不思議ですね。怪異のために私には居場所がないって思っていたのに、今は、妖怪さんの隣が私の居場所なんですから」
「まったくだ。しかし、守るべく勝つべき戦い、か。じゃあ、おれたちがよその領地に侵攻しようとしたら、協力してはくれないんだ?」
二人の笑みが、揃って濃くなる。
「私利私欲のためなら。でも、切風さんを信じてます」
「こっわ」
そう言って、切風は盆をひょいと取り上げると、片腕で茉莉を抱き寄せた。
「わっ!? き、切風さん!?」
「犬神の感情表現だよ。感謝の。流されないでね。受け止めて」
「よ、妖怪の人って、こんな欧米みたいな表現方法を!? 初耳なんですけど!?」
切風が茉莉の首筋に鼻を寄せた。
「茉莉」
「は、はい」
「いい香りがする」
「はっ!? は、放してくださいっ!」
しかし、犬神はさらに深く茉莉を抱く。
「なにかつけてるよね、香水的なもの。柑橘類?」
「つ、つけてますよシトラスのやつつけてますけど! えっなに凄くがっちり腰つかまれてる! く、首から離れてっ!」
茉莉は両手で、腰に回された切風の腕をはがそうとしたが、びくともしない。
その様子を、屋根にかけた梯子の下で、雷蘭と千哉が聞いていた。
「あらー。センヤは、いいわけ? あれは。これからも見せつけられたらつらいんじゃない?」
「なにがだよ? 僕と茉莉は、そんなんじゃないし、これからも一緒にやっていくなんて言ったつもりもない。あんたこそ、いいのか?」
「あたしこそ、切風様とはそんなんじゃないわよ。あの方が幸せなら、もう二度と会えなくたって全然平気」
「へえ。それは殊勝な……」
そう言いかけた千哉は、雷蘭を見てぎょっとした。いきなり、ぼろぼろに泣いている。
「いや……」
「な、なにが?」
「切風様と二度と会えなくなるなんて、いやあああっ!」
「自分で言い出しておいて自分で泣くなよっ!」
その声が屋根の上に響き、茉莉の赤面が極致に達した。
「凄く聞かれてるじゃないですか……!」
「雷蘭は、あれで相当喜んでるよ。茉莉と一緒にいられるからね」
「……それは、私も嬉しいですけど」
「西と北に放った物見によれば、今日明日にことが大きく動くことはなさそうだ。君にも、兵にも休みがいるだろうから、今日は家でゆっくりしておいで。それで、明日になったら」
明日になったら? と、茉莉が、すぐ目の上にある切風の瞳に視線で問いかける?
「お茶とお菓子を用意してるから、犬神茶房に来てくれよ。おれの素敵な軍師様」
終
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