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「赫の王」との闘い4
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■
千哉は、徐々に追い詰められていた。
熊の変化の頭の出来というのがどの程度のものかは図りかねていたが、予想していたよりもだいぶ早く、千哉の作り出した偽装兵は見破られた。
「少しばかり侮っていた、かな」
もう少し騙せると思っていたのだが、さすがに『赫の王』の一軍を任された妖怪だった。わずかな小競り合いから、こちらの兵に主力のはずの犬妖がいないことや、妙に生気のない様子から、千の兵が幻に過ぎないと看破されてしまった。
千哉としては、本来はもう少し山の中で、敵とつかず離れずの距離を保ちたかったのだが、戦闘能力に乏しい幽霊は熊の変化が近づくとおびえてまともに機動できなかったし、鉱物や植物の変化では案山子程度の役にしか立たない。
千哉は崩れかけた味方と、消えかけている幻の兵の間を縫いながら、十数匹の近衛兵を連れて山中を駆けていた。
熊どもが、直情的にこちらに襲い掛かってくれているのは、ありがたくはないが、最悪の状況ではない。最悪なのは――
「いいかい、あんたたち。僕らにとって最も重要なのは、戦場の南側に位置するあの後軍を、中軍に合流させないことだ」
傍らにいたむじなが、はっ、と返事をする。
千哉はうなずいて続けた。
「僕らが追われているうちはまだいい。こっちは、実質的な戦闘力はないも同然の部隊だからな。瓦解しても全軍の痛手にはならない。問題は、やつらが僕らを倒すほどの存在でもないと看破して、僕らを放って中軍の援護に向かうことだ。そうなれば、さすがに切風も分が悪い。切風の切り込みが失敗すれば、この戦は負けだ」
近衛兵たちはうなずいたが、さっきよりも反応が鈍いのが気になった。呼び捨てではなく、切風殿と敬称をつけるべきだったかもな、と千哉は胸中で苦笑した。
「そういうわけで、僕らはこれから儀兵に紛れて、敵の後軍大将を狙う。運よく倒せればよし、そうでなくても相応の足止めになるだろう。今、術で作った儀兵は、案山子程度のものとしか思わずに薙ぎ払われているからね。油断を狙える」
言い終わると同時に、千哉の足が止まった。
下草と木立にの向こう、斜面を降りた下に、明らかに雑魚とは違う妖気を湛えた大熊が二匹いる。あれが六士というやつか、と千哉は見当をつけた。果たして、その二匹は載と阿賀祢である。
しかし、二匹が同じ場所にいるというのはどういうことだ。少しでも上位にある者が後方に控え、もう一方が先行するのが普通ではないのか。
全く同じ階級にある者が同じ軍に配置されて、命令系統はまともに機能するのか? 普段からそういう軍容なのか? それとも――
「あまり深く考えてない、か?」
それなら、つけ入る隙があるのだが。
千哉には、後軍をまとめるよう任された載と、その命令に今一つ素直に従わない阿賀祢の関係など知る由もない。それでも、この状況は好機に思えた。
「よし、全員で一斉に行くぞ。あの、手前にいるほう(載のことだった)を狙う」
小声で千哉が言うと、先ほどのむじなが答えた。
「しかし、御身は只人でしょう。あれほどの変化に挑んで、勝ち目がありますのか」
言外に、無謀な突撃につき合わされるのはごめんだ、と言っている。
「あるさ。でも、疑うなら後から来てもいいぞ」
もう、無駄な問答に費やす時間も惜しかった。
今この瞬間にも、やつらが「こんなつまらぬ敵は放って中央の援護に向かおう」と言い出せば、押しとどめる手段は千哉の部隊にはない。
なにか言い返そうとむじなが口を開いた時には、千哉は斜面を駆け下りていた。霊力で強化した脚力に、足の裏は柔らかい地面もよく噛む術を施してある。
音もなく、千哉は載の背後に降り立った。周りの兵士があっと声を立てると同時に、千哉の抜き放った短刀が、載の背中に「井」の形の傷を一瞬でつける。その中心の四角に、千哉は、呪符を貼った手のひらを当てた。
「なっ!? なんだ、貴様――」
載は黒い体色をした熊の変化だった。その背に置かれた千哉の白い手に、火花が散る。
「四桁、一符――」
「ちいっ、小僧が」
載が腕を振り上げるのと同時に、千哉が術を放った。
「――雷槌!」
どん。
大気を震わせて、載の体に雷が落ちた。焦げ臭いにおいと煙、そして載の血肉があたりに広がる。
千哉は間髪入れず、燃え尽きた札の代わりに、今度は、錐のような道具を二つ懐から取り出して両手に持つ。その針には、どちらも二枚ずつの呪符が貫かれていた。
「二針、四符――」
「き、……さま……」
千哉はその錐を載にではなく、左右の地面へ投げて突き刺した。
二つの錐の間に、載が立つ形になる。
「――鋏疾陣!」
左右の錐から、同時に白い光の帯が走り、中央にいる載を直撃した。
載が巨体のため、攻撃はその両足に当たったが、もとよりこの大熊の機動力を削ぐための術だった。
載ががくりと崩れ落ちる。
ぐおおおお、と野太い咆哮が放たれた。
千哉が次弾の装填に入る。
その時ようやく、むじなたちが斜面を駆け下りてきた。載にとどめを刺さんと殺到してくる。
だが千哉は、それを見て叫んだ。
「こっちじゃない! 今来るなら、もう一方の大熊を足止めして――」
だが、間に合わなかった。
横から振られた阿賀祢の巨大な爪に、むじな二匹とキツネが一匹、薙ぎ払われて死んだ。それを見て、ほかの信州妖怪は身を震わせて、再び斜面を上がってしまった。
口と体を血にまみれさせている載が、立ち上がる。
「人間……の、祓い師か……? なぜそんなやつが、ここに……『牙の王』に加勢しているのか、人間が……?」
千哉としては、二匹のうち一匹は一気呵成に仕留めてしまいたかったが、これで難しくなった。
雷槌は、千哉の持つ攻撃術の中でも、接近戦で実用できる中では最大級の威力を持つ。不意打ちでこれを使って昏倒もさせられないなら、正面切っての戦いはいかにも分が悪い。
手負いとはいえ、強力な熊の変化。そして無傷のもう一匹は、仕留めた三匹の信州妖怪の地に濡れた爪をなめ上げ、凶暴な衝動に目を血走らせている。
それに、有象無象の兵も集まってきていた。
「うまそうな人間だなあ……載殿お、こんなところにいる人間は、食っちまってもいいよなあ……」
「待て、阿賀祢。こいつは捕らえるぞ。聞き出したいことが……おい!」
阿賀祢が足に力を込めた。
それを見た千哉が、呪符を取り出した。
「二符――」
二匹の大熊が身構える。
だが千哉は、呪符を一枚ずつ、自分の両腿に貼りつけた。
「――遠縮地」
千哉がバックステップした。それは、一迅の風のような勢いで、一足飛びに十数メートルもの距離を跳んだ。
逃げの一手である、と大熊たちが気づいたのは、一瞬後のことだった。
千哉は斜面を駆け上がり、身を隠す。
これで、熊たちの意識は自分に向くし、警戒しながら探索されることになる。一匹の足は傷ついているし、もう少し時間が稼げるだろう。
こいつらは強い。自分では、倒しきれないかもしれない。だが見たところ、つけ入る隙はある。上下の連携が取れていないのが、わずかなやり取りで察せられた。一枚岩の軍ではないのだ。君臣上下に信頼関係のない集団なら、勝てる。
そう確信して、千哉は、さっき逃げていった近衛兵の気配を探り、(やや腹立たしいのを我慢しながら)合流しに向かった。
■
茉莉には、両者の攻防がほとんど見えなかった。
文字通り目にも止まらぬ速さで、切風が何度も恒河沙に打ち込む。
恒河沙は、脇差ほどもある爪を振り回して、それを受けている。――のだろう、と茉莉は推測している。恒河沙の肩口や腕はともかく、手の先端の動きはまるで目で追えない。
裏世界の暗さの中、切風の黒い着物と黒い髪はもちろん、黒い刀も当然ほぼ見えない。
ただ、人間の胴くらいならたやすく両断されてしまいそうな威力の応酬が、二十メートルほど先で起きていることだけは感じる。
朔日は、少しずつ立つ位置を変えていた。少しでも茉莉を危険から遠ざけるために。
恒河沙は、茉莉を狙った攻撃はして来なかった。切風と切り結ぶだけで手一杯なのだろう。同時に、切風もまた、どれほど攻めても勝利の糸口を見出せずにいた。
よく見ると、恒河沙の体の表面に、傷がついているのが分かる。切風の切っ先が、何撃かは届いている。しかし、有効打には遠い。
茉莉は戦闘の素人だが、考えるまでもなく、悟っていた。このままでは切風が不利だ。
切風が恒河沙に致命傷を与えるためには、よほど深く強く切り込まなくてはならない。だが、恒河沙のほうは、振り回す爪の先を当てるだけで、切風に大怪我をさせることができるだろう。
無力な人間が出しゃばって、かえって形勢を不利にするわけにはいかない。だが、なにか自分にできることはないのか。
茉莉の目が、恒河沙と、周囲を取り囲む旗本や雑兵に巡らされる。
なにか。なにか、突破口を見つけなくては。わずかな可能性に賭けて決行した作戦が、失敗の危機に陥りかけている。前もっての計画が行き詰ったなら、ことここに至っての打開策を編み出さなくてはならない。
自分は、切風の軍師なのだから。
熊を相手に犬が戦うのだから、火力不足は最初から懸念されていたし、いくつかの手立ては考えていた。だが、その手を打つだけの隙がない。
事態は悪化しこそすれ、改善される余地は見当たらない。なにしろ、切風軍の象徴たる犬妖の射撃も、総大将二匹の戦いに介入する余地もなく、下手をすれば切風の邪魔になりかねないため、ただ敵兵を牽制するだけの役にしか立っていない。
その敵兵が焦れれば、状況はどう転ぶか分からない。残された時間は、もうないも同然だった。まだ大丈夫かもしれないという時点で、たいていのことはもう手遅れになっているものなのだから。
その時、不意に、茉莉と恒河沙の目が合った。
切風という、己と互角に切り結ぶ達人にこの信州攻めで初めて出会った手ごたえに、ろくに思考をしていなかった恒河沙だったが。
「……あの女、人間か。大した霊力もないな。……軍師か」
低い声は、切風にも、茉莉にも届いた。茉莉にの周りには、護衛としての犬妖がついている。それでも、朔日がわずかに後ずさる。
次に恒河沙は空を見上げた。そこには、大鴉――雷蘭が高みを旋回していた。
「ふん。戦況を一望しているわけか、小賢しい」
「お前、どこ見てんだよ!? ほーら、また行くぞ!」と切風が下段に構え直した。
「ここは貴様らにとって敵地の真ん中とはいえ、その軍師はなぜ、わしからもっと離れぬ。……離れられないのか?」
恒河沙の足の爪が、茉莉のほうを向いた。朔日がさらに退こうとして、「だめ、これ以上離れないで」と茉莉がとどめる。
「やはりなあ。あの人間が、貴様の命綱か!」
それまで、ほとんど立つ位置を変えずに応戦していた恒河沙が、どっと茉莉へ向けて駆け出した。
「野郎ッ!」
切風も跳ねる。
速さならば、自分に分がある。先にこの大熊の前に回り込める。
それは、切風が初めて見せた余裕であり、油断だった。
恒河沙は、右腕の鋭い爪を、茉莉ではなく、背後の切風に向けて打ち放った。
こちらを見もせずに向けられた攻撃は、切風への充分な不意打ちになった。
ざくん。
「ぐあっ!?」
「切風さんっ!?」
鮮血が舞う。
『赫の王』軍の兵士が凄まじい歓声を上げた。
切風は横に跳んで、なんとか体勢を立て直し、茉莉の前に立った。
茉莉は、朔日の肩越しに、切風の左わき腹が大きくえぐれているのを見た。
「あー。いって。こんな傷負わされたの、いつぶりかね……」
血が、滝のように流れ出ている。人間ならば確実に死ぬ。妖怪の生命力というのがどのくらいのものなのかは、茉莉には測りかねたが、どう見ても絶望的な受傷だった。
「切、風、さん……。てっ」
撤退、と言おうとした茉莉に、切風が振り返ってかぶりを振る。
切風は笑っていた。しかし、口から吐いた血が、喉まで流れ落ちている。凄絶な笑みだった。
ここで引けば勝ち目はない。そう覚悟していたはずだ。
茉莉は、泣いて崩れ落ちそうになった。朔日の首と手綱に当てていた手から力が抜ける。
どうしても撤退しないのなら。
ここで、勝ち切るというのなら。
私が、できることは。
「……茉莉、妙なこと考えるなよな」
「……えっ」
「おれが心置きなく戦えるように、自分が死んで、牙の間合いの制限をなくそう。とか思ってたでしょ」
なぜ。
実行に移そうとまで決断したわけではない。だが、取りうる選択肢の中から、かなり有力な一案として頭を占めかけていたのは本当だった。
「えっ。おれ半分冗談で言ったのに、その顔……本気だったの」
「だ……って……」
千哉は、徐々に追い詰められていた。
熊の変化の頭の出来というのがどの程度のものかは図りかねていたが、予想していたよりもだいぶ早く、千哉の作り出した偽装兵は見破られた。
「少しばかり侮っていた、かな」
もう少し騙せると思っていたのだが、さすがに『赫の王』の一軍を任された妖怪だった。わずかな小競り合いから、こちらの兵に主力のはずの犬妖がいないことや、妙に生気のない様子から、千の兵が幻に過ぎないと看破されてしまった。
千哉としては、本来はもう少し山の中で、敵とつかず離れずの距離を保ちたかったのだが、戦闘能力に乏しい幽霊は熊の変化が近づくとおびえてまともに機動できなかったし、鉱物や植物の変化では案山子程度の役にしか立たない。
千哉は崩れかけた味方と、消えかけている幻の兵の間を縫いながら、十数匹の近衛兵を連れて山中を駆けていた。
熊どもが、直情的にこちらに襲い掛かってくれているのは、ありがたくはないが、最悪の状況ではない。最悪なのは――
「いいかい、あんたたち。僕らにとって最も重要なのは、戦場の南側に位置するあの後軍を、中軍に合流させないことだ」
傍らにいたむじなが、はっ、と返事をする。
千哉はうなずいて続けた。
「僕らが追われているうちはまだいい。こっちは、実質的な戦闘力はないも同然の部隊だからな。瓦解しても全軍の痛手にはならない。問題は、やつらが僕らを倒すほどの存在でもないと看破して、僕らを放って中軍の援護に向かうことだ。そうなれば、さすがに切風も分が悪い。切風の切り込みが失敗すれば、この戦は負けだ」
近衛兵たちはうなずいたが、さっきよりも反応が鈍いのが気になった。呼び捨てではなく、切風殿と敬称をつけるべきだったかもな、と千哉は胸中で苦笑した。
「そういうわけで、僕らはこれから儀兵に紛れて、敵の後軍大将を狙う。運よく倒せればよし、そうでなくても相応の足止めになるだろう。今、術で作った儀兵は、案山子程度のものとしか思わずに薙ぎ払われているからね。油断を狙える」
言い終わると同時に、千哉の足が止まった。
下草と木立にの向こう、斜面を降りた下に、明らかに雑魚とは違う妖気を湛えた大熊が二匹いる。あれが六士というやつか、と千哉は見当をつけた。果たして、その二匹は載と阿賀祢である。
しかし、二匹が同じ場所にいるというのはどういうことだ。少しでも上位にある者が後方に控え、もう一方が先行するのが普通ではないのか。
全く同じ階級にある者が同じ軍に配置されて、命令系統はまともに機能するのか? 普段からそういう軍容なのか? それとも――
「あまり深く考えてない、か?」
それなら、つけ入る隙があるのだが。
千哉には、後軍をまとめるよう任された載と、その命令に今一つ素直に従わない阿賀祢の関係など知る由もない。それでも、この状況は好機に思えた。
「よし、全員で一斉に行くぞ。あの、手前にいるほう(載のことだった)を狙う」
小声で千哉が言うと、先ほどのむじなが答えた。
「しかし、御身は只人でしょう。あれほどの変化に挑んで、勝ち目がありますのか」
言外に、無謀な突撃につき合わされるのはごめんだ、と言っている。
「あるさ。でも、疑うなら後から来てもいいぞ」
もう、無駄な問答に費やす時間も惜しかった。
今この瞬間にも、やつらが「こんなつまらぬ敵は放って中央の援護に向かおう」と言い出せば、押しとどめる手段は千哉の部隊にはない。
なにか言い返そうとむじなが口を開いた時には、千哉は斜面を駆け下りていた。霊力で強化した脚力に、足の裏は柔らかい地面もよく噛む術を施してある。
音もなく、千哉は載の背後に降り立った。周りの兵士があっと声を立てると同時に、千哉の抜き放った短刀が、載の背中に「井」の形の傷を一瞬でつける。その中心の四角に、千哉は、呪符を貼った手のひらを当てた。
「なっ!? なんだ、貴様――」
載は黒い体色をした熊の変化だった。その背に置かれた千哉の白い手に、火花が散る。
「四桁、一符――」
「ちいっ、小僧が」
載が腕を振り上げるのと同時に、千哉が術を放った。
「――雷槌!」
どん。
大気を震わせて、載の体に雷が落ちた。焦げ臭いにおいと煙、そして載の血肉があたりに広がる。
千哉は間髪入れず、燃え尽きた札の代わりに、今度は、錐のような道具を二つ懐から取り出して両手に持つ。その針には、どちらも二枚ずつの呪符が貫かれていた。
「二針、四符――」
「き、……さま……」
千哉はその錐を載にではなく、左右の地面へ投げて突き刺した。
二つの錐の間に、載が立つ形になる。
「――鋏疾陣!」
左右の錐から、同時に白い光の帯が走り、中央にいる載を直撃した。
載が巨体のため、攻撃はその両足に当たったが、もとよりこの大熊の機動力を削ぐための術だった。
載ががくりと崩れ落ちる。
ぐおおおお、と野太い咆哮が放たれた。
千哉が次弾の装填に入る。
その時ようやく、むじなたちが斜面を駆け下りてきた。載にとどめを刺さんと殺到してくる。
だが千哉は、それを見て叫んだ。
「こっちじゃない! 今来るなら、もう一方の大熊を足止めして――」
だが、間に合わなかった。
横から振られた阿賀祢の巨大な爪に、むじな二匹とキツネが一匹、薙ぎ払われて死んだ。それを見て、ほかの信州妖怪は身を震わせて、再び斜面を上がってしまった。
口と体を血にまみれさせている載が、立ち上がる。
「人間……の、祓い師か……? なぜそんなやつが、ここに……『牙の王』に加勢しているのか、人間が……?」
千哉としては、二匹のうち一匹は一気呵成に仕留めてしまいたかったが、これで難しくなった。
雷槌は、千哉の持つ攻撃術の中でも、接近戦で実用できる中では最大級の威力を持つ。不意打ちでこれを使って昏倒もさせられないなら、正面切っての戦いはいかにも分が悪い。
手負いとはいえ、強力な熊の変化。そして無傷のもう一匹は、仕留めた三匹の信州妖怪の地に濡れた爪をなめ上げ、凶暴な衝動に目を血走らせている。
それに、有象無象の兵も集まってきていた。
「うまそうな人間だなあ……載殿お、こんなところにいる人間は、食っちまってもいいよなあ……」
「待て、阿賀祢。こいつは捕らえるぞ。聞き出したいことが……おい!」
阿賀祢が足に力を込めた。
それを見た千哉が、呪符を取り出した。
「二符――」
二匹の大熊が身構える。
だが千哉は、呪符を一枚ずつ、自分の両腿に貼りつけた。
「――遠縮地」
千哉がバックステップした。それは、一迅の風のような勢いで、一足飛びに十数メートルもの距離を跳んだ。
逃げの一手である、と大熊たちが気づいたのは、一瞬後のことだった。
千哉は斜面を駆け上がり、身を隠す。
これで、熊たちの意識は自分に向くし、警戒しながら探索されることになる。一匹の足は傷ついているし、もう少し時間が稼げるだろう。
こいつらは強い。自分では、倒しきれないかもしれない。だが見たところ、つけ入る隙はある。上下の連携が取れていないのが、わずかなやり取りで察せられた。一枚岩の軍ではないのだ。君臣上下に信頼関係のない集団なら、勝てる。
そう確信して、千哉は、さっき逃げていった近衛兵の気配を探り、(やや腹立たしいのを我慢しながら)合流しに向かった。
■
茉莉には、両者の攻防がほとんど見えなかった。
文字通り目にも止まらぬ速さで、切風が何度も恒河沙に打ち込む。
恒河沙は、脇差ほどもある爪を振り回して、それを受けている。――のだろう、と茉莉は推測している。恒河沙の肩口や腕はともかく、手の先端の動きはまるで目で追えない。
裏世界の暗さの中、切風の黒い着物と黒い髪はもちろん、黒い刀も当然ほぼ見えない。
ただ、人間の胴くらいならたやすく両断されてしまいそうな威力の応酬が、二十メートルほど先で起きていることだけは感じる。
朔日は、少しずつ立つ位置を変えていた。少しでも茉莉を危険から遠ざけるために。
恒河沙は、茉莉を狙った攻撃はして来なかった。切風と切り結ぶだけで手一杯なのだろう。同時に、切風もまた、どれほど攻めても勝利の糸口を見出せずにいた。
よく見ると、恒河沙の体の表面に、傷がついているのが分かる。切風の切っ先が、何撃かは届いている。しかし、有効打には遠い。
茉莉は戦闘の素人だが、考えるまでもなく、悟っていた。このままでは切風が不利だ。
切風が恒河沙に致命傷を与えるためには、よほど深く強く切り込まなくてはならない。だが、恒河沙のほうは、振り回す爪の先を当てるだけで、切風に大怪我をさせることができるだろう。
無力な人間が出しゃばって、かえって形勢を不利にするわけにはいかない。だが、なにか自分にできることはないのか。
茉莉の目が、恒河沙と、周囲を取り囲む旗本や雑兵に巡らされる。
なにか。なにか、突破口を見つけなくては。わずかな可能性に賭けて決行した作戦が、失敗の危機に陥りかけている。前もっての計画が行き詰ったなら、ことここに至っての打開策を編み出さなくてはならない。
自分は、切風の軍師なのだから。
熊を相手に犬が戦うのだから、火力不足は最初から懸念されていたし、いくつかの手立ては考えていた。だが、その手を打つだけの隙がない。
事態は悪化しこそすれ、改善される余地は見当たらない。なにしろ、切風軍の象徴たる犬妖の射撃も、総大将二匹の戦いに介入する余地もなく、下手をすれば切風の邪魔になりかねないため、ただ敵兵を牽制するだけの役にしか立っていない。
その敵兵が焦れれば、状況はどう転ぶか分からない。残された時間は、もうないも同然だった。まだ大丈夫かもしれないという時点で、たいていのことはもう手遅れになっているものなのだから。
その時、不意に、茉莉と恒河沙の目が合った。
切風という、己と互角に切り結ぶ達人にこの信州攻めで初めて出会った手ごたえに、ろくに思考をしていなかった恒河沙だったが。
「……あの女、人間か。大した霊力もないな。……軍師か」
低い声は、切風にも、茉莉にも届いた。茉莉にの周りには、護衛としての犬妖がついている。それでも、朔日がわずかに後ずさる。
次に恒河沙は空を見上げた。そこには、大鴉――雷蘭が高みを旋回していた。
「ふん。戦況を一望しているわけか、小賢しい」
「お前、どこ見てんだよ!? ほーら、また行くぞ!」と切風が下段に構え直した。
「ここは貴様らにとって敵地の真ん中とはいえ、その軍師はなぜ、わしからもっと離れぬ。……離れられないのか?」
恒河沙の足の爪が、茉莉のほうを向いた。朔日がさらに退こうとして、「だめ、これ以上離れないで」と茉莉がとどめる。
「やはりなあ。あの人間が、貴様の命綱か!」
それまで、ほとんど立つ位置を変えずに応戦していた恒河沙が、どっと茉莉へ向けて駆け出した。
「野郎ッ!」
切風も跳ねる。
速さならば、自分に分がある。先にこの大熊の前に回り込める。
それは、切風が初めて見せた余裕であり、油断だった。
恒河沙は、右腕の鋭い爪を、茉莉ではなく、背後の切風に向けて打ち放った。
こちらを見もせずに向けられた攻撃は、切風への充分な不意打ちになった。
ざくん。
「ぐあっ!?」
「切風さんっ!?」
鮮血が舞う。
『赫の王』軍の兵士が凄まじい歓声を上げた。
切風は横に跳んで、なんとか体勢を立て直し、茉莉の前に立った。
茉莉は、朔日の肩越しに、切風の左わき腹が大きくえぐれているのを見た。
「あー。いって。こんな傷負わされたの、いつぶりかね……」
血が、滝のように流れ出ている。人間ならば確実に死ぬ。妖怪の生命力というのがどのくらいのものなのかは、茉莉には測りかねたが、どう見ても絶望的な受傷だった。
「切、風、さん……。てっ」
撤退、と言おうとした茉莉に、切風が振り返ってかぶりを振る。
切風は笑っていた。しかし、口から吐いた血が、喉まで流れ落ちている。凄絶な笑みだった。
ここで引けば勝ち目はない。そう覚悟していたはずだ。
茉莉は、泣いて崩れ落ちそうになった。朔日の首と手綱に当てていた手から力が抜ける。
どうしても撤退しないのなら。
ここで、勝ち切るというのなら。
私が、できることは。
「……茉莉、妙なこと考えるなよな」
「……えっ」
「おれが心置きなく戦えるように、自分が死んで、牙の間合いの制限をなくそう。とか思ってたでしょ」
なぜ。
実行に移そうとまで決断したわけではない。だが、取りうる選択肢の中から、かなり有力な一案として頭を占めかけていたのは本当だった。
「えっ。おれ半分冗談で言ったのに、その顔……本気だったの」
「だ……って……」
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