2 / 22
裏界線と裏世界と切風2
しおりを挟む
そう言われた山次が、面白くなさそうに、忍装束の男――これは魏良というらしい――の傍らへ引き上げていった。
「故ってなに? ああ、猿は答えなくていいよ。魏良、お願い」
「……我ら信州妖怪、長らく、人にあだなすことは控えてきたが。そうも言っておれんようになった。妖怪が力を増すには、人を食らうのが手っ取り早い。人の血肉は妖力の格を上げるからな。あまり無秩序な真似は、せんようにはしたいが」
そうもいかん、と魏良が嘆息する。
「なにそれ。……魏良、お前がこの辺り仕切ってんだろ。お前ら、なにやってんの?」
「切風、お前こそ、みだりに人間側に立つような真似はもうよすのだ。その娘とも、特段懇意というわけではあるまい?」
魏良がそう言うと、その場にいる全員の目が、茉莉に向いた。
「あ、の……」
「ん? 言いたいことがあれば言っていいよ、茉莉、だっけ」
「皆さん……妖怪、なんですか?」
「そう。そして、あんたを食べようとしてる」
「えっ!?」
「いや、聞いてたっしょ、話」
「で、でも、そちらの魏良さんという方は、理性的というか、紳士的な感じがしたんですけど」
ちらりと茉莉が目をやると、魏良はばつが悪そうにしながらも答えてきた。
「いや。ここまで我らの身をさらした以上、あなたを人里に返すわけにはいかぬ。すまないが、ここで食らわせてもらう。わざわざこんなところまで踏み込んできたのだ、覚悟の上であろう」
「な……」
茉莉は、数歩後ずさった。
しかし遠目にも、魏良が同じ歩数分だけ前に詰めたのが分かる。逃がす気はないのだ。
「ま、待ってください。私はここに、この南信州は飯田市に引っ越してきたばかりで、個人的にはなんの縁もゆかりもなかった土地なんです。少し夜の散歩に出ようと思って、市内の近所をうろうろしていただけで。なのに、ここはなんなんです、いきなり辺りに人の気配はなくなるし、スマホは通じないし、妖怪は出てくるし、挙句食べられそうになってるし……! 長野県ってこんな感じなんですか!? いくら山が多いからって!?」
途中からどんどん早口になっていった茉莉に、切風が目を丸くする。
「え。茉莉って、ここがなんだか知らないで来たの? 確かに信州の飯田市から入ることはできるけどさあ」
「……入る?」
「ははあ、分かったかも。茉莉の越してきたところって、飯田駅の近くの、林檎並木のあたりでしょ」
「そうです……けど。どうして分かるんですか?」
「で、かなり適当に、ぐるぐる歩き回ったなあ?」
「私、知らない土地をあてどもなく歩くのが好きで……。いえ、だからっ、どうして分かるんです?」
「あそこには、裏界線があるんだよね」
「りかい、せん?」
妖怪たちが、ああ、そうさのう、とうなずき合っている。
茉莉だけが取り残されていた。ただ、確かに、いくつもの細い路地の集合が珍しくて、ひたすらにほっつき歩いていたのを思い出す。
そうしたらいつの間にか、見慣れない建物ばかりのこの場所にたどり着き、辺りに人気がなくなり、あの猩猩に追い立てられたのだ。
「裏の世界の線、って書くんだよ。なんだか怪しげな名前だけど、それ自体はただの細い裏路地でさ。縦横に何本も走ってて、町を区切ってる。飯田が昔大火事に見舞われた後に、防火のために作ったとか言ってたかな」
「は、はあ……。そのリカイセンが、どうしたんです?」
「裏界線は、言ったとおり、ただの路地だよ。でもそれを、決まった順番、決まった道筋で、決まった回数歩くと、この裏世界への門が開く。茉莉はそれを通って、ここへ来たんだ」
切風が周囲を指でさす。
茉莉も、改めて辺りを見回した。
朽ちかけたビル。少し離れたところには、日本家屋の屋根らしいものも見える。鬱蒼とした森。遠くには山。月だけで、星のない夜空。
茉莉がいつも過ごしている世界と、なにもかもが似ていて、少しずつ違う。
「裏世界……」
「そういう門は国の中のあっちこっちにある。たまたま、裏界線がその一個だってだけ。茉莉、迷い込んじゃったね」
そう言って、切風はけらけらと笑った。
さく、さく、と下草を踏んで――地面は、アスファルトと草地が無秩序に入り混じっていた。ようやく、その異様さに茉莉は気づいた――、魏良が二人に接近してくる。
茉莉は身を固くした。
「娘よ、不運だとは思う。だが、だからと言って見逃すわけにはいかぬ。苦しまぬよう始末してやるから、さあ、こちらへ」
魏良が手を伸ばした。
とっさに走って逃げようとした茉莉は、しかし、妖怪に背を向ける恐怖心から、相対したままの状態から動くことができなかった。
一度体が静止してしまうと、人ならざる者が放つ恐怖に、茉莉は打ち勝てなくなって、固まった。
涙がこぼれそうになり、あまり長いとは言えない、今日までの半生が高速で頭の中に展開した。
――なぜか、腹の奥がやけに熱くなった。
そして深緑色の忍装束の男の手が、茉莉の腕をつかみかけた時。
切風の手が、魏良の肘をつかんで、それを阻んだ。
「切風。どういうつもりだ」
「見逃してやろうよ」
魏良の視線が鋭くなった。
「今一度問う。どういうつもりだ?」
「この子は、好き好んでここにきたわけじゃない。一人ぼっちで、戦う力も持たないで、いるべきじゃない場所に迷い込んだわけでしょ。……同じじゃないか、おれと。おれたちと。おれは敵は殺せるけど、そんなやつは手にかけらんない」
「お前にやれとは言っておらん」
「見て見ぬ振りしたなら、やったのと同じだよね。おれ、そういうやつになりたくないな」
魏良の眉間にしわが寄る。まだつかまれていた肘を、強く払った。
「切風。貴様が我らと共に暮らしながら、どこか一線を引いていたのは知っている」
「えっ? いやおれ、一線なんて」
「だがこれは、仲間を危険にさらす裏切りとなろう。我らは、すでに人への敵意を示したのだ。この娘が、人間を引き連れて裏世界に攻め込んできたならなんとする」
慌てて茉莉が一歩踏み出す。
「わ、私、そんなことしません!」
「さえずるな! 言葉が通じれば意思が通じるなどと思うなよ、我らは人とは別種の理の内にあるのだ。我らあやかしの歴史は、人との欺き合いの歴史でもあることだしな。……切風」
魏良は再び切風をにらみつける。
「これが最後だ。いやそうさな、我らの群れへの忠誠の証に、その娘の首をお前の手で取れ。さすれば――」
「……嫌だね。茉莉が死ななくちゃならないとは、おれは思わねえから」
それから、十数秒。二人は、手を伸ばせば届く距離でにらみ合った。
そして、魏良が、ぷいと背を向ける。
「お。分かってくれたと思っていいんだよね、魏良?」
魏良は振り向かず、背中で答える。
「ああ。分かった。お前は、たった今この場をもって、我が群れを追放する」
「つ――っ?」
それまでどこか弛緩した余裕を持ち続けていた切風が、はっきりと動揺を見せた。
絶句して、口をぱくぱくと空転させている。
「当然であろう。お前は自らの意志で、我らとたもとを分かったのだ」
「ち、違う。それは誤解だって。むしろおれたちだからこそ、」
「お前はもともと、人に近しくして生きてきた妖怪だ。我らと無理に相いろうとすることはない。……お前とその娘を今ここで討たずにおくのは、最後の情けだ」
後ろにいた妖怪たちがざわついている。
中には「手ぬるい」「首を取れ」「人間を帰すな」という声も上がっていた。魏良がそれを手で制する。
切風が慌てて、そこへ声をかけた。
「わ、分かった、さっきのうそうそ、この子殺せばいいんでしょ!? オーケー了解、やっちゃおうかなー! そーれ食べちゃうぞー!」
「えっ!?」と茉莉。
「好きにしろ」と魏良。
切風は、おどけているとしか見えない、大人が子供を「お化けだぞー」と驚かす時の姿勢で静止していた。
魏良が妖怪たちの辺りまで歩きつくと、一団の気配が一気に薄くなっていった。
彼らの背後には森があったのだが、まるでそこへ溶け込むように、妖怪たちの輪郭はおぼろげに淡くなり、やがて消えた。
静寂だけが残る。
切風は、地面に膝をついていた。さっきまでとは打って変わってがっくりと肩を落とした様子が、まるで子供のように見える。
「あ……の。切風、さん」
「……ん。よかったじゃん、茉莉。助かって……」
「……最後、殺そうとしてませんでした?」
「あんなの振りだけ振りだけ。見抜かれてたなー、どうも。ははは……。魏良だって、本気で茉莉が妖怪をやっつけにくるなんて思ってねーよ。ただ最近どうも皆ピリついてるから、そう、あれもそういう振りだな……たぶん」
茉莉は、切風の横にしゃがみ込んだ。
「ありがとうございました、助けていただいて。……私、どうしたらいいでしょうか」
「どうって、なにがあ?」
軽薄そうな声とは裏腹に、切風の視線は焦点を合わせず、ただ向こう側にある森のほうを見ている。
切れ長の鋭い目に、全く力がこもっていないのが、いかにも痛々しかった。
「私のせいですよね……群れを、追われてしまったのは」
「追われた……追われたかー……そうだね……」
茉莉が、重ねて謝ろうとしたが、それより先に切風が続けた。
「ははは、そうなんだよね……おれ、また一人になっちゃったなあ……せっかく、おれにも手に入ったと思ったのにな……。一線引かれてた、か……へへ……そうだったのかなー……」
「手に入ったって、なにがですか……?」
「家族」
ぼそりとつぶやいて、切風が立ち上がった。
「行こうか。裏世界は、生身の女の子が長居するとこじゃないね」
■
二人は、森の中の獣道を歩いていた。
茉莉は、裏世界へ来る時にこんな道を通っていない。しかし、切風がこれが帰り道だというので、大人しくついてきている。
「あの、さっきは途中になってしまいましたけど」
「うん?」
「私、どうしたらいいでしょう。切風さんのために、なにかできることありませんか?」
「あー。いいよいいよそんなの。おれの群れ抜けのことなんて気にしてんだ? 人間って律儀だよねー」
「だって、私の気が済みません。命を助けてくださったんですよね?」
「そうか。そんなに値打ちのあるもん助けたんなら、タダってほうが失礼かな。考えとくよ。……あ、ほら」
獣道の先が、ぼんやりと明るくなっているのが見える。
それが人里の生む人工の明かりだということが、茉莉にも分かった。
「とにかく一度出るからさ。そしたら裏世界の入り方も教えるよ。入り方が分かれば、もう入らなくて済むでしょ」
「は、はい、ありがとうございます。……あの」
茉莉が足を止め、数歩先を言っていた切風が振り返る。
「どした?」
「さっき、妖怪の……魏良さんでしたっけ。これからは人間に危害を加えていく、みたいなこと言ってませんでした……?」
「言ってたね。でも茉莉は、今日のことで、いわゆる霊感みたいなものが強くなったと思うから、妖怪の類で怪しいやつがいたら見えるさ。そしたら逃げりゃいいよ」
「あ、そういえば私、小さいころから霊感強いみたいなんですよね。寝てる時に幽霊にのしかかられたり、ここに越してくる前は千葉に住んでたんですけど、小さい山でキャンプしたらお化けが寄ってきたり……」
「ふうん。もともといいカンしてるんだ」
「でも、もしかして私、ただ帰るだけではいけないのでは……。私だけが安全でいてもいけませんし」
切風が首をかしげた。
「なんで?」
「これでも人間なので、人間が襲われるようなことがあるのなら……防がないと」
切風が、さらに深く首をかしげる。
「なんで? ああ、茉莉の家族とか仲間とかが襲われるのが心配?」
「それ以外もです。町の人とか、とにかく人間みんなですよ」
切風が、首をかしげすぎて、上半身が地面と水平になるほどに傾いた。
「わっかんないな。自分と身内以外のことを、なんで気にするわけ?」
「そんな。切風さんだって、見ず知らずの私のことを助けてくれたじゃないですか。しかも私、妖怪ですらないのに」
「おれはただ、おれより弱いやつのことはいじめないって決めてるだけだよ。ま、理解はできないけどちょっぴり納得はした。とにかく出ようよ、ここ。もう少しだからさ」
「……はいっ」
そう言って、二人が歩き出した時、頭上の枝が音を立てて揺れた。
風ではない。
小鳥でもない。
もっと大きくて、重そうな。
たとえば、さっきの、大猩猩のような――
どすっ。
茉莉は再び、その着地音を聞いた。
「切風えええ……」
「なんだ、猿。まだなにか用かよ」
果たして、二人の道をふさいで立ちはだかったのは、山次だった。
その形相は、さっきよりもさらに激しい感情が込められて、顔がしわだらけなのが茉莉にも分かる。
「ひ……ひあ……」
切風が、茉莉に「下がってな。でもあんま離れないでね」と告げた。
「切風、この犬ころが。お前を殺す。その人間ともども、食ってやる」
「魏良に怒られんじゃねえの?」
「魏良が決めたのは、お前を追放することだけだ。殺すなとは言っておらん」
「似たようなこと言っただろよ」
「あの場ではな。だから、ここまで辛抱してやったのよ。切風、お前はわしに恥をかかせてくれたから殺す。そっちの小娘は、食ってわしの妖力の贄にする」
「別に恥なんてかかせてないじゃん。ちょっと投げつけてやっただけで」
山次が、牙を剥いて咆哮した。
茉莉の足に、びりびりというしびれが走る。
「牙も持たん貴様にいいようにあしらわれれば、十二分な屈辱よ! まずは娘のほうからもらおう! そこをのけえ!」
「ちっ!」
山次が跳ねた。
切風が迎え撃つ。
山次が突き出してきた右手を、また切風が取ろうとした。
しかし山次は体ごと右に跳び、傍らにあった木立を蹴って、切風をかわして茉莉を狙う。
「しまっ……茉莉、逃げ――」
逃げる。茉莉もそれは承知していた。しかし、さっきの山次の凄まじい吠え声を聴いてから、足が萎えてしまっている。
「くそっ!」
切風の声と、茉莉が目を閉じるのが、同時だった。
それからほんの二三秒。
茉莉が目を開けると、すぐ先に、切風の黒い和服の背中があった。体のどこにも痛いところはない。切風が守ってくれたのだと、礼を言おうと思ったが。
「切風さん!?」
切風の右腕には袖がなかった。山次に引きちぎられたに違いない。その証拠に、肘のすぐ下にはえぐられた傷跡と、おびただしい流血が見て取れる。
「猿のくせに、頭使うよねえ」
「はん。お前に、他者を守って戦うなどという芸当はできんだろうが」
「茉莉」切風が山次をにらんだまま、振り向かずに言う。
「は、はいっ」
「なんとか隙を作るから、その間に逃げなね。あの光に向かって走れば、表の世界まではすぐだから」
「な……そんな、私だけ……切風さん、私の」
「言っとくけど、別に茉莉を守って犠牲になろうとか、そういうのは全然ないから。ただ、あんたいると足手まといなだけ」
それは事実だったろう。
茉莉は、傷つきはした。しかし、納得もした。
「おお、おお、なにをぼそぼそやってやがる。切風、お前その腕じゃ、もうわしの爪は防げんだろうな。一思いに首を取ってやろうか。いや、またその小娘を狙ってもいいな。またお前がかばうだろうからよ。どちらでもわしの勝ちよのお」
山次がぐにゃりと笑う。切風の血がついた自分の爪を、べろりと舐め上げた。
「あんにゃろう、猿がいっぱしに駆け引きかよ。いいよ、どっち狙ってきても、撃墜してやる」
「ほおお。できるかのお?」
「できないと思ってんのか……?」
腰を落とした切風が、呼吸を整える。
その肩の辺りを、茉莉が後ろからちょいちょいとつついた。
「切風さん、あの人なんですけど」
「茉莉、今ちょっと忙しいから」
「故ってなに? ああ、猿は答えなくていいよ。魏良、お願い」
「……我ら信州妖怪、長らく、人にあだなすことは控えてきたが。そうも言っておれんようになった。妖怪が力を増すには、人を食らうのが手っ取り早い。人の血肉は妖力の格を上げるからな。あまり無秩序な真似は、せんようにはしたいが」
そうもいかん、と魏良が嘆息する。
「なにそれ。……魏良、お前がこの辺り仕切ってんだろ。お前ら、なにやってんの?」
「切風、お前こそ、みだりに人間側に立つような真似はもうよすのだ。その娘とも、特段懇意というわけではあるまい?」
魏良がそう言うと、その場にいる全員の目が、茉莉に向いた。
「あ、の……」
「ん? 言いたいことがあれば言っていいよ、茉莉、だっけ」
「皆さん……妖怪、なんですか?」
「そう。そして、あんたを食べようとしてる」
「えっ!?」
「いや、聞いてたっしょ、話」
「で、でも、そちらの魏良さんという方は、理性的というか、紳士的な感じがしたんですけど」
ちらりと茉莉が目をやると、魏良はばつが悪そうにしながらも答えてきた。
「いや。ここまで我らの身をさらした以上、あなたを人里に返すわけにはいかぬ。すまないが、ここで食らわせてもらう。わざわざこんなところまで踏み込んできたのだ、覚悟の上であろう」
「な……」
茉莉は、数歩後ずさった。
しかし遠目にも、魏良が同じ歩数分だけ前に詰めたのが分かる。逃がす気はないのだ。
「ま、待ってください。私はここに、この南信州は飯田市に引っ越してきたばかりで、個人的にはなんの縁もゆかりもなかった土地なんです。少し夜の散歩に出ようと思って、市内の近所をうろうろしていただけで。なのに、ここはなんなんです、いきなり辺りに人の気配はなくなるし、スマホは通じないし、妖怪は出てくるし、挙句食べられそうになってるし……! 長野県ってこんな感じなんですか!? いくら山が多いからって!?」
途中からどんどん早口になっていった茉莉に、切風が目を丸くする。
「え。茉莉って、ここがなんだか知らないで来たの? 確かに信州の飯田市から入ることはできるけどさあ」
「……入る?」
「ははあ、分かったかも。茉莉の越してきたところって、飯田駅の近くの、林檎並木のあたりでしょ」
「そうです……けど。どうして分かるんですか?」
「で、かなり適当に、ぐるぐる歩き回ったなあ?」
「私、知らない土地をあてどもなく歩くのが好きで……。いえ、だからっ、どうして分かるんです?」
「あそこには、裏界線があるんだよね」
「りかい、せん?」
妖怪たちが、ああ、そうさのう、とうなずき合っている。
茉莉だけが取り残されていた。ただ、確かに、いくつもの細い路地の集合が珍しくて、ひたすらにほっつき歩いていたのを思い出す。
そうしたらいつの間にか、見慣れない建物ばかりのこの場所にたどり着き、辺りに人気がなくなり、あの猩猩に追い立てられたのだ。
「裏の世界の線、って書くんだよ。なんだか怪しげな名前だけど、それ自体はただの細い裏路地でさ。縦横に何本も走ってて、町を区切ってる。飯田が昔大火事に見舞われた後に、防火のために作ったとか言ってたかな」
「は、はあ……。そのリカイセンが、どうしたんです?」
「裏界線は、言ったとおり、ただの路地だよ。でもそれを、決まった順番、決まった道筋で、決まった回数歩くと、この裏世界への門が開く。茉莉はそれを通って、ここへ来たんだ」
切風が周囲を指でさす。
茉莉も、改めて辺りを見回した。
朽ちかけたビル。少し離れたところには、日本家屋の屋根らしいものも見える。鬱蒼とした森。遠くには山。月だけで、星のない夜空。
茉莉がいつも過ごしている世界と、なにもかもが似ていて、少しずつ違う。
「裏世界……」
「そういう門は国の中のあっちこっちにある。たまたま、裏界線がその一個だってだけ。茉莉、迷い込んじゃったね」
そう言って、切風はけらけらと笑った。
さく、さく、と下草を踏んで――地面は、アスファルトと草地が無秩序に入り混じっていた。ようやく、その異様さに茉莉は気づいた――、魏良が二人に接近してくる。
茉莉は身を固くした。
「娘よ、不運だとは思う。だが、だからと言って見逃すわけにはいかぬ。苦しまぬよう始末してやるから、さあ、こちらへ」
魏良が手を伸ばした。
とっさに走って逃げようとした茉莉は、しかし、妖怪に背を向ける恐怖心から、相対したままの状態から動くことができなかった。
一度体が静止してしまうと、人ならざる者が放つ恐怖に、茉莉は打ち勝てなくなって、固まった。
涙がこぼれそうになり、あまり長いとは言えない、今日までの半生が高速で頭の中に展開した。
――なぜか、腹の奥がやけに熱くなった。
そして深緑色の忍装束の男の手が、茉莉の腕をつかみかけた時。
切風の手が、魏良の肘をつかんで、それを阻んだ。
「切風。どういうつもりだ」
「見逃してやろうよ」
魏良の視線が鋭くなった。
「今一度問う。どういうつもりだ?」
「この子は、好き好んでここにきたわけじゃない。一人ぼっちで、戦う力も持たないで、いるべきじゃない場所に迷い込んだわけでしょ。……同じじゃないか、おれと。おれたちと。おれは敵は殺せるけど、そんなやつは手にかけらんない」
「お前にやれとは言っておらん」
「見て見ぬ振りしたなら、やったのと同じだよね。おれ、そういうやつになりたくないな」
魏良の眉間にしわが寄る。まだつかまれていた肘を、強く払った。
「切風。貴様が我らと共に暮らしながら、どこか一線を引いていたのは知っている」
「えっ? いやおれ、一線なんて」
「だがこれは、仲間を危険にさらす裏切りとなろう。我らは、すでに人への敵意を示したのだ。この娘が、人間を引き連れて裏世界に攻め込んできたならなんとする」
慌てて茉莉が一歩踏み出す。
「わ、私、そんなことしません!」
「さえずるな! 言葉が通じれば意思が通じるなどと思うなよ、我らは人とは別種の理の内にあるのだ。我らあやかしの歴史は、人との欺き合いの歴史でもあることだしな。……切風」
魏良は再び切風をにらみつける。
「これが最後だ。いやそうさな、我らの群れへの忠誠の証に、その娘の首をお前の手で取れ。さすれば――」
「……嫌だね。茉莉が死ななくちゃならないとは、おれは思わねえから」
それから、十数秒。二人は、手を伸ばせば届く距離でにらみ合った。
そして、魏良が、ぷいと背を向ける。
「お。分かってくれたと思っていいんだよね、魏良?」
魏良は振り向かず、背中で答える。
「ああ。分かった。お前は、たった今この場をもって、我が群れを追放する」
「つ――っ?」
それまでどこか弛緩した余裕を持ち続けていた切風が、はっきりと動揺を見せた。
絶句して、口をぱくぱくと空転させている。
「当然であろう。お前は自らの意志で、我らとたもとを分かったのだ」
「ち、違う。それは誤解だって。むしろおれたちだからこそ、」
「お前はもともと、人に近しくして生きてきた妖怪だ。我らと無理に相いろうとすることはない。……お前とその娘を今ここで討たずにおくのは、最後の情けだ」
後ろにいた妖怪たちがざわついている。
中には「手ぬるい」「首を取れ」「人間を帰すな」という声も上がっていた。魏良がそれを手で制する。
切風が慌てて、そこへ声をかけた。
「わ、分かった、さっきのうそうそ、この子殺せばいいんでしょ!? オーケー了解、やっちゃおうかなー! そーれ食べちゃうぞー!」
「えっ!?」と茉莉。
「好きにしろ」と魏良。
切風は、おどけているとしか見えない、大人が子供を「お化けだぞー」と驚かす時の姿勢で静止していた。
魏良が妖怪たちの辺りまで歩きつくと、一団の気配が一気に薄くなっていった。
彼らの背後には森があったのだが、まるでそこへ溶け込むように、妖怪たちの輪郭はおぼろげに淡くなり、やがて消えた。
静寂だけが残る。
切風は、地面に膝をついていた。さっきまでとは打って変わってがっくりと肩を落とした様子が、まるで子供のように見える。
「あ……の。切風、さん」
「……ん。よかったじゃん、茉莉。助かって……」
「……最後、殺そうとしてませんでした?」
「あんなの振りだけ振りだけ。見抜かれてたなー、どうも。ははは……。魏良だって、本気で茉莉が妖怪をやっつけにくるなんて思ってねーよ。ただ最近どうも皆ピリついてるから、そう、あれもそういう振りだな……たぶん」
茉莉は、切風の横にしゃがみ込んだ。
「ありがとうございました、助けていただいて。……私、どうしたらいいでしょうか」
「どうって、なにがあ?」
軽薄そうな声とは裏腹に、切風の視線は焦点を合わせず、ただ向こう側にある森のほうを見ている。
切れ長の鋭い目に、全く力がこもっていないのが、いかにも痛々しかった。
「私のせいですよね……群れを、追われてしまったのは」
「追われた……追われたかー……そうだね……」
茉莉が、重ねて謝ろうとしたが、それより先に切風が続けた。
「ははは、そうなんだよね……おれ、また一人になっちゃったなあ……せっかく、おれにも手に入ったと思ったのにな……。一線引かれてた、か……へへ……そうだったのかなー……」
「手に入ったって、なにがですか……?」
「家族」
ぼそりとつぶやいて、切風が立ち上がった。
「行こうか。裏世界は、生身の女の子が長居するとこじゃないね」
■
二人は、森の中の獣道を歩いていた。
茉莉は、裏世界へ来る時にこんな道を通っていない。しかし、切風がこれが帰り道だというので、大人しくついてきている。
「あの、さっきは途中になってしまいましたけど」
「うん?」
「私、どうしたらいいでしょう。切風さんのために、なにかできることありませんか?」
「あー。いいよいいよそんなの。おれの群れ抜けのことなんて気にしてんだ? 人間って律儀だよねー」
「だって、私の気が済みません。命を助けてくださったんですよね?」
「そうか。そんなに値打ちのあるもん助けたんなら、タダってほうが失礼かな。考えとくよ。……あ、ほら」
獣道の先が、ぼんやりと明るくなっているのが見える。
それが人里の生む人工の明かりだということが、茉莉にも分かった。
「とにかく一度出るからさ。そしたら裏世界の入り方も教えるよ。入り方が分かれば、もう入らなくて済むでしょ」
「は、はい、ありがとうございます。……あの」
茉莉が足を止め、数歩先を言っていた切風が振り返る。
「どした?」
「さっき、妖怪の……魏良さんでしたっけ。これからは人間に危害を加えていく、みたいなこと言ってませんでした……?」
「言ってたね。でも茉莉は、今日のことで、いわゆる霊感みたいなものが強くなったと思うから、妖怪の類で怪しいやつがいたら見えるさ。そしたら逃げりゃいいよ」
「あ、そういえば私、小さいころから霊感強いみたいなんですよね。寝てる時に幽霊にのしかかられたり、ここに越してくる前は千葉に住んでたんですけど、小さい山でキャンプしたらお化けが寄ってきたり……」
「ふうん。もともといいカンしてるんだ」
「でも、もしかして私、ただ帰るだけではいけないのでは……。私だけが安全でいてもいけませんし」
切風が首をかしげた。
「なんで?」
「これでも人間なので、人間が襲われるようなことがあるのなら……防がないと」
切風が、さらに深く首をかしげる。
「なんで? ああ、茉莉の家族とか仲間とかが襲われるのが心配?」
「それ以外もです。町の人とか、とにかく人間みんなですよ」
切風が、首をかしげすぎて、上半身が地面と水平になるほどに傾いた。
「わっかんないな。自分と身内以外のことを、なんで気にするわけ?」
「そんな。切風さんだって、見ず知らずの私のことを助けてくれたじゃないですか。しかも私、妖怪ですらないのに」
「おれはただ、おれより弱いやつのことはいじめないって決めてるだけだよ。ま、理解はできないけどちょっぴり納得はした。とにかく出ようよ、ここ。もう少しだからさ」
「……はいっ」
そう言って、二人が歩き出した時、頭上の枝が音を立てて揺れた。
風ではない。
小鳥でもない。
もっと大きくて、重そうな。
たとえば、さっきの、大猩猩のような――
どすっ。
茉莉は再び、その着地音を聞いた。
「切風えええ……」
「なんだ、猿。まだなにか用かよ」
果たして、二人の道をふさいで立ちはだかったのは、山次だった。
その形相は、さっきよりもさらに激しい感情が込められて、顔がしわだらけなのが茉莉にも分かる。
「ひ……ひあ……」
切風が、茉莉に「下がってな。でもあんま離れないでね」と告げた。
「切風、この犬ころが。お前を殺す。その人間ともども、食ってやる」
「魏良に怒られんじゃねえの?」
「魏良が決めたのは、お前を追放することだけだ。殺すなとは言っておらん」
「似たようなこと言っただろよ」
「あの場ではな。だから、ここまで辛抱してやったのよ。切風、お前はわしに恥をかかせてくれたから殺す。そっちの小娘は、食ってわしの妖力の贄にする」
「別に恥なんてかかせてないじゃん。ちょっと投げつけてやっただけで」
山次が、牙を剥いて咆哮した。
茉莉の足に、びりびりというしびれが走る。
「牙も持たん貴様にいいようにあしらわれれば、十二分な屈辱よ! まずは娘のほうからもらおう! そこをのけえ!」
「ちっ!」
山次が跳ねた。
切風が迎え撃つ。
山次が突き出してきた右手を、また切風が取ろうとした。
しかし山次は体ごと右に跳び、傍らにあった木立を蹴って、切風をかわして茉莉を狙う。
「しまっ……茉莉、逃げ――」
逃げる。茉莉もそれは承知していた。しかし、さっきの山次の凄まじい吠え声を聴いてから、足が萎えてしまっている。
「くそっ!」
切風の声と、茉莉が目を閉じるのが、同時だった。
それからほんの二三秒。
茉莉が目を開けると、すぐ先に、切風の黒い和服の背中があった。体のどこにも痛いところはない。切風が守ってくれたのだと、礼を言おうと思ったが。
「切風さん!?」
切風の右腕には袖がなかった。山次に引きちぎられたに違いない。その証拠に、肘のすぐ下にはえぐられた傷跡と、おびただしい流血が見て取れる。
「猿のくせに、頭使うよねえ」
「はん。お前に、他者を守って戦うなどという芸当はできんだろうが」
「茉莉」切風が山次をにらんだまま、振り向かずに言う。
「は、はいっ」
「なんとか隙を作るから、その間に逃げなね。あの光に向かって走れば、表の世界まではすぐだから」
「な……そんな、私だけ……切風さん、私の」
「言っとくけど、別に茉莉を守って犠牲になろうとか、そういうのは全然ないから。ただ、あんたいると足手まといなだけ」
それは事実だったろう。
茉莉は、傷つきはした。しかし、納得もした。
「おお、おお、なにをぼそぼそやってやがる。切風、お前その腕じゃ、もうわしの爪は防げんだろうな。一思いに首を取ってやろうか。いや、またその小娘を狙ってもいいな。またお前がかばうだろうからよ。どちらでもわしの勝ちよのお」
山次がぐにゃりと笑う。切風の血がついた自分の爪を、べろりと舐め上げた。
「あんにゃろう、猿がいっぱしに駆け引きかよ。いいよ、どっち狙ってきても、撃墜してやる」
「ほおお。できるかのお?」
「できないと思ってんのか……?」
腰を落とした切風が、呼吸を整える。
その肩の辺りを、茉莉が後ろからちょいちょいとつついた。
「切風さん、あの人なんですけど」
「茉莉、今ちょっと忙しいから」
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
華夏の煌き~麗しき男装の乙女軍師~
はぎわら歓
ファンタジー
国家占い師である胡晶鈴は、この中華・曹王朝の王となる曹隆明と結ばれる。子を宿した晶鈴は占術の能力を失い都を去ることになった。
国境付近の町で異民族の若い陶工夫婦と知り合う。同じく母になる朱京湖とは、気が合い親友となった。
友人になった夫婦と穏やかな生活を送るはずだったが、事情のある朱京湖と間違えられ、晶鈴は異国へと連れ去られてしまった。京湖と家族の身を案じ、晶鈴はそのまま身代わりとなる。
朱彰浩と京湖は、晶鈴の友人である、陸慶明に助けを求めるべく都へ行く。晶鈴の行方はずっと掴めないままではあるが、朱家は穏やかな生活を営むことができた。
12年たち、晶鈴の娘、星羅は才覚を現し始める。それと同時に、双子のように育った兄・朱京樹、胡晶鈴との恋に破れた医局長・陸慶明とその息子・陸明樹、そして実の娘と知らない王・曹隆明が星羅に魅了されていく。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
花ひらく妃たち
蒼真まこ
ファンタジー
たった一夜の出来事が、春蘭の人生を大きく変えてしまった──。
亮国の後宮で宮女として働く春蘭は、故郷に将来を誓った恋人がいた。しかし春蘭はある日、皇帝陛下に見初められてしまう。皇帝の命令には何人も逆らうことはできない。泣く泣く皇帝の妃のひとりになった春蘭であったが、数々の苦難が彼女を待ちうけていた。 「私たち女はね、置かれた場所で咲くしかないの。咲きほこるか、枯れ落ちるは貴女次第よ。朽ちていくのをただ待つだけの人生でいいの?」
皇后の忠告に、春蘭の才能が開花していく。 様々な思惑が絡み合う、きらびやかな後宮で花として生きた女の人生を短編で描く中華後宮物語。
一万字以下の短編です。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/fantasy.png?id=6ceb1e9b892a4a252212)
女神に頼まれましたけど
実川えむ
ファンタジー
雷が光る中、催される、卒業パーティー。
その主役の一人である王太子が、肩までのストレートの金髪をかきあげながら、鼻を鳴らして見下ろす。
「リザベーテ、私、オーガスタス・グリフィン・ロウセルは、貴様との婚約を破棄すっ……!?」
ドンガラガッシャーン!
「ひぃぃっ!?」
情けない叫びとともに、婚約破棄劇場は始まった。
※王道の『婚約破棄』モノが書きたかった……
※ざまぁ要素は後日談にする予定……
聖女を追放した国の物語 ~聖女追放小説の『嫌われ役王子』に転生してしまった。~
猫野 にくきゅう
ファンタジー
国を追放された聖女が、隣国で幸せになる。
――おそらくは、そんな内容の小説に出てくる
『嫌われ役』の王子に、転生してしまったようだ。
俺と俺の暮らすこの国の未来には、
惨めな破滅が待ち構えているだろう。
これは、そんな運命を変えるために、
足掻き続ける俺たちの物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる