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エピローグ
昼日中の銀の月2
しおりを挟む学校の屋上は、お昼でももう指先がかじかむ。
「寒い。室内に行きたい。そう思わないですか、鉄子さん」とおどけた口調で鉄子に訊く。
「だって、暖かいところは人がいるじゃないか」
屋上のへりの段差があるところに並んで座って、私たちは揃って腕の辺りをさすった。
「社会不適合とかで悩んでるなら、そういうところを、こう」
「なにか言ったか」
半眼の鉄子が、ナポリタンサンド、焼きそばパン、コロッケパン、と総菜パンのラップを手早く外しながらちろりとこちらを見た。さらにもう一つ、コンビニで買ったチョコレートクロワッサンが、手提げ袋の中からちらりと覗いている。
「いえ、なにも。もうすぐ期末試験だね」
「そうだな。私は留年さえしなければいいくらいに考えてるから、大して勉強しないけど」
私はお弁当のミニコロッケを箸でつまみ、コロッケがお揃いだなあと思う。
「その後、クリスマスだね」
「そうだな。全然予定とかはないが」
「その後、大晦日で、お正月だ」
「なぜイベントを列挙する」
私は、かがみ込んで鉄子を見上げた。
「全部一緒にやらない?」
「やる」
鉄子が、さっき自動販売機で買ってきた缶入りの熱い紅茶を傾けて答えた。
右手でパンを持っているので、飲み物は左手で持っている。あまり行儀はよくないけど、私しか見ていないのでまあいいのだろう。
その左手には、包帯ではなく、黒いリストバンドが巻かれていた。もう鉄子が手首に包帯を巻くことはないと思う。私と同じで。
私の、オレンジのリストバンドを見た。
手首を切ったあの日、死ぬつもりなんてなかった。ただ、助けて欲しくて、なにかを誰かに許して欲しかっただけだ。
それでも、もっと深く刃を入れていたら、私は今こうして元気にしていなかったかもしれない。それどころか、もっと悪いことにもなった可能性もある。
あの時死ななくてよかった。
私たちのこれからの日々が苦しみだけで満たされてはいないのだと、ただあてもなく祈るだけではなく、確かに信じられる今日まで生きていてよかった。
「リツの傷、きっともっと目立たなくなるよ」
「うん。いいけどね、人に見られても」
左腕を陽に透かす。
「リツがよくても、周りのせいで面倒なことにはなり得るぞ」
「それはそうなんだけどね。私なりに、感じ方は変わったから」
「ふうん。なんだか、陽気になったな」
「え、そう?」
「口角が常に上がり気味と言うか」
「それは顔に締まりがなくなったというのでは」
「そうとも言う、かもな」
「いいもん。今、私楽しいもん」
気がつけばパンを三つとも食べ終えていた鉄子が、スマートフォンで時間を見た。
お昼休みの終わりまではもう少しある。
「そういえばリツ、あの蓮乃に今朝なにか言われてなかったか」
「えッ」
「えッじゃない。朝の挨拶にしては、長く話し込んでいたんじゃないか」
「は、話し込んではないけど。クリスマスにクラスでなにかイベントやったら、私来るかって」
鉄子がパンのラップを四角く折りたたんでいく。心なしか、爪が立っているように見えた。
「ほお。私は聞いてないな全然.。これは私がつまはじきにされてるんでなければ、つまり大いに個人的な――」
「いや違う違う、そういうのじゃない多分。これからみんなに都合を訊いて回るんじゃないの?」
「そうだとしても、蓮乃個人の優先順位がそこはかとなく感じられるな」
「そ、そういう鉄子だって、最近教室の中で人気者じゃない。昨日も日高さんや小谷さんに囲まれて、楽しく話してたよね」
そうなのだ。
最近、鉄子は徐々にクラスの中になじみつつある。
二学期のはじめの頃とは、別の教室のようだった。
「……ああ、いや、あれは……つまらないことを訊かれたんだ。大したことじゃない、そう、つまらないことを」
言い淀む鉄子の顔が曇った。
にわかに、私の胸の奥がざわめき出す。
「なに? ……なに言われたの? 言えることなら、聞かせて」
「人から見たら、つまらないことなんだ」
鉄子が顔を背ける。
人から見たらつまらなくても、本人にとっては大ごとだなんていうのは、珍しくもなんともない。
「鉄子、鉄子が言いにくいなら、私、あの人たちにちゃんと」
「……ああ、もう! 髪の毛が硬そうだけど、なにで頭洗ってるのって訊かれたんだよ! 意地悪じゃなくて、きっと好意で話しかけてくれたんだ! でも、きっとそれくらいしかとっかかりがなかったんだろ!」
私が握りしめた両手が、空中で行き場を失くした。
「……髪?」
「そう。髪。もしくは、好意でなければ、純粋な好奇心だろうな」
一瞬の緊張と緩和のおかげで、私の笑い声は、三十秒ほど続いた。
鉄子が口をとがらせる。
「おお、笑え笑え。笑えるのはいいことだ」
「ごめん、ごめん、でもいいじゃない、鉄子のいいところ、どんどん分かってもらえるよ、これから。はあ、苦しい。友達増えるね」
「私は、リツだけで充分なんだけどなあ」
「それは大変光栄だねえ」
膝に頬杖をついたリツが、微笑んで私を見つめた。
「本当だぞ。これからどんなに心許せる人間が増えようと、リツが最も特別なのはいつまでも変わらない。断然、愛おしいね」
おどけていたのが恥ずかしくなるくらい断言されて、私はかっと赤面してしまう。
「い、いと……そ、それは、どうも」
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだ。
でも、私も鉄子に、あの水道橋の公園前で、同じように思ったんだった。
「リツが手首の傷を見せてくれた時さ。この人のことは、絶対に大切にしようと思った」
鉄子が立ち上がる。
冬の始まりの済み切った空に、くっきりと切り取られたような黒い制服が眩しく映える。
「私も。鉄子はずうっと特別で、大切だよ」
鉄子が手を差し出した。
私がその手を取る。
ひんやりとして、ほっそりとして、魚を思わせる、少し冷たい指。でもその奥に、今も息づく温もり。
病は治った。
私たちはまだまだ危なっかしいけれど。
傷は癒えた。
かけがえのない人は隣にいる。
私たちはお互いをぐいっと引き寄せて、勢いよく抱きしめ合って、お互いの耳元で世の中すべての悲しみを消し飛ばすように大笑いして、……
高校生最初の十二月を、つまりは、そんなふうに迎えた。
終
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