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第二章 変わらないはずだと信じたものさえ遠ざかるから
後輩たちの憂鬱
しおりを挟む翌週。
昼休み、昼食を終えた海が図書室へ本を返しに行くため歩いていると、向かいから杏子が歩いてきた。
奉仕の時以外は、二人にはこれといった接点がない。知らないふりをしてもよかったのだが、杏子のほうから、片手を上げて挨拶してきた。
「よ」
「こんにちは、折露先輩」
「なんだか、真昼間の廊下であると、あたしたちって健全な感じがするねー」
「健全ですよ。特に今は」
「あはは、そうだね。そういえばあたし、彼氏と別れたよ」
「えっ!?」
つい大きな声が出てしまった。
近くにいた生徒たちが、ぱらぱらとこちらを振り返る。
「驚き過ぎ」
「す、すみません。そうだったんですか」
「いいところあるなと思ってつき合い出したけど、合わないところもいっぱいあるなってことが分かってきてさ。……んなことしてる間に、向こうが、ほかに好きな人できたみたい」
杏子に最後に奉仕した時は、海なりに彼氏に気を遣ったつもりだったので、どこか拍子抜けした気持ちになる。
そうか、別れたのか、と。
あの日、どこか杏子が頼りなげに見えたのは、そのせいだったのかもしれない。
「こんな時こそ、誰かさんがあたしのこと気持ちよくしてくれたらいいのになー」
「声が大きいです」
半眼の海に、杏子が笑い出す。
「ごめん、嘘嘘。あたしもそろそろ、君離れしなきゃね。お姉さんと一緒で」
まあそう言ってくれるとありがたい、とうなずきかけて、海は聞きとがめた。
「待ってください。姉がなんて?」
「え、なるみさんも彼氏と別れたでしょ? で、君はお姉さんにはあれしてあげないんでしょ。させもしないし」
海は絶句した。
口をぱくぱくさせて、目を見開いている。
「あ、そっか君知らなかったか。杏子さんて、あたしのバイト先のOBなのよ。仕事できたみたいよー、今もばりばり働いてるでしょ」
「あ、の……もしかして、姉が妙におれの『仕事』に詳しかったりしたのって……」
「あ、あたし由来の情報多いと思うよ。海くんのこともいろいろ聞いてるしい」
「いろいろ……」
杏子がにんまりと笑う。
そして、耳打ちしてきた。
「海くんて、性欲強いけど、理性も強いんだってね。見直したって言ってたよ」
「あの……野郎ッ……」
顔が真っ赤になるのを、海は自覚した。
この分ではおそらく、微に入り細を穿つように、なにもかもが伝えられているのだろう。いや、多少の誇張も入れられているかもしれない。
「個人情報とはいったい……ッ」
舌を出して爆笑するなるみの顔が、頭に浮かんだ。
「そんでねー」杏子がもう一度、さらに小さい声で耳打ちしてくる。「やっぱりなるみさんも、海くんのあれ、おっきいって言ってた。入れてたらやばかったかもって。やっぱり絶対おっきいよね」
「……知りません。そんなものの大小が、人生を左右するものでもないでしょうし。どうでもいいです」
「ま、大きさはいいんだけどさ。結局あたしもなるみさんも、海くんのは入れてないんだよね。やっぱり、まだ女の子としたことないの?」
なるみ。
どうしてくれよう。
歯ぎしりの音が、海の頭蓋骨の中で反響した。
それをよそに、杏子は、傍らの開いた窓から吹いてくる穏やかな風に黒髪をなびかせながら、外へ視線を向けて言ってくる。
「なるみさんと、話したんだ。海くんはいったい、どんな女の子に、あれを奥までぶち入れちゃうんだろう……って。丁寧にしてあげてね、って海くんなら大丈夫か」
「そんな爽やかそうに、なんて下卑たことを言うんですか」
杏子と別れて、ようやく図書室へ向かう。
会話そのものはふざけていたが、確実に、誰にも変化は訪れていた。
海にも訪れている。
憧憬の終わりの中で、新しい気持ちが芽吹きつつある。
それは悪いことではないが、簡単に肯定しまうことには、無意識の抵抗があった。
そのせいで、亜由歌への気持ちに名前がつかない。気持ちも、海も、まだ幼な過ぎた。
本を返してきた道を戻ると、また見知った顔が前からやってきた。
「あ」と、前方の女子。
「やあ」と今度は海のほうから挨拶した。
天心天音は、インナーカラーだけでなく毛足までピンクに染め出した髪を揺らして、海に駆け寄ってくる。
「こんにちは、先輩。……今いいですか?」
「おれに? いいけど」
天音は、横を行き交う生徒の群れにきょろきょろと視線をやった。
「ここじゃ、ちょっと。もう少し人の少ないところで……」
二人は、特別教室棟まで早足で移動した。この辺りは、授業の時以外は人通りが少ない。
「どんな話?」
「あの……凄く、変なこと言っちゃうんですけど」
それから、少しの間。
天音の顔が赤らんでいる。
嫌な予感がした。
今まで、何度か覚えがある。
この次に、訊かれるのは。
あれだ。
でも、なぜ君が。
「私、……ちょっと青四季先輩の、……噂、聞いたんですけど」
・
「うお……お……!」
海を見て奇声を発したのは、穂楼閃人だった。
その周りにいる五人ほどの華道部員も、声こそ出さないものの、一様に驚いている。
和室の中は、意外過ぎる人物の訪れに混乱しかけていた。もっとも、訪れたのは、れっきとした華道部員でもある海だったのだが。
「なんでそんなに驚いてるんだ、閃人」
「いえ、もう、二学期の間は来ないのかなーって。いやー先輩、秋はいいですよ! 花以外にも紅葉した葉や木の実がいろいろで、楽しいです。よく来てくれました」
「ああ。ま、たまにはな。ていうかまたなんだ、その恰好」
閃人は、上は白い夏物のセーラー服――この学校の制服ではない――、下は群青のストレートパンツという服装だった。
長いをまとめたポニーテールは、ウィッグらしい。
「え、水兵さんみたいでよくないですか」
「水兵さんはポニーテールにするのか」
「え、かわいくないですか」
「自分の価値観めちゃくちゃ強固だな、お前」
そう言って海は和室に上がる。
どうやら海が本当に部活をやりに来たらしいと分かって、華道部員たちが色めき立った。
「凄い! 私、初めて青四季先輩見ました!」
「私も! 実在したんですね!」
「えー、青四季先輩ってかっこいいじゃないですかー! 誰ですか、根暗ユーレイとか言ってたのは!」
「ああうん、ありがとうな……いや本当に誰、それ言ったの?」
多少引っかかるところはあったものの、海は久しぶりに部活に参加した。
途中で部員の一人が、「あれ、でも青四季先輩、今日の午後この辺にいませんでした? 体育で移動してる時、似た人見た気がするんですけど」などと言ってきたが、知らないと答えておいた。
ほかにも「天音さん、今日来ないのかなあ」などという声も聞こえてきて、どきりとする。
それでも部員の女子たちが、不慣れな海になにくれとこつを教えてくれ、下校時間までには海でもそれなりに見栄えのする生け方ができた。
が、海には、ここからが本番だった。
「閃人、帰りちょっといいか?」
「え、いいですよ。どこか寄ります?」
「うーん、人目のないところのほうが」
「じゃ、うちでもいいですか? 親は深夜までいないんで」
そうして向かった閃人の家は、十階建てのマンションだった。
閃人の家は九階で、通されたリビングからの見晴らしはなかなかいい。
「麦茶しかないんですけど」
「ああ、そんな、お構いなく。ていうか来客があると必ず飲み物出す文化ってなんなんだろうな。喉が渇いてればともかく、そうでなくてもなにか出すよな」
「え。それは出すでしょう。……青四季先輩って、たまに変なこと言いますよね」
「変かな。……忘れてくれ」
ソファに座って、グラスに注がれた麦茶を飲む。
喉を湿らせると、少し話がしやすくなった気がした。なるほどのみものはひつようかもしれない、と海があっさり宗旨替えする。
「天心さんのことなんだけどさ」
「天音がなにか?」
「お前のことを気にしてる」
「……そう、ですか」
「閃人はどう思ってるのか、訊いてもいいか?」
海が、昼休みに天音に訊かれたのは、やはり「仕事」のことだった。
海は正直に話すべきか迷ったが、どうも天音の感じからして奉仕を求めているのではなく、単に噂が本当かどうかを確かめたいだけのように思えたため、いらぬトラブルを避けるべくしらばっくれることにした。
――そう、そうですよね。青四季先輩が、そんなことするわけないですよね。よかった。あたし、旧校舎の部屋っていうのも、確かめてみようと思って忍び込んでみたんです。そしたら、そんな変な部屋なんて見当たらなかったし……
それを聞いて、海は胸をなでおろした。
プレイルームにしていた空き部屋は、もうすっかり片づけてある。
やはりいくらなんでも、校内にあんな場所を設けるのはリスクが高すぎた。考えてみれば、当たり前のことだ。危なかった。
そして天音は、閃人への心配を口にした。
――青四季先輩、閃人のことどう思います? あいつ、女の恰好したりするじゃないですか。……男が好きなんですかね? 青四季先輩も顔きれいだから、二人で、男の人相手になにか悪いこととかしてるのかなって、あたし変なことばっかし考えちゃって……
海は腕を組んで記憶を探った。
閃人とはそんなに長いつき合いではないが、確かに女装はするものの、男を恋愛対象にしたり、心が女なのではないかと思うような心当たりは見つからない。
ただ単に着たい服を着ているだけ、くらいに思っていた。本人もよくそんなことを言っている。
しかしそれだけなら、天音も思い詰めたりはしないだろう。
なにかあったのか? と海が尋ねると、天音は泣きそうな顔になった。
――あたし、あいつに告りました。
さすがに海は息をのんだ。
――でも、はっきり返事してくれなくて。あいつ、先輩と仲いいですよね。それで女みたいにしてるから、もしかして先輩のこと好きなのかなとか、実はつき合ってんのかなとか、あたし……それで……
天音はとうとう泣き出した。
気丈で元気な彼女しか見たことがなかっただけに、海はうろたえた。
とりあえず交際については否定して、昼休みが終わっても、次の授業の間は一緒にいた。
ひとけのない和室に招き入れ、落ち着いてから教室へ帰した。どうやらそこを華道部員の一人に見られたらしいが。
その後、天音は部活には出ずに帰ったようだった。
海は、目の前のソファに座っている閃人を見た。後輩は、困ったように笑っている。いや、笑っているように見えるが、単に困っているだけにも見える。
「参ったな。……天音から、聞きました? 先輩のこと、けっこう信用してるんですよね、あいつ。僕より先輩と話した回数少ないはずなのに」
「ちょうどいい他人なんだろう。それに対して、お前は、天心さんにとって特別な存在ってわけだ」
「……正直言って、天音には、好感は抱いてますよ。女子の中じゃ一番仲いいし、気が合うし……つき合いたい気持ちがないわけじゃないです。楽しいでしょうね、きっと」
「その言い方だと、それ以外の気持ちもあるんだな」
閃人は息をついた。
「おれ、恋愛って、よく分からないかもしれないです」
「恋愛対象が、女子じゃないかもしれない?」
「いえ、たぶん女子です。初恋は同級生の女子だったし、男好きになったことないですから。ただ、……」
「ただ?」
閃人は、一度うつむいてから、顔を上げる。
「性欲の対象は、男性かもしれません」
「え?」
あるのか、そんなこと。
そう口に出そうとして、思いとどまる。
いや、あるか。
どんなことだってありうる。誰でも少しずつ違うところがあって、同じ人間はいない。
その違い方の差だけだ。
この時の海には、それくらいのことは分かっていた。
「閃人には、その心当たりがある、と」
「はい。その、そういう絵とか動画とかで、男子が感じてるところを見るほうが興奮するんです。それがただ単に、ペニスがあるから感じ方が分かるからなのか、男に興奮してるのか、それは自分でも区別がつかなくて」
十月に入って、日が落ちるのが早くなってきていた。
部屋の中が暗くなる。
閃人は明かりをつけなかった。
応援ありがとうございます!
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