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「普通に、ハンドルネームを書いてくださるだけで充分です。今日、ここに来た記念にもなりますし。……先生、よもやお忘れではありませんよね?」
壮弥くんが体をかがめ、私の顔を斜め下から覗き込んでくる。
「……なにを、でしょう」
「おれは、あなたのファンなんですよ」
そう言われてしまうと、断れない。
それに、正直、サインなんてちょっと舞い上がってしまう。
「……私、サインなんてありませんから、本当に名前を書くだけの、『署名』っていう趣になりますよ」
「いい趣じゃないですか」
私はコースターとサインペンを受け取った。
「私の、ツミってカタカナ二文字じゃ、全然さまにならなそうですけど……」
「そんなことはありません。大切なのは、字面じゃありませんよ」
「そんな、参加することに意味があるみたいな。……せめて、少しでも丁寧に描きます。それと……」
コースターの面積はあまり広くないながら、なにしろ名前が二文字しかないうえにデザインもなくただ書くだけなので、余白にキャラクタの顔一つくらいは描き込めそうだった。
そこに、私は『スネグラチカの檻』という自作品に登場したヒロインの顔を描く。
描いている途中にそれを悟った壮弥くんは、上ずった声で、
「え、うそ、うわ……うれしい。ツミ先生、なんていうサービス精神……」
などと言っている。
芸能人がサインするように軽快にさらさらと書くのではなく、線の一本一本をゆっくりと確実に引いていった。
やがて、ヒロインの横顔を描き終える。
「一発描きはあんまり得意じゃないんですけど、一生懸命に描きました。……受け取ってもらえますか?」
「もちろん……もちろんです」
私が両手で持って差し出したコースターを、壮弥くんも両手で受け取ってくれた。
ふと外を見る。
ちょうど夕日が空の群青色に隠れていくところで、今日という日の終わりを告げようとしていた。
■
帰りが同じ方向なので、同じ電車に乗った。
いつもの時間よりも混んでいた。壮弥くんが、ほかの乗客と私の間に立って、壁になってくれる。
壮弥くんは、別の路線でもっと早く帰れる電車があるはずなのに、自然に私と同じ路線を選んでくれた。
さりげなくそのことを訊くと、「昨夜は、夜なのにお送りできませんでしたから」とはにかんで言う。
いい人だな。
私、自分が高校生の時、こんなふうに人のことを思いやれてたかなあ。
柏までは、三十分くらいかかる。
いつもは少し長いなと思う時間が、今日は、ずいぶん短く思えた。
「壮弥くんは、明日はアルバイトなんですか?」
「ええ、そうです。またメイクして、女装ですよ」
それが聞こえたらしい、横にいた男性が、不思議そうな顔をしてこっちを見る。
壮弥くんは、構わずに続けた。
「不思議なもので、続けてると、髪型とか服とかにこだわりが出てくるんですよね。でも、そんなにたくさんの服はそろえられなくて」
「あ、あの服って自前なんですか?」
「用意されてる衣装もあるんですけど、みんな最初はそれ着てても、入店してしばらくすると、満足できなくて自分で服買い出すんです」
「女の子の服が着たくてお店に勤めるんじゃなくて、逆なんですね……」
「人によりますね。おれの場合は接客業に興味あったんですけど、なるべく割がよくて、なるべく不健全じゃなくて、酒を出さない店を選んでいたら、アンドロアンサスにたどり着いたんです。女装は、全然興味なかったんですけど、最近は追及してしまいがちかもですね……」
「じゃあ、コンカフェって、ほかの飲食店よりも時給いいんですか?」
うーん、と壮弥くんが小さくうなる。
「アンドロアンサスの値段は良心的なほうですけど、フードやドリンクの利益率は、普通の喫茶店なんかよりだいぶ高いと思います。ほかにも好みのキャストをつけようとすると少しずつお金かかったりして、長い時間いれば、それなりの値段になりますよ。酒出す店はもっとすごいって聞きますけど、おれはそれは嫌だったんで」
けっこういろいろ教えてくれるので、突っ込んで聞きたくなるけど、どこまで聞いていいのか悪いのか、程度がよく分からない。
もし、私に内情を教えてしまうことで壮弥くんがお店の人から怒られるようなことがあったらと考えて、アンドロアンサスの話はそこまでにした。
「ツミさんは、駅からおうちは近いんですか? すぐ帰れます?」
「あ。ん……それ、なんですけど。家自体は、遠くはないんですけども」
帰り道のことを思い浮かべた。
暗い道は苦手だ。これは、女の人ならたいてい苦手だと思うけど。
でも最近は、あの、不穏な気配のことがあるので、なおさら暗闇が怖い。
だけど、それをここで口にすると、壮弥くんの性格的に……
「なにかあるんですか、ツミさん?」
「……実は最近、自意識過剰の神経過敏の思い過ごしの気にしすぎかもしれないんですけど」
「そこまで前置きされたら、そんなことは言いませんよ。もし、おれが聞いていいことなら」
「それに、壮弥くんになにかをしてほしいとか、そういうことを考えているわけでもなくて」
「はい。承知しました。なにがあるんです?」
「あのですね」
私は、声を潜めて、壮弥くんに耳打ちした。
「……最近、時々、誰かに後をつけられている気がします。家の傍では、一応まくようにしてたので、部屋までは突き止められてないと思うんですけど……」
壮弥くんの体が、強張った。
「……怖くて」
壮弥くんから離れて、おそるおそる、彼の顔を見上げた。
目が、半眼になっている。
そして、低い声で、告げてきた。
「おうちまでではなく、その傍まで。おれに、送らせてください」
やがて、電車は柏駅に着いた。
いつもの通り、東口に降りる。
いつも通りのロータリー。いつも通りの、下りのエスカレーター。
いつも通りの帰り道。
ただ、今日は一人ではなく、二人だった。
「怪しい気配を感じたら、合図してください」
「どうするんですか?」
「地形とかタイミングによっては、捕まえてみます」
「だ、だめですよ。そんな、危ない。私、そんなつもりで言ったのでは。まだ、なにかされたわけでもなく」
「夜の帰り道に怖い思いをして、充分危害を加えられています。……おれがいると、出てこないかな」
段々と人通りが少なくなっていく。やがて、道を歩くのは、私たち二人だけになった。
柏駅は乗降者数がそれなりに多いけど、少し離れるとどんどん道を行く人の数が減っていく。
「ツミさん、ツミさんは、仮にいるとしてですけど、犯人に心当たりとかあるんですか? 誰かがストーカーになる原因になりそうなこととか」
「原因……」
「たまたま道を歩いていて見初められたとかかもしれませんけど、もし心当たりがあれば、そこから解決できるかも」
「私、あんまり、人と接しないので……特には……」
なぜか、申し訳ないような気持になる。
「なるほど。そうすると、ネットとかで一方的に向こうがツミさんを知っているとか。おれがすぐに思いつくのは、同人誌のファンとかですけど――おれみたいな。ツミさん、人気者ですからね」
「人気ですか? うーん、そこまでの人気者ではないですねえ……ははは……」
そこで、壮弥くんが、軽く目を見開いた。
「ツミさん、知らないんですか? 一次創作の注目作家として、コミハリ関係のネットの掲示板に、けっこう名前出てますよ」
ええっ。
そんなの、初めて聞いた。
「でも、一介のファンがツミさんの最寄り駅なんて知ってるわけはないか……」
「あ」
私は、つい足を止めた
「私、少し前まで、同人誌の奥付に、住所載せてました」
「あ。……そういえば、そうでしたね。おれも見覚えがあります。家近いなって思いましたから」
昔、私が自分で描き始める前に見たことのある同人誌は、多くの場合、巻末に連絡先として住所が載せられていた。
だから私も、初めて本を出した時から、そういうものなんだろうと思って当たり前のように、メールアドレスと並べて自宅の住所を書いていた。
まさかそれを見て訪ねてくる人がいるとは思わなかったし、実際、そんな人とは会ったことがない。でも、心当たりといえば心当たりだ。
「今は私一人暮らしですけど、両親のいる家――奥付に載せた住所のところも、柏なんです。だから最寄り駅がばれるっていうのは、あるかも」
「駅が分かれば、根気さえあればストーキングは可能か……でも確かツミさん、去年復帰してからは、本に住所載せてませんでしたよね」
私はうなずく。
一人暮らしになったから防犯のためと、別に住所を書いておくのは必須ではない――むしろ最近は載せないほうが多い――と聞いたので、いい機会だと思ってメールアドレスだけを載せるようにした。
「これはおれの単なる予測というか、可能性の一つですが。犯人は、当初、以前の同人誌にあった住所――ツミさんの実家の住所を手に入れて、こっそりストーキングしていた。駅よりは、家で直接待ち伏せると思います。イベントでツミさんの顔を知っていても、無数の人が行きかう駅じゃ、ツミさんを見つけられる可能性は意外に低いでしょう」
「……その家に、去年から、私が帰らなくなった……?」
「そうです。だからしばらく鳴りを潜めていたか、あきらめたか、ストーキングは休止していた。それが、なにかの拍子にツミさんの引っ越しを知って、しかもそれが一人暮らしだと分かって、ストーキングを再開した。……それが、今。っていうことなのかも」
私のアパートは、実家よりも駅から離れていて、寂しい通り沿いにある。
今までは家の周りが人通りのあるところだったから、一人くらい後をつけられていても気づかなかった。
それが、今の閑散とした路地だと、怪しい気配がよく分かる。……そういうことなのかな?
そうだとしたら、最初の尾行は、いつから……? 私が、高校生の時から? あんな、今以上に無力で、世間知らずで、マンガばかり描いていた、弱っちい私に?
そう思ったら、今までになく強い悪寒が、背中をぞろりと通り抜けた。
「う」
思わずかがみこんでしまう。
違う、違う。それはただの想像。実際には、ストーカーなんていないかもしれない。
写真週刊誌の記事と同じで、粗雑でなんの裏づけもない記事でも、読んだ人が鵜呑みにして信じてしまえばそれが本当のことにされてしまう。
そんなのはよくない。
「ツミさん」
壮弥くんが、長身をたたんで、肩を貸してくれた。
「大丈夫ですか? すみません、変な話して。もうやめますね」
「いえ、いいんです。……そもそも、私がもう少しよく調べて、奥付に住所を書く必要はないって最初から知っていれば、今疑心暗鬼になることもなく……」
「そんなこと、あなたが反省することじゃないですよ」
一度力が抜けてしまった私を支えるために、壮弥くんが、反射的に私の脇腹に手をやった。
「ひょえっ!?」
「あっ!? す、すみません、おれ、今ちょっとどこか!?」
大丈夫、くすぐったかっただけです、と言いかけた時、後ろのほうでがたんと、道端の看板が揺れた。
それは、私からも、壮弥くんからも見えた。
同時に、看板の傍らにある建物に、人影がさっと隠れたのも。
壮弥くんがうなずいた。私もうなずき返す。
「さあ、先生、もうひと踏ん張りです。そこの角を左に曲がると近道ですよね。今日は、急に泊めていただくことになって、ありがとうございます!」
「は、はい! うれしいなあ、泊まってくれるなんて! もうここを折れたら、私の家はすぐですよ!」
本当は、私の部屋はもっと先で、すぐ先の角を曲がると逆方向に行くことになる。
でも私たちは、ほとんど抱き合った状態で、角を左に曲がった。
手近にあったブロック塀に身を隠す。
後ろからやってきた人影が、私たちを通り過ぎて、そしてターゲットを見失って立ち止まり、きょろきょろとあたりを見回した。
そこへ、壮弥くんが出ていく。
「おい。お前か、先生の元カレは」
元カレ!?
悲鳴を上げそうになるのを耐える私。
一方、人影は、ぱっと振り向いた。
「そ、そんなようなもんだ! そういうお前は誰だ! ツ、ツミさんと、どういう関係だ!」
「今カレだ」
堂々と言い放つ壮弥くんに、私はまた声を上げそうになる。
分かってる、お芝居お芝居。だけど。
こっそり覗くと、壮弥くんの言葉を受けた人影の足が、がくがくと震えていた。……そんなにダメージがあるなんて思わなかったな。
「う、嘘だ。あの人に彼氏なんているわけない。お前、ツミさんをどこへやった?」
どういう意味だ、と言いたくなるけれど。
「彼女は、一足先に帰ってもらった。今からはあんたを送ってやるよ。交番までな」
「く、くそっ」
人影は、くるりと背を向けて走り出した。
壮弥くんがそれを追って駆け出す。
私はどうしたらいいのか分からず、とりあえず後を追って行った。さすがに、このまま帰る気にはなれない。
でも、前を見ると、捕り物はあっという間に終わったようだった。
壮弥くんが、人影の襟首を片手で捕まえている。
「うええ、くそ、話せっ。暴行だぞ、こんなの」
「あんたのやっていることは暴力じゃないのか?」
そう言われて、人影――ようやく街灯の明かりで見えた顔は、私より少し年上の男性のものだった。ちなみに見覚えはない――は、素直に壮弥くんに連れられて行く。
その男性の手元で、街灯の光を反射して、なにかがきらりと光った。
壮弥くんには、さっき身を隠した時に、「ストーキングすることでツミさんに会えると思われるといけないから、出てこないでくださいね」と釘を刺されていた。
それでも、とっさに、私は飛び出してしまった。
「その人、なにか持ってます!」と、壮弥くんの名前を言わないように気をつけながら叫ぶ。
「えっ?」と壮弥くんは男性を見て、わずかに体を離した。
光って見えたものは、ただのリュックの金具だったことが分かった時、男性はさっと身を翻して駆け出した。
「あ、待て!」
追いすがろうとする壮弥くんに、私はしがみついて、押しとどめた。
「いいんです。放っておいて」
「でも、見えました? 刃物とかじゃありませんでしたよ」
「さっき光って見えたのがただの金具でも、ほかになにか物騒なものを持ってるかもしれません。もういいんです、もう充分」
私のせいで壮弥くんがけがでもしたら、立ち直れる自信がない。
「……分かりました。これで、あいつが凝りてくれればそれでよし。そうでない場合は、一段上の対策を取りましょう」
「はい。……壮弥くんて、意外に勇ましいんですね」
「あはは。女装なんてしてる割に、ですか?」
それは、確かにちょっと思った。
「おれ、少し前まで空手やってたんです。体は、人よりは頑丈ですよ」
「そうなんですか。引き締まってるなー、とは思ってました」
「本当はもう少し脂肪つけたほうが、打たれ強くなるんですけど」
「え、今のスタイルとっても素敵じゃないですか。腕の筋の感じとか、とてもいいと思います」
壮弥くんが体をかがめ、私の顔を斜め下から覗き込んでくる。
「……なにを、でしょう」
「おれは、あなたのファンなんですよ」
そう言われてしまうと、断れない。
それに、正直、サインなんてちょっと舞い上がってしまう。
「……私、サインなんてありませんから、本当に名前を書くだけの、『署名』っていう趣になりますよ」
「いい趣じゃないですか」
私はコースターとサインペンを受け取った。
「私の、ツミってカタカナ二文字じゃ、全然さまにならなそうですけど……」
「そんなことはありません。大切なのは、字面じゃありませんよ」
「そんな、参加することに意味があるみたいな。……せめて、少しでも丁寧に描きます。それと……」
コースターの面積はあまり広くないながら、なにしろ名前が二文字しかないうえにデザインもなくただ書くだけなので、余白にキャラクタの顔一つくらいは描き込めそうだった。
そこに、私は『スネグラチカの檻』という自作品に登場したヒロインの顔を描く。
描いている途中にそれを悟った壮弥くんは、上ずった声で、
「え、うそ、うわ……うれしい。ツミ先生、なんていうサービス精神……」
などと言っている。
芸能人がサインするように軽快にさらさらと書くのではなく、線の一本一本をゆっくりと確実に引いていった。
やがて、ヒロインの横顔を描き終える。
「一発描きはあんまり得意じゃないんですけど、一生懸命に描きました。……受け取ってもらえますか?」
「もちろん……もちろんです」
私が両手で持って差し出したコースターを、壮弥くんも両手で受け取ってくれた。
ふと外を見る。
ちょうど夕日が空の群青色に隠れていくところで、今日という日の終わりを告げようとしていた。
■
帰りが同じ方向なので、同じ電車に乗った。
いつもの時間よりも混んでいた。壮弥くんが、ほかの乗客と私の間に立って、壁になってくれる。
壮弥くんは、別の路線でもっと早く帰れる電車があるはずなのに、自然に私と同じ路線を選んでくれた。
さりげなくそのことを訊くと、「昨夜は、夜なのにお送りできませんでしたから」とはにかんで言う。
いい人だな。
私、自分が高校生の時、こんなふうに人のことを思いやれてたかなあ。
柏までは、三十分くらいかかる。
いつもは少し長いなと思う時間が、今日は、ずいぶん短く思えた。
「壮弥くんは、明日はアルバイトなんですか?」
「ええ、そうです。またメイクして、女装ですよ」
それが聞こえたらしい、横にいた男性が、不思議そうな顔をしてこっちを見る。
壮弥くんは、構わずに続けた。
「不思議なもので、続けてると、髪型とか服とかにこだわりが出てくるんですよね。でも、そんなにたくさんの服はそろえられなくて」
「あ、あの服って自前なんですか?」
「用意されてる衣装もあるんですけど、みんな最初はそれ着てても、入店してしばらくすると、満足できなくて自分で服買い出すんです」
「女の子の服が着たくてお店に勤めるんじゃなくて、逆なんですね……」
「人によりますね。おれの場合は接客業に興味あったんですけど、なるべく割がよくて、なるべく不健全じゃなくて、酒を出さない店を選んでいたら、アンドロアンサスにたどり着いたんです。女装は、全然興味なかったんですけど、最近は追及してしまいがちかもですね……」
「じゃあ、コンカフェって、ほかの飲食店よりも時給いいんですか?」
うーん、と壮弥くんが小さくうなる。
「アンドロアンサスの値段は良心的なほうですけど、フードやドリンクの利益率は、普通の喫茶店なんかよりだいぶ高いと思います。ほかにも好みのキャストをつけようとすると少しずつお金かかったりして、長い時間いれば、それなりの値段になりますよ。酒出す店はもっとすごいって聞きますけど、おれはそれは嫌だったんで」
けっこういろいろ教えてくれるので、突っ込んで聞きたくなるけど、どこまで聞いていいのか悪いのか、程度がよく分からない。
もし、私に内情を教えてしまうことで壮弥くんがお店の人から怒られるようなことがあったらと考えて、アンドロアンサスの話はそこまでにした。
「ツミさんは、駅からおうちは近いんですか? すぐ帰れます?」
「あ。ん……それ、なんですけど。家自体は、遠くはないんですけども」
帰り道のことを思い浮かべた。
暗い道は苦手だ。これは、女の人ならたいてい苦手だと思うけど。
でも最近は、あの、不穏な気配のことがあるので、なおさら暗闇が怖い。
だけど、それをここで口にすると、壮弥くんの性格的に……
「なにかあるんですか、ツミさん?」
「……実は最近、自意識過剰の神経過敏の思い過ごしの気にしすぎかもしれないんですけど」
「そこまで前置きされたら、そんなことは言いませんよ。もし、おれが聞いていいことなら」
「それに、壮弥くんになにかをしてほしいとか、そういうことを考えているわけでもなくて」
「はい。承知しました。なにがあるんです?」
「あのですね」
私は、声を潜めて、壮弥くんに耳打ちした。
「……最近、時々、誰かに後をつけられている気がします。家の傍では、一応まくようにしてたので、部屋までは突き止められてないと思うんですけど……」
壮弥くんの体が、強張った。
「……怖くて」
壮弥くんから離れて、おそるおそる、彼の顔を見上げた。
目が、半眼になっている。
そして、低い声で、告げてきた。
「おうちまでではなく、その傍まで。おれに、送らせてください」
やがて、電車は柏駅に着いた。
いつもの通り、東口に降りる。
いつも通りのロータリー。いつも通りの、下りのエスカレーター。
いつも通りの帰り道。
ただ、今日は一人ではなく、二人だった。
「怪しい気配を感じたら、合図してください」
「どうするんですか?」
「地形とかタイミングによっては、捕まえてみます」
「だ、だめですよ。そんな、危ない。私、そんなつもりで言ったのでは。まだ、なにかされたわけでもなく」
「夜の帰り道に怖い思いをして、充分危害を加えられています。……おれがいると、出てこないかな」
段々と人通りが少なくなっていく。やがて、道を歩くのは、私たち二人だけになった。
柏駅は乗降者数がそれなりに多いけど、少し離れるとどんどん道を行く人の数が減っていく。
「ツミさん、ツミさんは、仮にいるとしてですけど、犯人に心当たりとかあるんですか? 誰かがストーカーになる原因になりそうなこととか」
「原因……」
「たまたま道を歩いていて見初められたとかかもしれませんけど、もし心当たりがあれば、そこから解決できるかも」
「私、あんまり、人と接しないので……特には……」
なぜか、申し訳ないような気持になる。
「なるほど。そうすると、ネットとかで一方的に向こうがツミさんを知っているとか。おれがすぐに思いつくのは、同人誌のファンとかですけど――おれみたいな。ツミさん、人気者ですからね」
「人気ですか? うーん、そこまでの人気者ではないですねえ……ははは……」
そこで、壮弥くんが、軽く目を見開いた。
「ツミさん、知らないんですか? 一次創作の注目作家として、コミハリ関係のネットの掲示板に、けっこう名前出てますよ」
ええっ。
そんなの、初めて聞いた。
「でも、一介のファンがツミさんの最寄り駅なんて知ってるわけはないか……」
「あ」
私は、つい足を止めた
「私、少し前まで、同人誌の奥付に、住所載せてました」
「あ。……そういえば、そうでしたね。おれも見覚えがあります。家近いなって思いましたから」
昔、私が自分で描き始める前に見たことのある同人誌は、多くの場合、巻末に連絡先として住所が載せられていた。
だから私も、初めて本を出した時から、そういうものなんだろうと思って当たり前のように、メールアドレスと並べて自宅の住所を書いていた。
まさかそれを見て訪ねてくる人がいるとは思わなかったし、実際、そんな人とは会ったことがない。でも、心当たりといえば心当たりだ。
「今は私一人暮らしですけど、両親のいる家――奥付に載せた住所のところも、柏なんです。だから最寄り駅がばれるっていうのは、あるかも」
「駅が分かれば、根気さえあればストーキングは可能か……でも確かツミさん、去年復帰してからは、本に住所載せてませんでしたよね」
私はうなずく。
一人暮らしになったから防犯のためと、別に住所を書いておくのは必須ではない――むしろ最近は載せないほうが多い――と聞いたので、いい機会だと思ってメールアドレスだけを載せるようにした。
「これはおれの単なる予測というか、可能性の一つですが。犯人は、当初、以前の同人誌にあった住所――ツミさんの実家の住所を手に入れて、こっそりストーキングしていた。駅よりは、家で直接待ち伏せると思います。イベントでツミさんの顔を知っていても、無数の人が行きかう駅じゃ、ツミさんを見つけられる可能性は意外に低いでしょう」
「……その家に、去年から、私が帰らなくなった……?」
「そうです。だからしばらく鳴りを潜めていたか、あきらめたか、ストーキングは休止していた。それが、なにかの拍子にツミさんの引っ越しを知って、しかもそれが一人暮らしだと分かって、ストーキングを再開した。……それが、今。っていうことなのかも」
私のアパートは、実家よりも駅から離れていて、寂しい通り沿いにある。
今までは家の周りが人通りのあるところだったから、一人くらい後をつけられていても気づかなかった。
それが、今の閑散とした路地だと、怪しい気配がよく分かる。……そういうことなのかな?
そうだとしたら、最初の尾行は、いつから……? 私が、高校生の時から? あんな、今以上に無力で、世間知らずで、マンガばかり描いていた、弱っちい私に?
そう思ったら、今までになく強い悪寒が、背中をぞろりと通り抜けた。
「う」
思わずかがみこんでしまう。
違う、違う。それはただの想像。実際には、ストーカーなんていないかもしれない。
写真週刊誌の記事と同じで、粗雑でなんの裏づけもない記事でも、読んだ人が鵜呑みにして信じてしまえばそれが本当のことにされてしまう。
そんなのはよくない。
「ツミさん」
壮弥くんが、長身をたたんで、肩を貸してくれた。
「大丈夫ですか? すみません、変な話して。もうやめますね」
「いえ、いいんです。……そもそも、私がもう少しよく調べて、奥付に住所を書く必要はないって最初から知っていれば、今疑心暗鬼になることもなく……」
「そんなこと、あなたが反省することじゃないですよ」
一度力が抜けてしまった私を支えるために、壮弥くんが、反射的に私の脇腹に手をやった。
「ひょえっ!?」
「あっ!? す、すみません、おれ、今ちょっとどこか!?」
大丈夫、くすぐったかっただけです、と言いかけた時、後ろのほうでがたんと、道端の看板が揺れた。
それは、私からも、壮弥くんからも見えた。
同時に、看板の傍らにある建物に、人影がさっと隠れたのも。
壮弥くんがうなずいた。私もうなずき返す。
「さあ、先生、もうひと踏ん張りです。そこの角を左に曲がると近道ですよね。今日は、急に泊めていただくことになって、ありがとうございます!」
「は、はい! うれしいなあ、泊まってくれるなんて! もうここを折れたら、私の家はすぐですよ!」
本当は、私の部屋はもっと先で、すぐ先の角を曲がると逆方向に行くことになる。
でも私たちは、ほとんど抱き合った状態で、角を左に曲がった。
手近にあったブロック塀に身を隠す。
後ろからやってきた人影が、私たちを通り過ぎて、そしてターゲットを見失って立ち止まり、きょろきょろとあたりを見回した。
そこへ、壮弥くんが出ていく。
「おい。お前か、先生の元カレは」
元カレ!?
悲鳴を上げそうになるのを耐える私。
一方、人影は、ぱっと振り向いた。
「そ、そんなようなもんだ! そういうお前は誰だ! ツ、ツミさんと、どういう関係だ!」
「今カレだ」
堂々と言い放つ壮弥くんに、私はまた声を上げそうになる。
分かってる、お芝居お芝居。だけど。
こっそり覗くと、壮弥くんの言葉を受けた人影の足が、がくがくと震えていた。……そんなにダメージがあるなんて思わなかったな。
「う、嘘だ。あの人に彼氏なんているわけない。お前、ツミさんをどこへやった?」
どういう意味だ、と言いたくなるけれど。
「彼女は、一足先に帰ってもらった。今からはあんたを送ってやるよ。交番までな」
「く、くそっ」
人影は、くるりと背を向けて走り出した。
壮弥くんがそれを追って駆け出す。
私はどうしたらいいのか分からず、とりあえず後を追って行った。さすがに、このまま帰る気にはなれない。
でも、前を見ると、捕り物はあっという間に終わったようだった。
壮弥くんが、人影の襟首を片手で捕まえている。
「うええ、くそ、話せっ。暴行だぞ、こんなの」
「あんたのやっていることは暴力じゃないのか?」
そう言われて、人影――ようやく街灯の明かりで見えた顔は、私より少し年上の男性のものだった。ちなみに見覚えはない――は、素直に壮弥くんに連れられて行く。
その男性の手元で、街灯の光を反射して、なにかがきらりと光った。
壮弥くんには、さっき身を隠した時に、「ストーキングすることでツミさんに会えると思われるといけないから、出てこないでくださいね」と釘を刺されていた。
それでも、とっさに、私は飛び出してしまった。
「その人、なにか持ってます!」と、壮弥くんの名前を言わないように気をつけながら叫ぶ。
「えっ?」と壮弥くんは男性を見て、わずかに体を離した。
光って見えたものは、ただのリュックの金具だったことが分かった時、男性はさっと身を翻して駆け出した。
「あ、待て!」
追いすがろうとする壮弥くんに、私はしがみついて、押しとどめた。
「いいんです。放っておいて」
「でも、見えました? 刃物とかじゃありませんでしたよ」
「さっき光って見えたのがただの金具でも、ほかになにか物騒なものを持ってるかもしれません。もういいんです、もう充分」
私のせいで壮弥くんがけがでもしたら、立ち直れる自信がない。
「……分かりました。これで、あいつが凝りてくれればそれでよし。そうでない場合は、一段上の対策を取りましょう」
「はい。……壮弥くんて、意外に勇ましいんですね」
「あはは。女装なんてしてる割に、ですか?」
それは、確かにちょっと思った。
「おれ、少し前まで空手やってたんです。体は、人よりは頑丈ですよ」
「そうなんですか。引き締まってるなー、とは思ってました」
「本当はもう少し脂肪つけたほうが、打たれ強くなるんですけど」
「え、今のスタイルとっても素敵じゃないですか。腕の筋の感じとか、とてもいいと思います」
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