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しおりを挟む「ええ……高校の時、男子となんてちゃんとしゃべったことないよ……女子ともだけど……」
「マンガ友達で同年代とかいなかったの?」
「ほとんど年上の人ばっかりで、それにイベントでは、学生とか社会人がどうのっていうよりオタクとしての性質を共有して楽しむものだから……。というわけで、」
私は、顔の前で両手を合わせて、あきれ顔のあんなちゃんを見つめた。
「あんなちゃん、お願いがあって――」
「断る。あたしが一緒に行ったってしょうがないでしょ」
「――なんで分かったの!?」
「分かるわい。まあいいじゃん、三織も断らなかったってことは、気が合わなそうってわけじゃないんでしょ? 向こうは好感持ってくれてるみたいなんだし、嫌な思いすることもないんじゃないの。普通に買い物してくれば?」
「その普通ができれば、苦労しないの……」
「でも、まあ、ふーん。いつもモノトーンにプラスアルファくらいの服の三織が、今日はオレンジのブラウスにイエローのガウチョパンツなんて、春みたいな格好してるからどうしたのかと思ったけど、そういうことか」
「春みたいって、春なんですが……って、そういうことってなに!? 違うよ!? ただ、ちょっとでも明るい色がいいかなって」
「オレンジの発色抑え目なのと、パンツにシフォンみたいなプリーツ入ってるのいいじゃん。今日、いつもよりかわいいよ」
あんなちゃんの目が、にまーっと笑う。
「うう。私の、なけなしの努力をからかえばいい」
「からかってないって。おっと、あたし食べ物とって来ないと」
あんなちゃんは、私のカレーセットを見てそう言ってから、席を立った。
正直、このブラウスは、カレーが跳ねても目だなくていいな、くらいに思っていたので、見た目の明るさのために着ることになるなんて思わなかった。
■
大学の校門から少し離れたところにあるコンビニで、私たちは待ち合わせていた。私のほうが壮弥くんより先に到着したので、飲み物などを物色して時間をつぶす。
もちろんあんなちゃんはついてきておらず、私一人だった。
とりあえず、男子高校生が喜んでくれそうな話題は、ここに来るまでに検索してストックしておいた。私が高校生の時は、クラスの男子はゲームとマンガ、流行りの動画などの話ばかりしていたから、最近流行っているらしいものをにわか知識ながらつかんでおいた……つもりだった。
ほんの一分ほどで、自動ドアが開いた。そちらを覗くように顔を出すと、果たして、そこには、ちょうど店内に入ろうとする壮弥くんがいた――んだけど。
「あれっ? 壮弥くん、私服?」
「こんにちは、先生――じゃない、ツミさん」
てっきり高校の制服でくると思った壮弥くんは、ハーフジップのついた少し大きめのサイズの青いポロシャツに、黒に近いグレーのパンツといういで立ちだった。バッグは、学校してのものらしいシンプルなデザインのものだった。
袖が長めのポロシャツは、急に暑くなったここ数日の日差しの下で、いかにも涼しげで爽やかだった。着ている壮弥くんが、ほどよく細身だからかもしれないけれど、よく風を通しそうに見える。
「壮弥くんの高校って、私服なんですか? でもこの間は、確か制服……」
「制服ですよ。なに着てくるか、少し迷ったんですけど。私服だとバッグと合わないかなとかも思いましたし」
「え、じゃあ、今日はその姿で登校を?」
「いえ、放課後に学校のトイレで着替えてきました。制服はバッグの中です。下のシャツはいつも黒なんで、それは流用です。おれの気にしすぎかもですけど、制服姿だと、ツミ先生が一緒にいづらいかもと思って」
確かに、男の子が制服姿だと、お店や食事に行くにもちょっと場違い感が出て悩ましいという話は、大学の女子から聞いたことがある。私はあまりぴんとこなかったけど、彼女は高校生とつき合っていると言っていたので、それだと気になるものなのかもな、と思ったのを覚えている。
……いや、私は壮弥くんとつき合っているわけではないけど。ないけどもね。
「そんな、私と会うのに、そんなに気を遣わなくていいんですよ」
「おれが気になるんです。さ、行きましょうか。今日はおれバイトはオフなので、心配無用です」
壮弥くんに連れられて、私たちは隣駅に移った。
途中、壮弥くんのほうからいろいろ話題を振ってくれて、沈黙で気まずくなるようなことがなく、あっという間に電車は着いてしまった。
改札を出てすぐに大通りから逸れて、それでも割合広い道に設けられた服屋さんを、壮弥くんが「あれです」と手で示す。
それにしても、こうしていると、壮弥くんのしぐさは堂々としていておおらかで、いかにも気の優しい男子という感じがする。とても、あんなにきれいな女の子に変身してしまうなんて思えない。
お店に近づいてみると、中は、私と同年代の女の子で賑わっていた。
「お、おおー。女子がたくさんですよ、壮弥くん」
「それは、女物買いにきたんですから。入りましょう」
お店のドアを開けると、いい匂いがした。まるで、夏コミの女性向け創作のスペースのように。
壮弥くんにそう言うと、
「え、そうなんですか? おれも、一度はコミケに行ってみたいな。人混みは苦手なんですけど、賑やかなほうがいいですもんね」
よかったら、私と一緒に行きますか。
ついそう言いそうになって、慌てて口をつぐむ。
壮弥くんは、私のファンだと言ってくれているのだ。その私に誘われたら、嫌でも断りづらいだろう。いけないいけない、私がそういうところは配慮しないと。
「あ、ツミさん、これなんかどうですか?」
そう言って、壮弥くんが、柔らかそうな生地のライトブルーのトップスを見せてくれた。
「ツミさんは暖色系も似合いますけど、明るい青もいいかなって思って。……あ、そうだ、言うのが遅くなりました、すみません」
壮弥くんが、気持ち小声で、私の前に立って言った。
「ツミさん、今日の服とても似合っています。明るい色、よく似合うんですね」
話すのに気を取られて、油断していた。
自分の服装は自分では常に見えないし、普段特にこだわるほうではないので、いつもとは少し違う服装をしていることを、すっかり忘れていた。
自分の体を一瞬見下ろしてから、急激に顔が熱くなる。
「あ、ど、どうも!? もしかして、気を遣って言ってくれていますか!?」
「気? いえ、全然。素直な感想です。さっき、ツミさんを見た時から、頭の中ではずっと何度も言ってたんですけど……なんだか、口に出すと浮ついた感じになりそうで、なんて言おうか迷ってるうちにここまできてしまいました」
「あ、頭の中で、何度も?」
「ええ。でも、そのほうが変ですよね。すぐに言えばよかったな」
「い、いえいえそんな! こ、光栄です……?」
熱くなる一方の頬を手で隠して、それから壮弥くんが持ってくれたままだったトップスのハンガーを手にして、ああいいなーこれいいですねーなどと唱えてみる。
「あはは、もっといろいろ見てみましょう、ツミさん」
「……ええ、そうですね」
その私の言葉の調子が少しおかしく聞こえたのか、壮弥くんが首をかしげた。
「ツミさん? どうかしましたか?」
「……いえ、壮弥くんが、私を、ツミさんと呼んでくれる度にですね、」
「はい」
「同人用の名前を考える時に、あんまり変変わった名前にしなくてよかったなという安堵に包まれてしまうのです」
「……というと?」
「私がまさにそうなんですけど、ファンタジー小説やマンガのファンの場合、キャラの名前やジャンルの嗜好性から、『エリザベート』とか『ミネルヴァ』みたいな外国人名や、『漆黒の者』『堕天の屈辱』といった風変りな名前を名乗りたくなることも珍しくないんです」
「……それは……分かる気がしますね……おれもゲーマーなので……」
壮弥くんは、右手の甲を顎先に当ててそうつぶやいた。
「オタク仲間といる時はいいんですけどね。私だって当時はまってたゲームでヴァルヴァロッサっていうキャラが大好きだったので、それをペンネームにしようか一瞬悩みましたから。そうでなくても明らかにカタカナの名前の場合、通常の街中で呼ばれたら、私には耐えられません……」と言って、かぶりを振りながらうつむく私。
「そんな……ヴァルヴァロッサさん……」と、小声で壮弥くん。
私は、ぱっと顔を上げた。
「あっ、いじった!? 今、私をいじりましたか?」
「す、すみませんっ! 面白いかなと思って言っちゃいました!」
「そのくらいいいですけどっ。そういうわけで、街中で呼んでもそんなにおかしくない名前でよかったなあ、と思っているんです」
「そうでしたか……でも、おれもそれはうれしいです」
「なにがですか?」
「三木元さんのお名前を、遠慮なくどこでも呼べますからね。三織さん、て、今のおれでは少しなれなれしいでしょうから」
そう言って、壮弥くんは無邪気に笑う。
そして、お店の中の棚を、二人で順に見ていった。
とりあえず、判明した事実が一つある。
私の場合、ハンドルネームよりも、本名の名字を呼ばれた時のほうが、なんというか、こう。
とてもやばい。
まして、下の名前は、なおさらだった。
■
夕暮れがやってきていた。
買い物を済ませた私たちが入ったカフェの、オープンテラスの席は、強い日差しを受け疲れたように、ゆるやかな橙色をまとっている。
それを、私と壮弥くんは、大きなガラスの内側から見ていた。
私の頼んだカフェラテと、壮弥くんの頼んだカプチーノは、どちらもカップの半分くらいまで減っていた。
「私、久しぶりに、服買いました」
「よかったです、お役に立てて」
あれから別のお店をもう一軒見てみて、それからやっぱり最初のお店に戻って、壮弥くんが勧めてくれたトップスと、自分で気に入ったスカートも買った。
そんなに長い時間をかけたつもりはなかったんだけど、あっという間に夜が近づいてきているように感じる。
こうしてカフェに入ったのも、お茶を飲むのにも中途半端な時間かもと思いつつ、まだこのお出かけを続けていたいと思ったせいだと思う。
「そういえば、ツミさんは、五月の連休のイベントって出るんですか? もうあと二週間くらいですけど」
「あ、はい。今回はコピー本でページ数が少ないですし、部数もそんなに刷らないので、まだ終わってませんけど間に合う予定です」
コピー本というのは読んで字のごとく、コピー機による印刷で作る本のことだ。
手軽で、コンビニがあれば作成することができる。ただ、紙を折ったりステープラで止めるなどの独特の手作業があるので、それなりに手間はかかるけれど。
一方、オフセット本というのもあって、こちらは印刷所に原稿を出して本にしてもらうというものだ。
これまでに何冊も同人誌を作ってきたけど、どちらもいいところがあって、私は両方とも好んでいる。
「でも私、昨日は本当に驚きました。まさか、イベント会場じゃない場所で、それも地元で、私の本を知ってる人に会うなんて」
しかも、それが壮弥くんだとは。
「驚いたのはおれのほうです。ほとんど唯一、サークル買いしてる同人作家さんですから。でも、一次創作のサークルの中では、『罪と蜜』はかなり人気があるって聞いてますよ?」
「それでも、一次で大人気になるサークルさんて、稀ですからね。私なんかはまだまだとてもとても」
一時創作というのは、いわゆる、オリジナル作品のことだった。マンガであれば、ほかの作品のパロディなどではなくて、自分で一から作り上げた作品のことを言う。有名作品のオマージュや、既存作品にとても似た絵柄や展開があると、オリジナルなのかどうかとはよく議論になるけれど。
これに対して、二次創作というのは、ほかの人が描いた作品のパロディを指す。有名な少年漫画や往年の名作の二次創作はとても多く、コミハリはオリジナルオンリーの即売会だけど、二次創作物の出展可能なイベントは、それより大規模なものも多い。
「確かに、一次創作は二次に比べて部数が伸びにくいっていう話、おれも聞きますね」
「それでも、作品次第、サークルさん次第ですけどね。部数は気にしないサークルさんも多いですから。私の部数が増えたきっかけも、よその大手サークルさんのお手伝いをした時に、私の本も一緒においていただいてからですからね。数字は、たまたまという感じでして」
やっぱり、私としては、同人は好きでやるのが一番だと思う。数字で比べると、どうしても荒む部分があるのだ。
部数が伸びて人気が出るのはうれしいけれど、自分がやりたいことをやり続けるのが同人活動の醍醐味だと思う。
「おれは、ツミさんのマンガは、なんていうか、ストーリー性があるところが好きです。登場人物がどんなふうに暮らして、どんな経験をして、どうエンディングを迎えるのか。それがわくわくしますし」
「わあ、うれしいです。私、ストーリーっていうのは、時間の流れのことだと思っていて。マンガでは、登場人物全員の――ううん、主人公のだって――人生を描き切ることはできないですけど。彼らが作中の経験をした結果、ひとまずどうなったのかってことは、絶対に描きたいって思っているので」
自分の話したいことになると、つい早口で饒舌になってしまうので、しゃべりすぎたなと思う度に自制する。
うーん、こういうところ、いかにもオタクという感じだな、私……
壮弥くんがお手洗いに立った。
そろそろさすがに潮時だな、と思って、冷えかけたカフェラテのカップを両手で持つ。この液体の温度がもう高まることがないのと同じように、今日ここで別れてしまえば、もう壮弥くんとのこんなに楽しい時間は訪れないような気がした。
お店に行けばいいんだけど、それだとどうしても私が「お客」になる。ただでさえ、壮弥くんは敬意を(私なんかに)持ってくれているのに。もっと、遠慮なく、対等にお話がしたい。そう思うのは、わがままなことだろうか。
壮弥くんが戻ってきた。
「そろそろ行きましょうか」と、名残惜しさを隠して、私が言う。
その時、ふと気づいた。
テーブルの上に、伝票がない。
あれ、落としたかな、と床の上を見渡した。でも見当たらない。
かがんで探し続ける私に、それまできょとんとしていた壮弥くんが、遠慮がちに言ってきた。
「あの、もしかして支払いでしたら、今済ませてきましたよ」
「えっ!? な、なんでですか!?」
「なんでと言われると……もう追加はなさそうで、立ったついでだったから……?」
なんと……
今日のお礼をなににしようか悩んだ挙句、ここの代金にしようと思っていたのに……!
「ウウッ」
「ど、どうしましたツミさん! 急に顔を手で覆って!」
「差を……差を感じました……陽と陰の差を……!」
「……なんとなく言わんとすることは分かったような気がしますけど……。あの、ツミさん。もしかして、ここ払う気でいたんじゃないでしょうね?」
「え、いましたよ。それくらいしか、私が壮弥くんにできることなんてないですもん」
「いや、今日のことは、おれから誘ったじゃないですか」
「男子が女子の分を払う、その文化自体には私はどうこう言うつもりはないですけど、私自身がそれに乗っかってしまうような思い上がったことはすまいと思っていました……少なくとも、壮弥くんには……!」
「文化だからそうしたわけじゃないですよ。これは、おれがそうしたかったんです。ここはおれに花を持たせると思って、払わせてください」
私は、顔を覆っていた手を下ろした。
さすがに、これ以上こだわりすぎるのも、よくないなということは分かる。
「うう……ごちそうさまです、ありがとうございます」
「どういたしまして。本当は、服も、できれば一枚くらいプレゼントしたかったんですけど。まだ初めて会ってから一週間くらいですし、そんなおれから贈られたものって着づらいかな、なんて思って」
「壮弥くんは、私などに、配慮しすぎですよ……」
「……ツミさんは、自己評価が低すぎじゃないですか……? おれは、ツミさんも、今日楽しんでいただけてればそれだけで充分幸せです」
「楽しいですよ、楽しいに決まってるじゃないですか」
「わ、本当ですか」
本当でないわけがない。
でも、ほころぶ壮弥くんの顔を見て、そうか、と思った。
これまで、趣味についてオタク仲間と話すくらいしかまともなコミュニケーションをとってこなかったので、こうした感情の交換機能が私は未発達だったのだ。
人間が人間になにかを伝えたい場合、きっぱりはっきり伝えないと通じないのだ。
当り前じゃないか、と思う。でも、その当たり前が、今までの私には機会がなかった。
そして、今、まさにその機会なのだ。
「壮弥くん、私は、今日本当に壮弥くんとお出かけしてよかったと思っています。確かに、私は男の子と出かけるなんてことには慣れていないので、ただでさえ浮足立っていただろうと言われれば否定できませんけども――」
「いや、なにが確かになのか分かりませんし、そんなこと思ってもないですが」
「――できませんけども! 少なくとも、私は、壮弥くん以外の誰と買い物をしても、今日ほどには楽しくないはずです。私こそ、できれば、なにか壮弥くんにプレゼントしたいんですけども……」
これから、なにかのお店に彼を連れて行くのは気が引けた。
たぶん壮弥くんは親元だろうし、アルバイトのない日の夜に、あまり帰りを遅らせるわけにもいかない。
「あれ、そういえば、壮弥くんて最寄駅はどこなんですか?」
「おれは流山です」
柏の隣町だ。ここからそう遠くはないので、少しほっとする。
「ツミさん、本当ですか」
「え、なにがですか?」
「おれに、なにかくださるんですか?」
そうだ、そんなことを口走っていた。
「はい、私があげられるものなら」
「やった。あります、欲しいもの。……ええと、でもなにに……その辺の紙ってわけにはいかないし……あ、そうだ」
壮弥くんは、近くにいたお店のスタッフさんに話しかけて、なにかをもらってきた。
「ここのお店のコースターです。ここに、サインをもらえませんか」
「さいん? ……なぜでしょう? お支払いは終わったのに? ていうかコースターでいいんですか?」
壮弥くんは苦笑する。
「ツミさん、今、なにか支払い関係のサインのことだと思っているでしょう。違いますよ。有名人がファンにするやつです。これ、サインペン」
サイン。
ようやくその意味が分かって、肩がぴょんと上がった。
「な、ないですよサインなんて! あの、続け字でさらさらーってやるやつでしょう? あるわけないじゃないですか、私に!」
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