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第四章 12
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「子供の頃からなんです。胸の中にぽっかり穴が空いてるみたいで。その穴のせいで、怒る気持ちも、悔しい気持ちも、全部吸い込まれていくみたい」
「体も心もひとつきりなんだ、これを機に安全な運用を心がけてくれ……と言いたいが、それで治るものでもないんだな。いや、僕が言えた義理じゃないんだが」
「これじゃよくないんだろうなって、昔から思ってました。だから、人との関わり合いが苦手だったんです。色んな感情が生まれるのは確かなのに、それが私には感じきれないままどこかへ行ってしまう。それが、凄く苦痛でした。そのせいできっと、周りも私にはよそよそしかったですし。でも」
「でもが多いな」
「本当ですね」
二人は少し笑う。
「クツナさんのお陰で、それが、ちょっとなんですけど、治ったんです。尾幌先輩も、きっと昔の私のままだったら、仲良くなれてないと思います。ありがとうございます、クツナさん」
「どうも。でも、君が自分で手に入れたものでもあるんだぜ、全部」
暗闇の中で、視線が合う。シイカには、二人を包む闇が心地よかった。これが昼間なら、きっとこんな風には語り合えない。
「さて、後は君の泊まる場所だ。ファミレスで夜明かしでもするか……いや、未成年だとそれもなあ。ネットカフェもダメだろうし……」
「あ、あのう」
「ん? どうした、顔赤いぞ」
「実はですね、前々から話は出ていたんですけど」
もじもじとするシイカに、クツナは怪訝な顔をする。
「いずれ、近いうちに、尾幌先輩のうちに、泊まらないかなどという話が、ですね、あったりなかったり。こういう事情なら、今日がチャンスだと、思ったり、するわけです」
「つまり、何となく気恥ずかしくて思い切れないでいたもんだから、この機会にってことか。そんな、言い訳作ってまで挑むもんでもない気がするが」
「でも、め、迷惑ですよね。こんな夜遅くに、突然」
「何でそんなにあがってるんだ……。聞いてみればいいじゃないか。夏休みなんだし、尾幌って夜型っぽいし――根拠はないが――、案外あっさりいくかもしれないだろう」
「そ、そうですね。では、電話してみます」
シイカはスマートフォンを取り出した。しかしそのまま、しばし手を止めている。
「どうした」
「……夜って、事前の連絡なしに電話とかしても失礼じゃないでしょうか」
「……ああ。大丈夫じゃねーかな。たぶんな」とクツナが半眼で返す。
いざ電話がつながると、話はとんとん拍子に進み――クツナの耳にまで、電話の向こう側でエツが喜ぶ声が聞こえてきた――、シイカはエツの家に泊まることになった。
駅までの夜道を二人で歩く。
空には雲が出ていて、月が見えない。
「クツナさん。クツゲンさん、お母さんとクツナさんのことを、全然違う風に解釈してました」
「そうだな。僕もその誤解を解こうとは思わなかった。僕自身がそう仕向けたことでもある。キリだって、周りからはただの自殺未遂みたいな扱いを受けた」
「じゃあ、クツナさんは、アルトさんやキリさんや、お母さんのこと……ずっと、一人きりで本当のことを抱えて……」
「そう言うと、何だか大層だけどな。アルトがいるから――というか実行者だけどな――厳密には一人ではないんだが、やっぱりきつかった。誰にも言えない――繭使いの一族である、父を含めた親族にも言えないってのはな。だから、ありがとうよ」
いきなり礼を言われて、シイカは「あ、いえ」と相槌を打ってから立ち止まった。
「え? 何がですか?」
「今はもう一人、分かってくれている奴がいるからな。久しぶりに、落ち着いた気分になった。真相を知らない人間が、誤解や勝手な思い込みで作っていく『事実』の中で生きていくのがどんなに不愉快か、ずっと思い知らされながら生きていたんだ。理解者が一人いるだけで、思ったより、ずっと楽になるもんだな」
「い、いえいえいえ。私は、たまたまと言いますか、アルトさんにそうされただけで、私なんかは」
「鳴島がいてくれてて、よかったよ。我が家は職員に恵まれたな」
「し、職員てほどのものでは。からかってますか。ちょっと笑って言ってますよね」
「全然」
そこでクツナは――それまでは笑っていたが――、夜目にもシイカにはっきりと分かるような真顔になった。
「鳴島、怖い思いをさせて悪かった。でももう少し、うちで働いてくれないか」
「そ、それはもう、私でよければ」
「よしよし。今度、特別賞与出してやるからな」
「何だか凄い響きですね……特別賞与」
クツナはシイカを、エツの家の前まで送った。二階建ての一軒家から出てきたエツは、はしゃいだ様子で、シイカたちを出迎えた。その時玄関先で、念のためにクツナは、適当な口実をつけて、エツにもシイカと同様の防御とセンサーを施した。
「防犯ブザーみたいなものですか? なるほど、シイカちゃんも一人で夜道を歩いたりすることもありますし、気をつけるに越したことないですものね。私のことも気遣ってくださって、ありがとうございます」
まさか、実父や友人の両親を手にかけた危険人物が襲ってくるかもしれないとは、ぺこりと頭を下げるエツには言えない。
「しかし、この間までからは考えられないんじゃないのか。鳴島が、お友達の家にお泊りっていうのは」
クツナがそう言うと――これはからかうつもりもあって言ったのだが――、シイカは赤面しながらキリリと真剣な顔になる。
「私は今、……大人の階段を一歩上ったに違いありませんね」
うんうんとうなずいてやりながら、クツナは門の外から、ひらひらとシイカに手を振った。
人は変わっていく。特に十代の人間など、思いもよらない速度で、思いがけない変化をすることがある。
――今のお前は、何を願っているんだ。あの頃と変わらないままなのか。
二人の少女をドアの向こうへ見送って、クツナは、雲にふさがれた黒い空を見上げた。
・
翌日、昼前に、シイカは自分のアパートに帰った。
弟は出かけていたが、母親は居間でテレビを見ていた。
「ただいま……」
少し気まずそうに、シイカが声をかける。
「お帰り」
「ごめんなさい、いきなり外で泊まるなんて言って」
「いいのよ、それは。……でも、あのさ、昨日泊まった友達って、同じ学校の子?」
「え、ううん、違う学校の、学校は違うけど先輩っていうか、そういう」
「そう。じゃあいいの。学校も学年も違うなんて、変わった友達ができたのね」
最近は多少以前よりも家族として打ち解けてきただけに、何か気がかりがあると、会話の不自然さはむしろ際立つようになった。
「お母さん、何か、気になってるの?」
「そう……そうね。はっきり聞いたほうがいいね」
母親が、テレビの音を消し、シイカの顔を正面から見た。
「あなた、お父さんと会ってたわけじゃないのね?」
「全然。お父さんのことなんて、あんまり覚えてないし」
正直にそう答えながら、シイカは内心驚いていた。父親が出て行ったのは確かに一家にとって一大事だったろうが、それはシイカがまだ小学生だった頃の話だ。
今さらのこのこと目の前に現れられても、少なくともすんなりとは父親として慕うことができないだろう。
それが、母親にとっては現在進行形で続く懸念だというのか。
シイカは自分の部屋に入り、部屋着に着替えた。
エツの家に泊まったものの、ついついおしゃべりが過ぎて、明け方にうとうとしただけだったので寝不足もいいところだ。
今日はこれから寝入り、夕方に起きるという一日になりそうだな……と思った時、シイカのスマートフォンが震えた。普段ほとんど着信がないので、常にマナーモードにしてある。
液晶画面には誰かの名前が表示されている。この電話にかけてくる人間というのはかなり限られており、電話帳に登録している名前というのは更に限られているため、最初にシイカの頭に浮かんだ名前は、御格子クツナだった。何か、仕事の連絡か、それ以外の用事だろうか。
そこにある名前を見て、シイカは息を止めた。細かく振動してコールを伝えてくるスマートフォンを右手に持ったまま、部屋の中で立ち尽くす。
まさか。
真乃アルト。確かにそう読めた。
細い息をかろうじて吐きだしながら、シイカはようやく通話をオンにした。
「ああ、出てくれた。おはよう。と言っても、もうすぐお昼か」
「どうして……私、あなたの名前を登録なんて」
「いや、君がしたよ、間違いなく。僕の目の前で」
「……繭使いで、やらせたんですか。そんなことまで……」
「さすがに、これからはそう簡単ではないだろうけどね。まだ大して君で遊んだわけじゃないのに、残念だ」
電話の向こうからは、鳥の鳴き声が聞こえる。屋外のようだ。
シイカは反射的に窓に取り付いて、昨日から閉じたままだったカーテンを指先で少しだけ開けた。とりあえず、アパートの窓から見下ろせるところにはアルトの姿はない。
「心配しなくても、今君の近くにはいないよ。どう、覚えていることもあれば忘れていることもあるっていうのは、怖いだろう。今さぞかし、怯えた顔をしているんだろうね」
シイカの背中に、悪寒が走った。見てもいないのに見てきたように言われる方が、よほど気味が悪い。
「何の、用ですか。私になんて、あなたが」
「そうだ。君なんて取るに足らない。ただ、少し話をしないか」
「と、取るに足らないなら、それこそ話なんて」
「クツナが君に何を隠しているのか、教えてあげる。君にとっても大事なことだからね」
ぐっとシイカの息が詰まった。
「何を言ってるんですか。そんなことが本当にあるなら、クツナさんから聞きます」
「クツナは君にこのことは言えない。決して。クツナとキリと僕の記憶、見ただろう? なのに君は、他人事のようにしかそれを聞いていない。クツナに話す気があるなら、昨夜君に伝えたはずだ。」
アルトの声は低く穏やかだったが、無碍に突っぱねれば、取り返しのつかないことが起きそうな不気味さがあった。シイカの手に汗がにじむ。
「人とつながることが、怖くはないかい」
「何……を」
「空虚感があるだろう。胸に穴が空いたような。繭使いで記憶を大きく消されると、そうなる。僕は君の、その欠落した記憶を持っている」
シイカは絶句した。答を待たずに、アルトが続ける。
「キリの住んでいた団地について、場所も記憶として得ただろう。一休みしたらおいで、そこで待つよ。クツナには内緒でね。彼を呼んだら、君は大切な記憶を取り戻すチャンスを永久に失う」
電話は切れた。
しばらく呆然とした後、シイカは再び部屋着から着替えた。
動きやすいように、飾り気のない黒いトップスに、白のリネンパンツを穿く。財布とスマートフォンだけは持って、スニーカーに足を突っ込み、家を出た。キリの暮らしていた場所は、確かに分かる。電車と徒歩で、一時間もかからずに行ける。
シイカは自分の繭に目を凝らした。クツナが施してくれた防御が、網目のようになって繭全体を覆っているのが分かる。
しかし、繭の全体像、特にその深は、己の目で見通すことは難しい。
――私の知らない、私の記憶がある?
シイカは、さっき降りてきたばかりの駅まで、息を切らせて走った。
「体も心もひとつきりなんだ、これを機に安全な運用を心がけてくれ……と言いたいが、それで治るものでもないんだな。いや、僕が言えた義理じゃないんだが」
「これじゃよくないんだろうなって、昔から思ってました。だから、人との関わり合いが苦手だったんです。色んな感情が生まれるのは確かなのに、それが私には感じきれないままどこかへ行ってしまう。それが、凄く苦痛でした。そのせいできっと、周りも私にはよそよそしかったですし。でも」
「でもが多いな」
「本当ですね」
二人は少し笑う。
「クツナさんのお陰で、それが、ちょっとなんですけど、治ったんです。尾幌先輩も、きっと昔の私のままだったら、仲良くなれてないと思います。ありがとうございます、クツナさん」
「どうも。でも、君が自分で手に入れたものでもあるんだぜ、全部」
暗闇の中で、視線が合う。シイカには、二人を包む闇が心地よかった。これが昼間なら、きっとこんな風には語り合えない。
「さて、後は君の泊まる場所だ。ファミレスで夜明かしでもするか……いや、未成年だとそれもなあ。ネットカフェもダメだろうし……」
「あ、あのう」
「ん? どうした、顔赤いぞ」
「実はですね、前々から話は出ていたんですけど」
もじもじとするシイカに、クツナは怪訝な顔をする。
「いずれ、近いうちに、尾幌先輩のうちに、泊まらないかなどという話が、ですね、あったりなかったり。こういう事情なら、今日がチャンスだと、思ったり、するわけです」
「つまり、何となく気恥ずかしくて思い切れないでいたもんだから、この機会にってことか。そんな、言い訳作ってまで挑むもんでもない気がするが」
「でも、め、迷惑ですよね。こんな夜遅くに、突然」
「何でそんなにあがってるんだ……。聞いてみればいいじゃないか。夏休みなんだし、尾幌って夜型っぽいし――根拠はないが――、案外あっさりいくかもしれないだろう」
「そ、そうですね。では、電話してみます」
シイカはスマートフォンを取り出した。しかしそのまま、しばし手を止めている。
「どうした」
「……夜って、事前の連絡なしに電話とかしても失礼じゃないでしょうか」
「……ああ。大丈夫じゃねーかな。たぶんな」とクツナが半眼で返す。
いざ電話がつながると、話はとんとん拍子に進み――クツナの耳にまで、電話の向こう側でエツが喜ぶ声が聞こえてきた――、シイカはエツの家に泊まることになった。
駅までの夜道を二人で歩く。
空には雲が出ていて、月が見えない。
「クツナさん。クツゲンさん、お母さんとクツナさんのことを、全然違う風に解釈してました」
「そうだな。僕もその誤解を解こうとは思わなかった。僕自身がそう仕向けたことでもある。キリだって、周りからはただの自殺未遂みたいな扱いを受けた」
「じゃあ、クツナさんは、アルトさんやキリさんや、お母さんのこと……ずっと、一人きりで本当のことを抱えて……」
「そう言うと、何だか大層だけどな。アルトがいるから――というか実行者だけどな――厳密には一人ではないんだが、やっぱりきつかった。誰にも言えない――繭使いの一族である、父を含めた親族にも言えないってのはな。だから、ありがとうよ」
いきなり礼を言われて、シイカは「あ、いえ」と相槌を打ってから立ち止まった。
「え? 何がですか?」
「今はもう一人、分かってくれている奴がいるからな。久しぶりに、落ち着いた気分になった。真相を知らない人間が、誤解や勝手な思い込みで作っていく『事実』の中で生きていくのがどんなに不愉快か、ずっと思い知らされながら生きていたんだ。理解者が一人いるだけで、思ったより、ずっと楽になるもんだな」
「い、いえいえいえ。私は、たまたまと言いますか、アルトさんにそうされただけで、私なんかは」
「鳴島がいてくれてて、よかったよ。我が家は職員に恵まれたな」
「し、職員てほどのものでは。からかってますか。ちょっと笑って言ってますよね」
「全然」
そこでクツナは――それまでは笑っていたが――、夜目にもシイカにはっきりと分かるような真顔になった。
「鳴島、怖い思いをさせて悪かった。でももう少し、うちで働いてくれないか」
「そ、それはもう、私でよければ」
「よしよし。今度、特別賞与出してやるからな」
「何だか凄い響きですね……特別賞与」
クツナはシイカを、エツの家の前まで送った。二階建ての一軒家から出てきたエツは、はしゃいだ様子で、シイカたちを出迎えた。その時玄関先で、念のためにクツナは、適当な口実をつけて、エツにもシイカと同様の防御とセンサーを施した。
「防犯ブザーみたいなものですか? なるほど、シイカちゃんも一人で夜道を歩いたりすることもありますし、気をつけるに越したことないですものね。私のことも気遣ってくださって、ありがとうございます」
まさか、実父や友人の両親を手にかけた危険人物が襲ってくるかもしれないとは、ぺこりと頭を下げるエツには言えない。
「しかし、この間までからは考えられないんじゃないのか。鳴島が、お友達の家にお泊りっていうのは」
クツナがそう言うと――これはからかうつもりもあって言ったのだが――、シイカは赤面しながらキリリと真剣な顔になる。
「私は今、……大人の階段を一歩上ったに違いありませんね」
うんうんとうなずいてやりながら、クツナは門の外から、ひらひらとシイカに手を振った。
人は変わっていく。特に十代の人間など、思いもよらない速度で、思いがけない変化をすることがある。
――今のお前は、何を願っているんだ。あの頃と変わらないままなのか。
二人の少女をドアの向こうへ見送って、クツナは、雲にふさがれた黒い空を見上げた。
・
翌日、昼前に、シイカは自分のアパートに帰った。
弟は出かけていたが、母親は居間でテレビを見ていた。
「ただいま……」
少し気まずそうに、シイカが声をかける。
「お帰り」
「ごめんなさい、いきなり外で泊まるなんて言って」
「いいのよ、それは。……でも、あのさ、昨日泊まった友達って、同じ学校の子?」
「え、ううん、違う学校の、学校は違うけど先輩っていうか、そういう」
「そう。じゃあいいの。学校も学年も違うなんて、変わった友達ができたのね」
最近は多少以前よりも家族として打ち解けてきただけに、何か気がかりがあると、会話の不自然さはむしろ際立つようになった。
「お母さん、何か、気になってるの?」
「そう……そうね。はっきり聞いたほうがいいね」
母親が、テレビの音を消し、シイカの顔を正面から見た。
「あなた、お父さんと会ってたわけじゃないのね?」
「全然。お父さんのことなんて、あんまり覚えてないし」
正直にそう答えながら、シイカは内心驚いていた。父親が出て行ったのは確かに一家にとって一大事だったろうが、それはシイカがまだ小学生だった頃の話だ。
今さらのこのこと目の前に現れられても、少なくともすんなりとは父親として慕うことができないだろう。
それが、母親にとっては現在進行形で続く懸念だというのか。
シイカは自分の部屋に入り、部屋着に着替えた。
エツの家に泊まったものの、ついついおしゃべりが過ぎて、明け方にうとうとしただけだったので寝不足もいいところだ。
今日はこれから寝入り、夕方に起きるという一日になりそうだな……と思った時、シイカのスマートフォンが震えた。普段ほとんど着信がないので、常にマナーモードにしてある。
液晶画面には誰かの名前が表示されている。この電話にかけてくる人間というのはかなり限られており、電話帳に登録している名前というのは更に限られているため、最初にシイカの頭に浮かんだ名前は、御格子クツナだった。何か、仕事の連絡か、それ以外の用事だろうか。
そこにある名前を見て、シイカは息を止めた。細かく振動してコールを伝えてくるスマートフォンを右手に持ったまま、部屋の中で立ち尽くす。
まさか。
真乃アルト。確かにそう読めた。
細い息をかろうじて吐きだしながら、シイカはようやく通話をオンにした。
「ああ、出てくれた。おはよう。と言っても、もうすぐお昼か」
「どうして……私、あなたの名前を登録なんて」
「いや、君がしたよ、間違いなく。僕の目の前で」
「……繭使いで、やらせたんですか。そんなことまで……」
「さすがに、これからはそう簡単ではないだろうけどね。まだ大して君で遊んだわけじゃないのに、残念だ」
電話の向こうからは、鳥の鳴き声が聞こえる。屋外のようだ。
シイカは反射的に窓に取り付いて、昨日から閉じたままだったカーテンを指先で少しだけ開けた。とりあえず、アパートの窓から見下ろせるところにはアルトの姿はない。
「心配しなくても、今君の近くにはいないよ。どう、覚えていることもあれば忘れていることもあるっていうのは、怖いだろう。今さぞかし、怯えた顔をしているんだろうね」
シイカの背中に、悪寒が走った。見てもいないのに見てきたように言われる方が、よほど気味が悪い。
「何の、用ですか。私になんて、あなたが」
「そうだ。君なんて取るに足らない。ただ、少し話をしないか」
「と、取るに足らないなら、それこそ話なんて」
「クツナが君に何を隠しているのか、教えてあげる。君にとっても大事なことだからね」
ぐっとシイカの息が詰まった。
「何を言ってるんですか。そんなことが本当にあるなら、クツナさんから聞きます」
「クツナは君にこのことは言えない。決して。クツナとキリと僕の記憶、見ただろう? なのに君は、他人事のようにしかそれを聞いていない。クツナに話す気があるなら、昨夜君に伝えたはずだ。」
アルトの声は低く穏やかだったが、無碍に突っぱねれば、取り返しのつかないことが起きそうな不気味さがあった。シイカの手に汗がにじむ。
「人とつながることが、怖くはないかい」
「何……を」
「空虚感があるだろう。胸に穴が空いたような。繭使いで記憶を大きく消されると、そうなる。僕は君の、その欠落した記憶を持っている」
シイカは絶句した。答を待たずに、アルトが続ける。
「キリの住んでいた団地について、場所も記憶として得ただろう。一休みしたらおいで、そこで待つよ。クツナには内緒でね。彼を呼んだら、君は大切な記憶を取り戻すチャンスを永久に失う」
電話は切れた。
しばらく呆然とした後、シイカは再び部屋着から着替えた。
動きやすいように、飾り気のない黒いトップスに、白のリネンパンツを穿く。財布とスマートフォンだけは持って、スニーカーに足を突っ込み、家を出た。キリの暮らしていた場所は、確かに分かる。電車と徒歩で、一時間もかからずに行ける。
シイカは自分の繭に目を凝らした。クツナが施してくれた防御が、網目のようになって繭全体を覆っているのが分かる。
しかし、繭の全体像、特にその深は、己の目で見通すことは難しい。
――私の知らない、私の記憶がある?
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