棘を編む繭

クナリ

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第四章 8

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 クツゲンは息子に答えずに、繭使いを始める。キクノの致命傷を癒し、生命機構を万全に戻そうと、全ての知識と技術を動員しようとしていた。
 それはクツナから見れば、谷底に落ちていく妻の体を、自分も奈落に引きずり込まれながら引き上げようとするようなものだった。だがクツゲンは、当たるべからざる勢いで指を躍らせる。
「無理だよ」
 手法は無茶で、狙いは無謀だった。うまくいくわけがない。あまりにも強引な施術に、過度な負担はあっという間にクツゲンの指を侵していった。キクノの繭は触れられただけで砕け、激痛だけをクツゲンに与えて、治癒の可能性など一片も見せずに壊れていく。
 戸惑いも、ひるみもしないクツゲンの指は、そのせいで加速度的に崩壊を早めた。
 幼い頃から、繭使いを施す父の姿を見てきた。指は繭使いの命である。いずれ能力が失われてしまうとしても、その時までは大切に、一日でも長くもたせ、一人でも多くの繭を治す。そうして今日まで持たせてきた指が、一本、二本、と切れていった。
 いくつもの小さな奇跡を起こしてきた指が、無慈悲に死んでいき、もうこれまでの輝きを取り戻すことはない。
 物理的にちぎれて落ちるわけではないが、その光景はあまりにも痛々しかった。
 クツナはそれを目の当たりにして、この家ごと、漆黒の悪夢の中に飲み込まれてしまったように感じた。
「父さん、もうやめてくれ。そんなことをしても、もう」
「理不尽だろう」
「父さん」
「認めちゃならないもんには、抗わなくちゃならんだろうが!」
「でも!」
 クツゲンは頑なだった。
 クツナも、それ以上は言葉にならない。
 使える指が減れば、当然それだけ、繭使いとして扱える技術が減る。正確で穏やかだったはずの従来の指運びは、今は見る影もなかった。冷静さも、効率も、建設性も欠いたクツゲンの技は、クツナがこれまでに見た、もっとも無様な施術だった。
 羽交い絞めにしてでも止めなくては。クツナがそう思った時には、クツゲンの最後の指――右手の親指が切れた。クツゲンがこの部屋に入って来てからここまで、時間にすれば一分もなかっただろう。それだけの間に失われたものの大きさに、クツナは絶望する。
 そしてクツゲンは、もう繭に触れることもできない指を、それでも動かそうとした。
 それを見て、クツナの背中に悪寒が走った。父がこの動きをやめた時。母の死を受け入れ、諦めた時。繭使いとしての指まで全て失われた状態で――クツゲンは、まともでいられるだろうか。
 クツナはほとんど反射で動いた。父の後ろから、その繭に触れ、後頭部付近の一部を切断して気絶させた。クツゲンが全神経をキクノに注いでいる状態で不意打ちを仕掛けたのだから、いともたやすい。アルトもそうだったのだろう。
 傍らに倒れた父の繭に、もう一度クツナは触れた。
 そして、今の無謀な施術と、アルトの所業の記憶の繭をクツゲンから切り取った。
 これが、いいか悪いかは分からない。しかし、そうしなくてはならないと思った。
 キクノが首を吊った記憶は残しておく。さもないと、知らぬ間にいきなり妻が死んでしまったことになる。さすがにそれば、父を重度のパニックに陥れるだろう。
 施術台の上の、動かない母の体を見下ろす。
 救急車のサイレンが近づいてきた。
 クツナは、キクノの、すっかり脆くなった繭をなでた。さらさらと、ガラスの粉のように繭は崩れる。だから、それ以上触れるのをやめた。意識がなくても苦しんでいるかもしれないなら、せめて苦痛を感じる部分を繭使いで麻痺させてやりたかったのだが、それもかなわない。
 それからすぐに、クツゲンが目を覚ました。そして、作業台に横たわるキクノと、その横で母の体に手をかざしている息子を見た。
 アルトがこの家でしたことの記憶を失ったクツゲンだったが、キクノが首を吊ったことは覚えている。
 ――理由は分からないが、首を吊った妻。己の指は全て失われている。おそらく自分は自殺を試みたキクノの蘇生を試みて失敗し、無理な繭使いで指が切れ、その衝撃で気絶してしまったのだろう。
 そうクツゲンは考えた。クツゲンも往年の繭使いだけあって、記憶の一部の繭が失われているのを悟っていた。息子が、あまりに辛い妻の蘇生失敗の記憶を、父親から消してくれたのだろう――と思った。繭を見る限り、どう見ても、もうキクノは助からない。
 息子まで、叶わぬ死者蘇生のために指を失うことはない。作業台の横にたたずむクツナに、クツゲンは穏やかに声をかけた。
「クツナ。もうやめておけ」
「うん……」
 この時、なぜキクノを死に追いやったアルトが、気絶して無防備であったろうクツゲンにダメージらしいダメージを与えずに立ち去ったのか、クツナが思い至ったのは少し後だった。
 この「事件」の後にどう事態が転んだとしても、まだ中学生であるクツナには、生活の後ろ盾として食い扶持の稼ぎ役がいた方がいい。
 クツナを最低限路頭に迷わせないだけの保険として、クツゲンはほぼ無傷で残されたのだ。
 そう気づいたとき、クツナはもう、アルトに人間らしい感情の理解が失われているのだと悟らざるを得なかった。けれど、なぜ。無意味だと分かっていても、虚空に向かってそう問う。
「ごめん、父さん……」
 息子の謝罪は、友人が起こしたこの悲劇へのものだったが、クツゲンは、それを正確には汲み取れなかった。
 救急車が御格子家の前に到着した。クツゲンは、息子が呼んだのだろうと思った。
 そしてちょうどその時、クツナの眼下で、キクノの体は、呼吸を終えた。

 キリは、アルトの家の前に自転車を停めた。赤いレンガと白い壁が基調になった、瀟洒な家。門についているインターフォンを押そうとして、門扉が半ば開いていることに気づく。
 人差し指で門扉を押し開け、玄関に近づいた。家のドアの横にもインターフォンのボタンはある。しかし、そのドアもまた半開きになっていた。
 アルトの家に入るのは初めてではない。その時はただ遊びに来ただけで、厳しそうな父親と優しそうではあるがどこか掴みづらい母親の前で――キリにしては珍しく――しおらしく過ごしたのを覚えている。
 いきおい、それ以降は居心地のいいクツナの家が集合場所になった。
 ドアを開ける。奥行きの長い廊下には、誰もいない。
 嫌な予感がした。声もかけずに、キリは靴を脱いで、廊下へ上がった。暴漢に会うわけじゃないんだから、と言い聞かせても、喉がひりひりと乾くのを自覚する。
 居間を覗き込んだ。
 以前見た、あの怖い顔のアルトの父親が、仕立てのいい青いソファの脇に仰向けで倒れている。その横に、ぼんやりと母親が座り込んでいた。
「おばさん!」
 びくんと母親の体が震えた。目の焦点が、今の入り口に立つキリに合う。
「あ、あなた、キリちゃん……あの子、アルトが……」
「おじさんは? それって、アルトの仕業なんですか……?」
 キリが部屋の中央へ踏み出そうとした時、母親が叫んだ。
「やめなさい!」
 自分が言われたのかと思ったキリは立ち止まり、しかし、とっさに背後の気配に気づいた。飛びのくようにその場を離れ、母親のすぐ横まで来てからキリは振り向く。今の今までキリがいた場所に、灰色の髪と目をした、見慣れた友人が立っていた。両手を緩く前方に出した格好で。
「アルト……! あなたがやったの、自分のお父さんを……」
「僕とキリは、そこは分かり合えると思っていたけどな。思考回路に関わる繭を、いくつか結しただけだよ。運が良ければそのうち治るんじゃないかな」
「どうして? クツナのお母さんも、あんな」
「どうして、か。きっと君たちみんな、そう言うんだろうな。クツナも、クツナの父親もそうかな、どうして、どうしてって。でも――どうして、分かるだろうと思ってるんだ?」
「アルト……あなた、本当にアルトなの……?」
「僕はずっと僕だ。ただ、キリ。僕にとっての君が変わっただけだよ。そこの男もそうだ。今まで黙って言うことを聞いていたのは、彼に僕の父親という肩書があったからだ。それがなくなった今――僕が棄てたんだが――彼は僕に命令できる立場にはない。それなのに、そいつはこう言ったんだよ。クツナの家へ行け。謝罪し、償えって。自分も同行するからって。尊敬も感謝もしていない人間に、そんなことを強要される筋合いがあるかい」
 アルトの父親は、口からよだれを垂らして昏倒している。今のキリの体調で、とても治癒できる気がしなかった。
 他の繭使いを頭に思い浮かべる。しかしクツゲンは倒れていたし、クツナは母親のことでそれどころではないだろう。
 キリには他に、繭使いの知己はいない。そのことが今、とてつもなく悔しかった。
「おじさんは、命に別状は……ないのね」
「たぶんね。凄い目で僕を見るね、キリ。初めて見る」
「アルト、別のところへ行こう。おばさん、ごめんなさい。アルト、お借りします」
 モノみたいだな、と冷笑するアルトの目前に、キリは踏み込んで、頬を張った。
 しかし、その瞬間に戦慄を覚えたのはキリの方だった。
 キリとアルトは家を出て、それぞれに自転車にまたがった。キリは行き先を告げて走り出し、それをアルトが追う。
 背中にアルトの気配を感じながら、キリは、恐怖に飲まれそうになっていた。頬を叩いた瞬間、わずかにアルトの右肩が動いた。あれは、その気になれば、キリの繭を掴める。
そして――思うさまダメージを与えることができる。覚悟をしろ。その警告だった。

 クツナは、クツゲンに救急隊の相手を任せると、家を飛び出して自転車にまたがっていた。行き先のあてとして思いつくのは、アルトの家だけだった。
 キリたちが出発した少し後、凄まじいブレーキ音を立てて、クツナの自転車が赤レンガの塀の前に止まった。家の中に飛び込み、アルトの両親を見つける。
 キリとアルトが、連れ立ってここを出た。アルトの母親からそう聞かされて、クツナは再び自転車に飛び乗った。
 腿がだるくなり、筋肉が張る。それでも全速力で漕ぎ出す。息が切れ、口の中に血の味が広がる。重なる疲労を、自分の繭を少々いじって軽減させながら、クツナはキリの家へ向かった。
 それ以外に、あの二人の寄る辺はないはずだ。他には落ち着ける場所もなく、頼れる人間もいないのだから。そう確信できてしまうことを、クツナは頭の片隅で、少し悲しんだ。
 空の鉛色が、朝よりも濃くなっている。クツナの白い息がその中に浮かんだ。つい今朝、キリと二人で自転車を駆っていた時とは全く違う気分で、クツナはその白を蹴散らして進んだ。
 
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