棘を編む繭

クナリ

文字の大きさ
上 下
27 / 45

第四章 1

しおりを挟む
「痛い」のは、嫌いだった。
 でも、「痛い」のは、私にとって当たり前のことでもあった。
 世の中のことを少しずつ知ると、自分よりもずっとひどい目に遭っている人が世界中にいるのだと分かってきた。
 だから耐えなくてはならないと思った。
 そう思い続けていたし、ずっと耐えていけると思っていた。
 それが間違いだと分かったのは、私ではなく、お母さんと弟がお父さんに殴られ始めた時だった。
 どんなに頼んでも、お父さんはやめてくれない。私は、耐えるだけの自分がどんなに無力かを思い知った。
 だから。
 頼ろうと思ったのだ。
 自分以外の、家族以外の、誰かを。
 そんなことを決意しなければ。
 思い止まっていれば。
 ――もしかしたら家族は今も、ひとつになって暮らしていたのかもしれない。

 高校は、夏休みに入った。
「鳴島の学校も、夏休みは八月末までだろ?」
「そうです。最近、早めに学校が始まるところも多いみたいですけど」
 クツナの家で、来客を迎える準備をしながらシイカが答えた。この日は紺のワンピースに夏用レギンスだったが、気を抜くと仕事というよりは単にこの家に遊びに来たような気持になる。
 シイカは一度、何か制服的なものを用意した方がいいでしょうか、とクツナに相談してみたが、「そんな構えなくてもいいだろ別に。繭使いの時はただでさえ白衣なんて着てるんだし」と言うので、学校がある日以外は、一学期から普段着で過ごしている。
ワンピースを着ることが多かったが、シイカにとってはそのすとんとしたシルエットが何となく作業着に近いように思えたためで、デザインもしゃれっ気よりは動きやすさを重視したものがほとんどだった。
「君は友達と、どこかに出かけたりしないのか」
「尾幌先輩は、やっぱり自分の学校の人たちと遊ぶでしょうし。それこそ空木先輩とか」
「いや、鳴島こそ自分の学校のだな」
「私は、二学期が始まった時に、せっかく身についた挨拶の習慣が錆びつかないように頑張ろうと思います」

「……鳴島って、ひょっとして何だかすごく誘いづらい感じを出してやしないか」
「努力はしてるんです、これでも。クツナさんのおかげで改善も見られましたし」
「そうだな。まあ、自分のペースが一番か」
 クツナは勤め先の塾の夏期講習で、一学期よりも忙しい。それでも水曜と日曜は極力空けて、繭使いを続けている。
 八月最初の水曜日、依頼人は、汚ならしい身なりの中年男性だった。吉津よしづと名乗ったその男の正確な年齢は、シイカには分からなかったが、恐らく五十代半ばくらいだろう。
 もっとも、シイカはここのところ、依頼者を年齢や性別で区分けすることの無意味さを痛感していた。人間というのは似たような境遇でもそれぞれに全く異なった悩みを持つもので、繭使いはその個別具体性にこそ対応しなくてはならない。
 個性というのは、能力や性格よりも、悩みごとにこそ色濃く出るのかもしれない、とシイカは思う。
「なるほど。ご近所トラブルですか」
 和室に座ったクツナが、ゆったりとした動作でうなずく。
「そうなんだ。隣も、俺も、今住んでる一戸建てから移る気はない。もっとも、俺は独り身で向こうは四人家族だがね。連中が越してきた頃から、特に理由はないんだが、いけすかないと思ってた。くだらない嫌がらせをしてやったこともある。向こうの親父が、眼鏡かけた真面目坊主みたいななりしてるくせに、息巻いて文句言いに来たりしたな」
 吉津は、癖の強い長髪をばらばらと乱しながら首を横に振った。癖なのかもしれないが、その髪と薄汚れた緑色のシャツが揺れるたびに漂ってくる匂いは、シイカには辛い。
「ただ、俺もさすがに反省した。向こうには特に落ち度もないわけだからな。そこで考えたんだが、あんたには、俺のプライドをなくしてほしい」
「プライド、ですか。それはまた、極端……と言いますかなんでまた」
「俺は昔から、年下の男に楯突かれるのが大嫌いなんだ。その理由は俺の、特に根拠のないプライドだと思う。そう、自分で言うのもなんだが根拠なんざないんだよ。これさえなければ、俺も周りの連中ももっと楽というか、生きやすくなるんじゃないかと思ったんだ」
 自分で根拠がないなどと言ってしまえる辺り、この客が理性的なのか感情的なのか、シイカにはよく分からなかったが、とにかく前向きらしいのは伝わってくる。少し嫌悪感が和らいだ。
「結論から申し上げれば、プライドをなくしてしまうというのはお勧めできません」
「でもな、俺はもうずっと昔から悩んできたんだぜ。仕事の上でもこのせいで何度も失敗した。それでもどうしても気位の高さは直せなかったんだよ」
「吉津さんが苦しまれてきたことは、お察しします。しかし、自尊心を単純に減衰させることは、あなた個人の尊厳を脅かしかねません」
「尊厳だなんて、大げさな話じゃねえけど」
 苦笑する吉津に、クツナは柔らかく、しかし真面目な顔で話す。
「今までに、普段大人しく穏やかな人が、軽口のように言われたことで急に怒り出すということがありませんでしたか?」
「ああ、会社で何度かあったな。いつもいじられてもケタケタ笑ってる奴が、珍しくむっとしたりとか」
「それは、何気ないやり取りの中に、その人の尊厳を傷つけられることが含められていたせいであることが多いんです。大人しかろうと優しかろうと、貶められれば人は怒る。それは当然の、けれどとても大事な反応です。プライドというのは、扱い方を間違えると、本人の尊厳を自分で守れなくなることがある」
「……なるほど。ちょっとおっかねえな。そしてさらに、今までの自分がやりように罪悪感がつのるぜ」
 吉津も真顔になった。
「そこでです。プライドそのものには手を付けず、感情にクッションを設けるような施術はどうでしょうか」
「何かあった時にすぐにカチンと来るんじゃなく、ちょっと落ち着いて考えられるようになるってことか」
「そうです。今まさに、吉津さんよりずっと若造である私の講釈を、あなたは真剣に聞いてくださいました。己を顧みて反省もされている。若者との対話について、本当に悩まれ、そして努力されているのですね。そうさせているのもあなたのプライドのはずです。それを消してしまうのは、忍びない」
「ずいぶん持ち上げてくれるじゃねえか。分かった、あんたの言う通りにしよう」
 その後は前金を受け取り、三人で施術室に移り、クツナが吉津の繭を繰った。
 施術は十数分で終了し、吉津は満足げに帰っていった。
「今日は、いつにも増してあっさり終わりましたね」
「元から、本人の自助努力がかなりあったからな。本当に悩み続けてきたんだと思う。それにしても、吉津さんの家ってうちから近いらしいぞ。そのうちばったり会ったりしてな」
「まさか」
 シイカは笑って言った。
「だよな」
 施術室の掃除を済ませたシイカがクツナの家を後にすると、外はまだ明るかった。もう少しクツナと何かおしゃべりしてもよかったかもしれない。もっとも、シイカには世間話の才能などないので、すぐに話に詰まってしまいそうではある。
「次に来る時は、話題のリストでも作っておこうかな」
「リスト?」
「はいってうわあ! なんでいるんですか」
 シイカのすぐ後ろの路上に、さっき玄関で別れたばかりのクツナが立っていた。
「いや、駅まで送ろうと思っただけだ。まだ明るいからうっかりしていたが」
「いいですよ、今日は。リストもありませんし」
「だからなんだ、リストって」
 これまでにもクツナは何度もシイカを駅まで送ってくれている。
まっすぐ向かえば十五分ほどで着くのだが、毎回シイカは、その道すがらで何を話したらいいのか、話題には苦労していた。
 学校で友達と話す経験が極端に乏しいせいで、特に意味のない話というものを、どう展開させていいのかが分からない。
 繭使いの客のことは外で話題にすることはできないし、他に共通の話もない。
 クラスメイトたちは一体何を毎日毎日、友達らとあんなに話しているのか、シイカには皆目見当もつかなかった。
 ただ、クツナともっと何か話していたいという気持ちはある。先日の尾幌エツとの一件で、クツナがシイカの交友関係の乏しさを心配してくれていたことも分かった。
 アルバイトとして繭使いの手伝いをしに来ているシイカのことを、仕事の領分を越えて、自分以上に考えてくれている。
 せめて、クツナと一緒に過ごす時間の心地よさを伝えられたらと思うのだが、シイカにはその方法が分からない。
 ともすればすぐに沈黙しがちなシイカのことを、クツナが疎ましく思っていたらどうしようと不安になるのは、最近ではしょっちゅうだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子

ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。 Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。

スタジオ.T
青春
 幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。  そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。    ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

エロ・ファンタジー

フルーツパフェ
大衆娯楽
 物事は上手くいかない。  それは異世界でも同じこと。  夢と好奇心に溢れる異世界の少女達は、恥辱に塗れた現実を味わうことになる。

隣の人妻としているいけないこと

ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。 そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。 しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。 彼女の夫がしかけたものと思われ…

どんな学校でも恋したっていいですよね?

さっきーオズマ
青春
山崎啓介(やまざきけいすけ)は男子校に通っているごく普通の高校生 男子校は最高だ 例えば周りの目を気にすることなく言いたいことが言える 例えば恋愛による関係性の破壊がほとんど全く無い 例えば陰キャ陽キャがあまり分かれていない ただ一つの最大の利点であり欠点を上げるならば 女子がいない 女子がいないことが利点の大部分を占めているものの 女子がいない、すなわち恋愛ができないことが最大の欠点なのだ 共学に通っている友達からはこの子が可愛いんだよねと、 隣の席のこの人が好きなんだよねと そんな喧嘩売ってるのかって話が舞い込んでくる もちろん男子を好きになればいいという声もあるだろう だがしかし、性的趣向はそう簡単に変わるものではない 簡単に変わったら苦労はしない 恋愛が出来ないということはすなわち、青春の醍醐味の半分を失うということ 勿論、自分は恋愛なんてしなくてもいいや・・・と思っているのも柄の間 小学校で恋愛に興味が無かった者達は皆こう言った 「彼女が欲しい」 俺も例外ではない しかもここは中高一貫校、6年間も異性とかかわることが無いのだ そりゃあ虚しくもなる そこで、考えた 「彼女つくれないかな」 って 思いつかなかった やはり救いようが無かった だが、まだあきらめるのには早すぎる 何か、何か恋愛をする方法はないのか! そんな、青春の楽しみの一つをうばわれた悲しき生き物(モンスター)たちが 恋に奮闘するお話 ※BL作品ではありません ※この小説の中には作者である「さっきーオズマ(をもとにしたキャラ)」が出てきます。普段の文体などから、誰なのか是非探し当ててみてね! ※答えは番外編の主人公です

世界を滅ぼす?魔王の子に転生した女子高生。レベル1の村人にタコ殴りされるくらい弱い私が、いつしか世界を征服する大魔王になる物語であーる。

ninjin
ファンタジー
 魔王の子供に転生した女子高生。絶大なる魔力を魔王から引き継ぐが、悪魔が怖くて悪魔との契約に失敗してしまう。  悪魔との契約は、絶大なる特殊能力を手に入れる大事な儀式である。その悪魔との契約に失敗した主人公ルシスは、天使様にみそめられて、7大天使様と契約することになる。  しかし、魔王が天使と契約するには、大きな犠牲が伴うのであった。それは、5年間魔力を失うのであった。  魔力を失ったルシスは、レベル1の村人にもタコ殴りされるくらいに弱くなり、魔界の魔王書庫に幽閉される。  魔王書庫にてルシスは、秘密裏に7大天使様の力を借りて、壮絶な特訓を受けて、魔力を取り戻した時のために力を蓄えていた。  しかし、10歳の誕生日を迎えて、絶大なる魔力を取り戻す前日に、ルシスは魔界から追放されてしまうのであった。

処理中です...