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第三章 7
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シイカとエツはその後、小さな喫茶店に入った。
「喫茶店て、たばこ吸うお店ですよね。匂いがついたりしませんか」
「……シイカちゃん、喫茶店の喫って喫煙の喫だと思ってるでしょう。ここは全席禁煙だから大丈夫」
二人ともダージリンティーを、シイカはカップ、エツはデキャンタで注文し、窓際の席で向かい合った。
夏の日差しは、もう西日になっている。テーブルから照り返す光がエツを照らし、シイカは改めて、エツの美形ぶりを認識した。
「ここね、前に先生に連れてきてもらったの。今はすっかり私一人で来るようになったけど。後で先生に聞いたら、喫茶店なんて全然行き慣れてなくて、私を落ち着かせる手近な場所がここしかなかったみたい」
「落ち着かせるっていいますと」
「少しね、気持ちが荒れてしまっていた頃があって。と言っても、一週間くらいの間だったんだけど」
「先輩の荒れているところって、想像しにくいです。とても、何て言うんでしょう、穏やかに見えますし」
「あの時はね……取り乱したり、取るに足らないことで騒いだり、ひどいものの考え方したり、……自分でもあんまり思い出したくないな。さっき、トワノがいたでしょう。彼に、彼女ができたのよ。ショートカットの、私とは全然違う可愛い子。私、友達がすごく少なくて、幼馴染のトワノくらいしか学校で話し相手がいなかったの。それで、寂しくなっちゃったのね」
シイカは紅茶を吹き出しかけた。
「と、トワノさん彼女がいるんですか」
エツに想いを寄せているのではなかったのか、とシイカは軽く混乱した。
「そんなに意外? 彼、結構人気あるのよ」
シイカには、エツの方がよほど人気がありそうに見える。それなのに学校で孤立していたのいうのは、意外だった。
「私、先輩はとても話しやすいですし、お友達も多そうに思えます」
「ちょっとね、歯車の噛み合わせというか。もっと小さい頃は私はずっと内気で、周りの人とろくに話もできなくて、家族以外では本当にトワノとしか口をきかない日も珍しくなかったくらい。でも小学生くらいになると、男子のトワノと平気で仲良くしてるっていうのが、クラスの人気グループの子たちから気に入られなかったのね、中学も地元だったから進学しても周囲の顔ぶれは変わらなくて、そうするとそれまでに輪をかけて女友達が減っていって。もちろん男子なんて、トワノ以外の子とは話せないし」
シイカは自分の小学校時代を思い出していた。高学年になる前のことはもうあまり覚えていないが、確かにそうしたグループは常にあった気がする。ただ、ひたすらシイカが構われなかったので、お互いに何の影響も与えなかっただけだ。
「だから、学校では一人で過ごすのが癖になってしまって。初対面の女子とこんなにお話したの久しぶり」
「わ、私もです。でも先輩、空木さんに彼女ができて一週間もしたら落ち着いたわけですよね。私だったら、たぶんもっと……」
「ああ……うん。それはね、先生が話し相手になってくれたからっていうのもあるんだけど、二人が一週間で別れちゃったからなの」
エツが気まずそうに手の甲をかいて、一度カップを口に運ぶ。なるほど、ではその後トワノはエツに恋慕したのか、とシイカは胸中で納得した。
「告白してきたのも別れを切り出してきてのも相手かららしいけど、トワノもあっけにとられてたな」
シイカには、告白も交際も破局も、まだまだ自分には遠い世界に思えた。しかし、告白よりも交際の方が、交際よりも破局の方が、膨大なエネルギーを使いそうな気はした。それを一週間で。トワノと当時の恋人の間にどれほどの感情の激動があったのか、想像するだけで気が遠くなる。
「先生は間違いなく、私を振ると思う。それは覚悟してる。でもトワノに、私と同じ寂しさを体験させなくて済むのは、ちょっといいことかもね」
「先輩……」
「トワノのことを気にして、私が先生への告白を我慢するなんていうのは、トワノに悪いもの。たとえどちらかが辛くても、相手の気持ちを言い訳にして自分の気持ちを押し殺すようなことは、私たちは二人とも、したくないの」
エツの目が潤んでいる。こんな話をするのが、ほどよく明るい、いい香りのする綺麗な液体の乗ったテーブルでよかった、とシイカは思った。そうでなくては、きっとやるせなさばかりが立ち込めていた。
「ずっと、何かがぎこちないの。どうして、少しずつうまくいかないんだろう。もっと、決められた形にぴったりはまるように生きていけるんじゃないかって子供の頃から思ったまま、もう高校生も半分過ぎそうになってる」
「あ、あの」
「ん?」
「ぴったりはまるように……かは分かりませんけど、きっと近いうちに、すごく落ち着ける形に収まるようには、なるんじゃないかと思います。私最近、そういうのを何度も見たんです。壊れたり、傷ついたりしたものが、穏やかに落ち着くところを。世の中にはそれができる人がいて、しかも意外に身近にいたりすることがあって、辛い人を助けてくれるって……そういう、ことが」
勢い込んで言い始めたが、それはエツの場合は、恩人でもあり恋の相手でもある教師への恋愛感情を消してしまうことになるのかもしれないのだと思うと、シイカの声が細くなっていく。しかし、言わずにいられなかった。
「ありがとう、シイカちゃん」
エツは、カップを両手で包んで口元に運んだ。優しそうな、細くしなやかな指だった。
「これから私とトワノ、どっちが先に彼氏か彼女を作るんだろう。トワノったら、例の初カノは、何もしてないから彼女に入らないだなんて言うんだもの」
そのトワノの気持ちを既に茎川から聞いてしまっているシイカは、何も言えずに――少しばかり冷や汗をかいて――紅茶をすすった。
ふと、シイカは、エツの繭に目を凝らしてしまった。今はトワノに向けた温かな気持ちが、強く前面に出ている。しかしそのすぐ横に、切なく息づくような、儚くも激しい感情のこもった塊がある。これが茎川への想いだということは、シイカにも分かる。
シイカにはまだ、クツナほどには、繭からその人間のことを読み取れはしない。しかし、これまでにクツナの繭使いを間近で真剣に見て、自分でも繭に触れ続けていたお陰で、ある違和感に気付いた。
エツは、シイカに心を許してくれている。それをいいことに心を覗くような真似は、決してよくない。しかしその違和感の元は、これから繭を操作される可能性のあるエツにとって、とても大切なことのように思えた。
そこに――今回の茎川の依頼の根幹に関わる、何かがある……ような、そんな気配が、する。シイカがまだ知らない、何かが。
「喫茶店て、たばこ吸うお店ですよね。匂いがついたりしませんか」
「……シイカちゃん、喫茶店の喫って喫煙の喫だと思ってるでしょう。ここは全席禁煙だから大丈夫」
二人ともダージリンティーを、シイカはカップ、エツはデキャンタで注文し、窓際の席で向かい合った。
夏の日差しは、もう西日になっている。テーブルから照り返す光がエツを照らし、シイカは改めて、エツの美形ぶりを認識した。
「ここね、前に先生に連れてきてもらったの。今はすっかり私一人で来るようになったけど。後で先生に聞いたら、喫茶店なんて全然行き慣れてなくて、私を落ち着かせる手近な場所がここしかなかったみたい」
「落ち着かせるっていいますと」
「少しね、気持ちが荒れてしまっていた頃があって。と言っても、一週間くらいの間だったんだけど」
「先輩の荒れているところって、想像しにくいです。とても、何て言うんでしょう、穏やかに見えますし」
「あの時はね……取り乱したり、取るに足らないことで騒いだり、ひどいものの考え方したり、……自分でもあんまり思い出したくないな。さっき、トワノがいたでしょう。彼に、彼女ができたのよ。ショートカットの、私とは全然違う可愛い子。私、友達がすごく少なくて、幼馴染のトワノくらいしか学校で話し相手がいなかったの。それで、寂しくなっちゃったのね」
シイカは紅茶を吹き出しかけた。
「と、トワノさん彼女がいるんですか」
エツに想いを寄せているのではなかったのか、とシイカは軽く混乱した。
「そんなに意外? 彼、結構人気あるのよ」
シイカには、エツの方がよほど人気がありそうに見える。それなのに学校で孤立していたのいうのは、意外だった。
「私、先輩はとても話しやすいですし、お友達も多そうに思えます」
「ちょっとね、歯車の噛み合わせというか。もっと小さい頃は私はずっと内気で、周りの人とろくに話もできなくて、家族以外では本当にトワノとしか口をきかない日も珍しくなかったくらい。でも小学生くらいになると、男子のトワノと平気で仲良くしてるっていうのが、クラスの人気グループの子たちから気に入られなかったのね、中学も地元だったから進学しても周囲の顔ぶれは変わらなくて、そうするとそれまでに輪をかけて女友達が減っていって。もちろん男子なんて、トワノ以外の子とは話せないし」
シイカは自分の小学校時代を思い出していた。高学年になる前のことはもうあまり覚えていないが、確かにそうしたグループは常にあった気がする。ただ、ひたすらシイカが構われなかったので、お互いに何の影響も与えなかっただけだ。
「だから、学校では一人で過ごすのが癖になってしまって。初対面の女子とこんなにお話したの久しぶり」
「わ、私もです。でも先輩、空木さんに彼女ができて一週間もしたら落ち着いたわけですよね。私だったら、たぶんもっと……」
「ああ……うん。それはね、先生が話し相手になってくれたからっていうのもあるんだけど、二人が一週間で別れちゃったからなの」
エツが気まずそうに手の甲をかいて、一度カップを口に運ぶ。なるほど、ではその後トワノはエツに恋慕したのか、とシイカは胸中で納得した。
「告白してきたのも別れを切り出してきてのも相手かららしいけど、トワノもあっけにとられてたな」
シイカには、告白も交際も破局も、まだまだ自分には遠い世界に思えた。しかし、告白よりも交際の方が、交際よりも破局の方が、膨大なエネルギーを使いそうな気はした。それを一週間で。トワノと当時の恋人の間にどれほどの感情の激動があったのか、想像するだけで気が遠くなる。
「先生は間違いなく、私を振ると思う。それは覚悟してる。でもトワノに、私と同じ寂しさを体験させなくて済むのは、ちょっといいことかもね」
「先輩……」
「トワノのことを気にして、私が先生への告白を我慢するなんていうのは、トワノに悪いもの。たとえどちらかが辛くても、相手の気持ちを言い訳にして自分の気持ちを押し殺すようなことは、私たちは二人とも、したくないの」
エツの目が潤んでいる。こんな話をするのが、ほどよく明るい、いい香りのする綺麗な液体の乗ったテーブルでよかった、とシイカは思った。そうでなくては、きっとやるせなさばかりが立ち込めていた。
「ずっと、何かがぎこちないの。どうして、少しずつうまくいかないんだろう。もっと、決められた形にぴったりはまるように生きていけるんじゃないかって子供の頃から思ったまま、もう高校生も半分過ぎそうになってる」
「あ、あの」
「ん?」
「ぴったりはまるように……かは分かりませんけど、きっと近いうちに、すごく落ち着ける形に収まるようには、なるんじゃないかと思います。私最近、そういうのを何度も見たんです。壊れたり、傷ついたりしたものが、穏やかに落ち着くところを。世の中にはそれができる人がいて、しかも意外に身近にいたりすることがあって、辛い人を助けてくれるって……そういう、ことが」
勢い込んで言い始めたが、それはエツの場合は、恩人でもあり恋の相手でもある教師への恋愛感情を消してしまうことになるのかもしれないのだと思うと、シイカの声が細くなっていく。しかし、言わずにいられなかった。
「ありがとう、シイカちゃん」
エツは、カップを両手で包んで口元に運んだ。優しそうな、細くしなやかな指だった。
「これから私とトワノ、どっちが先に彼氏か彼女を作るんだろう。トワノったら、例の初カノは、何もしてないから彼女に入らないだなんて言うんだもの」
そのトワノの気持ちを既に茎川から聞いてしまっているシイカは、何も言えずに――少しばかり冷や汗をかいて――紅茶をすすった。
ふと、シイカは、エツの繭に目を凝らしてしまった。今はトワノに向けた温かな気持ちが、強く前面に出ている。しかしそのすぐ横に、切なく息づくような、儚くも激しい感情のこもった塊がある。これが茎川への想いだということは、シイカにも分かる。
シイカにはまだ、クツナほどには、繭からその人間のことを読み取れはしない。しかし、これまでにクツナの繭使いを間近で真剣に見て、自分でも繭に触れ続けていたお陰で、ある違和感に気付いた。
エツは、シイカに心を許してくれている。それをいいことに心を覗くような真似は、決してよくない。しかしその違和感の元は、これから繭を操作される可能性のあるエツにとって、とても大切なことのように思えた。
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