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第三章 2
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クツナの家には、居間はあっても、応接室などはない。そのため、直接会って依頼の相談をしたいという客がいる場合は、先日の親子の時にも使った和室に通すことになる。
夏休みを間近に控えた日曜日の午後、その依頼人はアポイントの時間通りにやって来た。
「私は、高校で教師をやっています。茎川と申します」
三十代になるかならないかに見える男性は、ちゃぶ台を挟んで向かい合ったクツナとシイカにそう切り出した。
もしかして自分の学校ではないかと一瞬身構えたシイカだったが、茎川の勤める学校は欧華橋高校といった。シイカの学校とは、ここから最寄りの井村橋駅を挟んで、反対の方向にある。
「ご依頼の内容をうかがってもよろしいですか」
「はい。実は……」
茎川は言いよどんだ。うつむき、唇をかんでいるようだ。クツナが柔らかく促す。
「茎川さんがおっしゃられるまで、急かしたりはしません。どうぞ、内容がまとまってからお話しいただいて結構です」
「あ、いえ。まとまってはいるのです。つまり……」
「つまり?」
「私のことを好きな女子生徒がいるのですが、それを諦めさせたいのです。……できますよね?」
クツナが黙った。シイカも黙った。茎川も気まずそうに黙った。
一分ほど経ってから、ようやく、いろいろ考えた様子のクツナが口を開く。
「それは……僕が出張るほどのことなのでしょうか?」
茎川が帰った後、御格子家の台所で三人分の湯飲みを片付けながら、シイカがぼそぼそと言った。
「なんで受けたんですか、こんな依頼?」
「ほお。僕相手だと、あまり遠慮しなくなってきたな」
「そ、そういうわけじゃないですけど。でも、……余計なお世話じゃないかな、とは思います」
シイカがゆすぎ終わった湯飲みを、クツナが軽く拭いて、流しの横の水切り台に逆さにして置いていく。
「状況によってはお断りするかもしれません、とは言っておいただろう」
「でも、引き受けたものは引き受けたじゃないですか」
「僕が見る限りは、どうやら、まあちょっとお節介してやってもよさそうだ」
「最初は乗り気じゃなかったじゃないですか」
「最初はな。どうだ鳴島、少し奥に来ないか。コーヒーくらい淹れるぞ」
「今湯飲みを洗い終わったのに」
「いや、さすがにコーヒーカップくらい出すからな」
二人は廊下を奥へ歩き、居間に入った。シイカを古いソファに座らせたクツナは再度台所に行き、湯を沸かす。
やがて、何か金属が高速回転するような音がシイカの耳に届いた。それから少しして、二つのカップとコーヒー抽出の道具を盆に乗せたクツナが居間に戻ってくる。紙のコーヒーフィルターがついたドリッパーの横には、茶色い粉が入った器があった。
「え、これって今挽いてきたんですか」
「そうだ。手で挽いてもいいんだが時間がかかるし、均一の力とスピードで挽いた方が味もいい気がするんで、僕はもっぱら電動ミルを使ってる」
クツナが手慣れた動作で、コーヒー粉をふたつのドリッパーの中に同量ずつ入れた。スプーンの先で、粉の中央に軽くくぼみをつける。
「ミル?」
「コーヒー豆を挽く道具だ。ほら、湯を使うからそんなに近づくな」
クツナは口の細いやかんからドリッパーに湯を注いで、一分ほど蒸らした。今までに嗅いだことのないほどいい匂いが、シイカの鼻をくすぐる。
「すごい……いい香り」
「挽き立てと、抽出の時と、飲む瞬間。この香りは、ハンドドリップのご褒美だと思ってるよ」
「うち、インスタントしか飲まないので……」
「僕だって普段はインスタント山ほど飲むぞ。あれは人類史上に残る発明だ。ただ、いい豆が手に入ったら、人と分かち合いたいというのも大事な本能だろう」
蒸らしを終えたクツナが、本格的に抽出を始めた。そして目線をカップに向けながら、シイカに語りかける。
「僕は今回の仕事は、やるべきだと思ってる」
「私だって、本当に止めようなんて思ってません。クツナさんがそう言うなら、それなりの理由があるんでしょうし」
「信頼してくれて嬉しいね。繭使いはいつまでもできる仕事じゃないしな、後悔しないようにやりたい」
「そんなこと……」
抽出を終えたクツナが、カップをシイカに寄せた。
「少し熱いかな」
「待ちます」
御格子家の周りは静かで、時々車や犬猫の声が聞こえるだけだ。
シイカは、クツナとは何もしゃべらないでいても、さほど緊張しないようになってきていた。居心地がいい、というのはこういうことなのだろうかと、シイカは最近少し思う。これまでにはあまり味わったことのない感覚だった。いつも、ありもしない座席を探して、やっと二本の足で立つだけのスペースしかない板の上にいるような気分で暮らしていたのだから。
クツナは黙っている。茎川の依頼のことを考えているのだろう。
シイカも、その依頼の内容を思い出していた。
欧華橋高校に通っている、尾幌エツという高校二年生の女子生徒が、茎川に告白してきた。
茎川は化学部の顧問をしているが、八人の部員のうちほとんどが幽霊部員と化している中、まともに活動しているのは二人だけで、そのうち一人がエツだった。
しかしもう一人のまともな部員である空木トワノという男子生徒がいて、これがエツに片思いしている。なぜそんなことが分かるかというと、トワノ自身が茎川にそう相談してきたからだ。
トワノはまだ、エツが茎川のことを好きだとも、告白したとも知りはしない。茎川としては、できればトワノのことを悲しませたくないので、このまま知らないままが望ましい。
この二人がこの後どうなるかなどそれこそお節介であり、茎川もこの二人の仲をわざわざ取り持つ気などない。ただ、自分がエツの告白を受け入れることなど絶対にないので、とにかくエツの恋心を消滅させてほしいというのだった。
シイカは、カップを手に取った。薄い陶器の端が唇に当たり、液体が口の中に滑り込んでくる。鮮やかな香りが、舌の上で弾けた。
「わあ……」
「ストレートでよかったか? ミルクも砂糖もあるぞ」
「大丈夫です。でも、ちょっと濃いかも」
「砂糖は苦味を、ミルクは酸味を抑えるが、飲みやすくするには、まずこうだな」
クツナがシイカのカップに、やかんから湯を少し注いだ。
「薄めに作る時は、少ない粉で淹れるんじゃなく、普通に抽出してから薄めるのがいい」
「今のストレートって、ブラックのことですか」
「今の場合はそうだ。単一の豆を使うのもストレートっていうから、まあブラックの方が分かりやすいけどな」
「あれ、何だか香りがふわっと」
「ある種の酒なんかもそうだが、上手く加水すると香りが開いて、伝わりやすくなる」
シイカは再度カップを傾けた。少量しか湯を足していないのに、格段に飲みやすくなっている。
「ものすごく今さらだが、紅茶の方が良かったか? 悪い、さっきも言った通り、これは人と飲みたかったんだ」
「いえ、おいしいです……とても」
シイカは、今までコーヒーを特に好んだことはなかったが、この一杯はすぐに飲み干してしまった。
「ごちそうさまでした」
「ああ」
クツナは自分も飲み終えたカップを、シイカのものと一緒に盆に乗せた。それを持ち上げようとした手が、静かに止まる。
洗い物を手伝おうとして腰を浮かせたシイカも、それを見て動きを止めた。
「わざわざ宣言することでもないし、聞いたところで君も困るとは思うんだが」
「はい?」
「僕の指は、二本切れている。左手の小指と薬指だ」
ぞく、とシイカの背中が冷たくなった。これまでのクツナの見事な手技を見ていたら、とても信じられない。
「それを知って、君にどうこうしてほしいということじゃない。ただ、言っておきたかったんだ」
クツナは何か要領のいい技術で、指を損ねることなく繭を操っているのだとシイカは思っていた。
クツナの指が起こす奇跡は有限であり、その限界は果てしなく遠いわけではないのだと、シイカは改めて肝に命じた。「繭使いはいつまでもできる仕事じゃない」というついさっきのクツナの言葉が、頭の中で反響する。
「私、……呑気すぎたかもしれません」
「そんなつもりじゃないんだ。ただ言いたくなったんだよ。分かるか?」
「分からないですよ、何も」
「僕も君を信頼しているということだ。だから言わなくてはならなかった」
信頼。そんな言葉を向けられたことは、シイカの人生で一度もない。頬が火照った。目が泳いでしまう。
「そんな……私なんて、全然……」
「君は、必要であれば、痛みをいとわずに進んで糸を持つ。傷ついた生き物を助けようとする意志がある。充分に、信じるに値するよ。今度はいい紅茶を買っておく。またよろしくな」
「は……い」
すっかり毒気を抜かれて、シイカは、台所に立つクツナを追うこともできなかった。クツナに一人で洗わせる気はなかったのだが。
夏休みを間近に控えた日曜日の午後、その依頼人はアポイントの時間通りにやって来た。
「私は、高校で教師をやっています。茎川と申します」
三十代になるかならないかに見える男性は、ちゃぶ台を挟んで向かい合ったクツナとシイカにそう切り出した。
もしかして自分の学校ではないかと一瞬身構えたシイカだったが、茎川の勤める学校は欧華橋高校といった。シイカの学校とは、ここから最寄りの井村橋駅を挟んで、反対の方向にある。
「ご依頼の内容をうかがってもよろしいですか」
「はい。実は……」
茎川は言いよどんだ。うつむき、唇をかんでいるようだ。クツナが柔らかく促す。
「茎川さんがおっしゃられるまで、急かしたりはしません。どうぞ、内容がまとまってからお話しいただいて結構です」
「あ、いえ。まとまってはいるのです。つまり……」
「つまり?」
「私のことを好きな女子生徒がいるのですが、それを諦めさせたいのです。……できますよね?」
クツナが黙った。シイカも黙った。茎川も気まずそうに黙った。
一分ほど経ってから、ようやく、いろいろ考えた様子のクツナが口を開く。
「それは……僕が出張るほどのことなのでしょうか?」
茎川が帰った後、御格子家の台所で三人分の湯飲みを片付けながら、シイカがぼそぼそと言った。
「なんで受けたんですか、こんな依頼?」
「ほお。僕相手だと、あまり遠慮しなくなってきたな」
「そ、そういうわけじゃないですけど。でも、……余計なお世話じゃないかな、とは思います」
シイカがゆすぎ終わった湯飲みを、クツナが軽く拭いて、流しの横の水切り台に逆さにして置いていく。
「状況によってはお断りするかもしれません、とは言っておいただろう」
「でも、引き受けたものは引き受けたじゃないですか」
「僕が見る限りは、どうやら、まあちょっとお節介してやってもよさそうだ」
「最初は乗り気じゃなかったじゃないですか」
「最初はな。どうだ鳴島、少し奥に来ないか。コーヒーくらい淹れるぞ」
「今湯飲みを洗い終わったのに」
「いや、さすがにコーヒーカップくらい出すからな」
二人は廊下を奥へ歩き、居間に入った。シイカを古いソファに座らせたクツナは再度台所に行き、湯を沸かす。
やがて、何か金属が高速回転するような音がシイカの耳に届いた。それから少しして、二つのカップとコーヒー抽出の道具を盆に乗せたクツナが居間に戻ってくる。紙のコーヒーフィルターがついたドリッパーの横には、茶色い粉が入った器があった。
「え、これって今挽いてきたんですか」
「そうだ。手で挽いてもいいんだが時間がかかるし、均一の力とスピードで挽いた方が味もいい気がするんで、僕はもっぱら電動ミルを使ってる」
クツナが手慣れた動作で、コーヒー粉をふたつのドリッパーの中に同量ずつ入れた。スプーンの先で、粉の中央に軽くくぼみをつける。
「ミル?」
「コーヒー豆を挽く道具だ。ほら、湯を使うからそんなに近づくな」
クツナは口の細いやかんからドリッパーに湯を注いで、一分ほど蒸らした。今までに嗅いだことのないほどいい匂いが、シイカの鼻をくすぐる。
「すごい……いい香り」
「挽き立てと、抽出の時と、飲む瞬間。この香りは、ハンドドリップのご褒美だと思ってるよ」
「うち、インスタントしか飲まないので……」
「僕だって普段はインスタント山ほど飲むぞ。あれは人類史上に残る発明だ。ただ、いい豆が手に入ったら、人と分かち合いたいというのも大事な本能だろう」
蒸らしを終えたクツナが、本格的に抽出を始めた。そして目線をカップに向けながら、シイカに語りかける。
「僕は今回の仕事は、やるべきだと思ってる」
「私だって、本当に止めようなんて思ってません。クツナさんがそう言うなら、それなりの理由があるんでしょうし」
「信頼してくれて嬉しいね。繭使いはいつまでもできる仕事じゃないしな、後悔しないようにやりたい」
「そんなこと……」
抽出を終えたクツナが、カップをシイカに寄せた。
「少し熱いかな」
「待ちます」
御格子家の周りは静かで、時々車や犬猫の声が聞こえるだけだ。
シイカは、クツナとは何もしゃべらないでいても、さほど緊張しないようになってきていた。居心地がいい、というのはこういうことなのだろうかと、シイカは最近少し思う。これまでにはあまり味わったことのない感覚だった。いつも、ありもしない座席を探して、やっと二本の足で立つだけのスペースしかない板の上にいるような気分で暮らしていたのだから。
クツナは黙っている。茎川の依頼のことを考えているのだろう。
シイカも、その依頼の内容を思い出していた。
欧華橋高校に通っている、尾幌エツという高校二年生の女子生徒が、茎川に告白してきた。
茎川は化学部の顧問をしているが、八人の部員のうちほとんどが幽霊部員と化している中、まともに活動しているのは二人だけで、そのうち一人がエツだった。
しかしもう一人のまともな部員である空木トワノという男子生徒がいて、これがエツに片思いしている。なぜそんなことが分かるかというと、トワノ自身が茎川にそう相談してきたからだ。
トワノはまだ、エツが茎川のことを好きだとも、告白したとも知りはしない。茎川としては、できればトワノのことを悲しませたくないので、このまま知らないままが望ましい。
この二人がこの後どうなるかなどそれこそお節介であり、茎川もこの二人の仲をわざわざ取り持つ気などない。ただ、自分がエツの告白を受け入れることなど絶対にないので、とにかくエツの恋心を消滅させてほしいというのだった。
シイカは、カップを手に取った。薄い陶器の端が唇に当たり、液体が口の中に滑り込んでくる。鮮やかな香りが、舌の上で弾けた。
「わあ……」
「ストレートでよかったか? ミルクも砂糖もあるぞ」
「大丈夫です。でも、ちょっと濃いかも」
「砂糖は苦味を、ミルクは酸味を抑えるが、飲みやすくするには、まずこうだな」
クツナがシイカのカップに、やかんから湯を少し注いだ。
「薄めに作る時は、少ない粉で淹れるんじゃなく、普通に抽出してから薄めるのがいい」
「今のストレートって、ブラックのことですか」
「今の場合はそうだ。単一の豆を使うのもストレートっていうから、まあブラックの方が分かりやすいけどな」
「あれ、何だか香りがふわっと」
「ある種の酒なんかもそうだが、上手く加水すると香りが開いて、伝わりやすくなる」
シイカは再度カップを傾けた。少量しか湯を足していないのに、格段に飲みやすくなっている。
「ものすごく今さらだが、紅茶の方が良かったか? 悪い、さっきも言った通り、これは人と飲みたかったんだ」
「いえ、おいしいです……とても」
シイカは、今までコーヒーを特に好んだことはなかったが、この一杯はすぐに飲み干してしまった。
「ごちそうさまでした」
「ああ」
クツナは自分も飲み終えたカップを、シイカのものと一緒に盆に乗せた。それを持ち上げようとした手が、静かに止まる。
洗い物を手伝おうとして腰を浮かせたシイカも、それを見て動きを止めた。
「わざわざ宣言することでもないし、聞いたところで君も困るとは思うんだが」
「はい?」
「僕の指は、二本切れている。左手の小指と薬指だ」
ぞく、とシイカの背中が冷たくなった。これまでのクツナの見事な手技を見ていたら、とても信じられない。
「それを知って、君にどうこうしてほしいということじゃない。ただ、言っておきたかったんだ」
クツナは何か要領のいい技術で、指を損ねることなく繭を操っているのだとシイカは思っていた。
クツナの指が起こす奇跡は有限であり、その限界は果てしなく遠いわけではないのだと、シイカは改めて肝に命じた。「繭使いはいつまでもできる仕事じゃない」というついさっきのクツナの言葉が、頭の中で反響する。
「私、……呑気すぎたかもしれません」
「そんなつもりじゃないんだ。ただ言いたくなったんだよ。分かるか?」
「分からないですよ、何も」
「僕も君を信頼しているということだ。だから言わなくてはならなかった」
信頼。そんな言葉を向けられたことは、シイカの人生で一度もない。頬が火照った。目が泳いでしまう。
「そんな……私なんて、全然……」
「君は、必要であれば、痛みをいとわずに進んで糸を持つ。傷ついた生き物を助けようとする意志がある。充分に、信じるに値するよ。今度はいい紅茶を買っておく。またよろしくな」
「は……い」
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