7 / 45
第二章 1
しおりを挟む
痛みだ。
耐えがたい痛み。
私の小さな体では、受け止めきれない。
けれど、耐えなくてはならない。
――誰のために?
逃げてもいいのかもしれない。
でも、どこへ行っていいのか分からない。
いや、一ヶ所だけある。
あそこの、あの人なら、私を助けてくれるかもしれない。
でも、知られたくない。
私がこうして、痛みに耐えていることを。
知られてはならない。
秘密にしなくては。
――誰のために?
■
クツナの治療を受けて帰宅した日、シイカは、母親と弟に話しかけてみた。
特にこれといった話題もなかったので、天気の話と、気候の話をした。内容には大差はなかったが。
二人とも、シイカから声をかけられたことに驚いていたようだった。
ぎこちなく、上滑りした、時間にして五分もない会話だったが、話終えて風呂に入ろうとした時、シイカは舌と喉に軽い疲労を覚えた。
前に、疲れるほど人と話したのはいつだっただろう。
高揚は、眠るまで続いた。
翌朝、シイカは寄り道せずにまっすぐ登校した。
(本当は、これだけしか時間がかからないんだ……)
いつもの癖で早起きしてしまったので早く着き過ぎ、仕方なく学校の周りをぐるぐると散策して時間を潰してから昇降口をくぐった。
しばらくすると、クラスメイトの女子が二人、教室に入ってきた。
シイカは大きく息を吸い込み、しかしそうとは悟られないように自然な様子を心がけて、
「おはよう」
と声をかける。二年生に進級してから、初めてのことだった。
二人は大した戸惑いも見せず、
「あ、おはよう」「いつも早いね」
と返してくる。
それをきっかけに、次々にやって来る同級生の女子と、短い挨拶が交わされていく。
「おはよう。あれ、鳴島さんてあたしと話すの初めてじゃない?」
「私も、授業以外で鳴島さんの声初めて聞いたかも」
「出欠の時も、声めっちゃ小さいもんな」
いつの間にか、男子も混ざっている。シイカの心臓は、強く早く脈打っていた。クツナは浮かれないように言っていたが、浮かれるどころではない。
やがてホームルームが始まり、いつもと変わらない授業風景が流れていく。
放課後になり、シイカが帰り支度をしていると、近くの席の水上リエがその肩を叩いた。
「鳴島さん、私たちこれからカラオケに行くんだけど。鳴島さんも行かない?」
大きな目に軽やかなボブのリエは明るく社交的で、男女問わず人気がある。邪気のない顔が、親しげに微笑んでいた。
「鳴島さんあんまり人と話さないし、もしかしたら学校つまんないんじゃないかなって、ちょっと思ってたんだ。だから、今日から仲良くなれたらなって」
シイカは喉を鳴らした。さすがにいきなりのカラオケは、ハードルが高すぎる。
「ごめんなさい、私今日、行くところがあって……」
「そっか。じゃあ、また今度ね」
リエが残念そうな顔を浮かべる。
シイカは慌てた。遊びに誘われるのも、それを断るのもほとんど経験がないので、どうしていいのか分からない。
「本当に、その何て言うか、私のようなものを誘ってくれて、嬉しいんだけど、でも」
すると、リエの脇にいた数人の女子が、それを聞いて笑い出した。
「私のようなものって、何、武士みたい。いいんだよ、もっと軽くて」
そうして、「せっかくだから途中まで一緒に行こう」と、シイカは高校生になって初めて、クラスメイトとの下校を経験した。
駅には、何を話したらいいのか考えているうちに、あっという間に着いてしまった。
クラスメイトと分かれて電車に乗り込む。
今日は木曜日で、クツナが在宅していない日だと気づいたのは、次の駅に着く頃だった。
シイカは、浮かれているのを自覚した。
頬が熱い。ただでさえ初夏だというのに、太陽がすぐそこまで近づいてきたかのように。いや、シイカの方が空に浮かび、太陽に接近したような感覚だった。
周りから見れば、まるでなんともないことだということは分かる。根本的な人格が変わったわけではないので、人と話すのが平気になってはいないし、下校中だってひどく緊張した。
しかしシイカは、背中に小さな翼が生えたようだった。できないことと、頑張ればできることには、天地の差があった。
今すぐにクツナに会いたい。礼が言いたい。
クツナのところで働かせてもらおうと、その時シイカは心に決めた。
耐えがたい痛み。
私の小さな体では、受け止めきれない。
けれど、耐えなくてはならない。
――誰のために?
逃げてもいいのかもしれない。
でも、どこへ行っていいのか分からない。
いや、一ヶ所だけある。
あそこの、あの人なら、私を助けてくれるかもしれない。
でも、知られたくない。
私がこうして、痛みに耐えていることを。
知られてはならない。
秘密にしなくては。
――誰のために?
■
クツナの治療を受けて帰宅した日、シイカは、母親と弟に話しかけてみた。
特にこれといった話題もなかったので、天気の話と、気候の話をした。内容には大差はなかったが。
二人とも、シイカから声をかけられたことに驚いていたようだった。
ぎこちなく、上滑りした、時間にして五分もない会話だったが、話終えて風呂に入ろうとした時、シイカは舌と喉に軽い疲労を覚えた。
前に、疲れるほど人と話したのはいつだっただろう。
高揚は、眠るまで続いた。
翌朝、シイカは寄り道せずにまっすぐ登校した。
(本当は、これだけしか時間がかからないんだ……)
いつもの癖で早起きしてしまったので早く着き過ぎ、仕方なく学校の周りをぐるぐると散策して時間を潰してから昇降口をくぐった。
しばらくすると、クラスメイトの女子が二人、教室に入ってきた。
シイカは大きく息を吸い込み、しかしそうとは悟られないように自然な様子を心がけて、
「おはよう」
と声をかける。二年生に進級してから、初めてのことだった。
二人は大した戸惑いも見せず、
「あ、おはよう」「いつも早いね」
と返してくる。
それをきっかけに、次々にやって来る同級生の女子と、短い挨拶が交わされていく。
「おはよう。あれ、鳴島さんてあたしと話すの初めてじゃない?」
「私も、授業以外で鳴島さんの声初めて聞いたかも」
「出欠の時も、声めっちゃ小さいもんな」
いつの間にか、男子も混ざっている。シイカの心臓は、強く早く脈打っていた。クツナは浮かれないように言っていたが、浮かれるどころではない。
やがてホームルームが始まり、いつもと変わらない授業風景が流れていく。
放課後になり、シイカが帰り支度をしていると、近くの席の水上リエがその肩を叩いた。
「鳴島さん、私たちこれからカラオケに行くんだけど。鳴島さんも行かない?」
大きな目に軽やかなボブのリエは明るく社交的で、男女問わず人気がある。邪気のない顔が、親しげに微笑んでいた。
「鳴島さんあんまり人と話さないし、もしかしたら学校つまんないんじゃないかなって、ちょっと思ってたんだ。だから、今日から仲良くなれたらなって」
シイカは喉を鳴らした。さすがにいきなりのカラオケは、ハードルが高すぎる。
「ごめんなさい、私今日、行くところがあって……」
「そっか。じゃあ、また今度ね」
リエが残念そうな顔を浮かべる。
シイカは慌てた。遊びに誘われるのも、それを断るのもほとんど経験がないので、どうしていいのか分からない。
「本当に、その何て言うか、私のようなものを誘ってくれて、嬉しいんだけど、でも」
すると、リエの脇にいた数人の女子が、それを聞いて笑い出した。
「私のようなものって、何、武士みたい。いいんだよ、もっと軽くて」
そうして、「せっかくだから途中まで一緒に行こう」と、シイカは高校生になって初めて、クラスメイトとの下校を経験した。
駅には、何を話したらいいのか考えているうちに、あっという間に着いてしまった。
クラスメイトと分かれて電車に乗り込む。
今日は木曜日で、クツナが在宅していない日だと気づいたのは、次の駅に着く頃だった。
シイカは、浮かれているのを自覚した。
頬が熱い。ただでさえ初夏だというのに、太陽がすぐそこまで近づいてきたかのように。いや、シイカの方が空に浮かび、太陽に接近したような感覚だった。
周りから見れば、まるでなんともないことだということは分かる。根本的な人格が変わったわけではないので、人と話すのが平気になってはいないし、下校中だってひどく緊張した。
しかしシイカは、背中に小さな翼が生えたようだった。できないことと、頑張ればできることには、天地の差があった。
今すぐにクツナに会いたい。礼が言いたい。
クツナのところで働かせてもらおうと、その時シイカは心に決めた。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
全力でおせっかいさせていただきます。―私はツンで美形な先輩の食事係―
入海月子
青春
佐伯優は高校1年生。カメラが趣味。ある日、高校の屋上で出会った超美形の先輩、久住遥斗にモデルになってもらうかわりに、彼の昼食を用意する約束をした。
遥斗はなぜか学校に住みついていて、衣食は女生徒からもらったものでまかなっていた。その報酬とは遥斗に抱いてもらえるというもの。
本当なの?遥斗が気になって仕方ない優は――。
優が薄幸の遥斗を笑顔にしようと頑張る話です。
〈社会人百合〉アキとハル
みなはらつかさ
恋愛
女の子拾いました――。
ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?
主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。
しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……?
絵:Novel AI
夕暮れモーメント
松本まつも
青春
ありきたりな日常の風景も、
誰かにとっては、忘れられない
一生の宝物になれる。
うっかりしてたら見落としそうな、
平凡すぎる毎日も、
ふとした瞬間まぶしいくらいに
輝いて見えることもある。
『夕暮れモーメント』
とある日だまりの片隅で起きた、
小さな奇跡のお話。
歌にかける思い~Nコン最後の夏~
ユキウサギ
青春
学校の中でも特に人気のない部活、合唱部。
副部長の時田 優良(ときた ゆら)は合唱部がバカにされるのが嫌だった。
気がつけばもう3年生。
毎年出てたNコンに参加するのも、もう今年で最後。
全部員11名、皆仲がいい以外に取得はない。
そんな合唱部の3年生を中心に描いた、Nコンにかける最後の夏の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる