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第一章 5
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十秒ほど、二人の動きが止まった。シイカは、聞き間違いではないかと思った。
「アル?」
「アルバイトだ。時給はそうだな、二千円でどうだ」
「……変に高くないですか」
「はっきり言って、僕の塾での時給より高いな。だが、一回の拘束時間があまり長くならないと思うんだ。そこそこまとまった額にするためには、それくらいじゃないとな。それに、君の指も痛いし」
「ゆ、指って。あの、まさか私に、……」
「そうだ。繭使いを手伝ってほしい。秘密を守るには、身内になってもらうのが手っ取り早いだろ? もちろん、指が切れるような酷使はさせないし、技術を覚えろとも言わない。主に糸の押さえ役だな」
シイカはしばらく、あっけにとられた。
アルバイトに興味がなかったわけではない。いや、むしろ将来のためにも早いうちにやってみるべきだと思っていた。ただ、人と触れ合うことへの抵抗から、踏み出せなかっただけだったのだから。
「今すぐにとは言わないが、考えておいてほしい。わざわざ呼んで済まなかったが、この仕事は、繭が見える人材じゃないとやりようがないんでね」
「……はい」
近いうちに返事をするということになり、シイカは廊下に出た。玄関で靴を履く。外はもう日が暮れかけているのが、引き戸のすりガラスの向こうに見えた。
「駅まで送る、出たところで待っててくれ。……どうした?」
シイカは、靴を履いて直立したまま、戸に手をかけずに立っていた。振り向かずに言う。
「御格子さん」
「この家、他にも御格子さんがいるからな。クツナと呼んでくれ」
「クツナ、……さん。人間の治療もできるんですよね。それも、心の」
「万能ではないけどな。かなりデリケートだし、治療の程度や効果が外傷に比べて分かりづらいからあまり有り難くないんだが」
シイカは振り向く。色素の薄いクツナの瞳を見つめた。
「私を治してください」
クツナが、すっと真顔になった。
「何をだ?」
「私は、……人と話すことが苦手なんです。いいえ、誰かと人間関係を作ることが怖いんです。理由は分かりません。子供の頃からずっとそうだったから。周りにはいい人がたくさんいます。私にだって友達になれそうな子がクラスにはたくさん。でも、だめなんです。普通の日常の会とか、特に意味もないような軽口も、口にしようとすると体が固まってしまうんです。結局何も言えないで、その場がぎくしゃくして、そんなことを繰り返すうちに、人と話せなくなっていく……」
クツナは少し、相好を崩した。シイカに少しでも話しやすくさせるためだったが、その意思がシイカにも伝わった。今日はずいぶん、人と話している。こんなにも口数を費やしてしゃべるのは、いつ以来だろう。
「私は、ずっと、もしかしたら自分がそういう病気なんじゃないかと思ってました。私以外の人には皆できてることですから。いつか治したいと思ってました。でもこれは病気じゃなくて、私が元々こういう人間ななだけなんだったらどうしようって、すごく怖かった。だから……」
「今日、僕にはごく普通の会話をしてくれていたと思うが。それは、君にとってはいつものことではないんだな?」
シイカは強く首を縦に振った。その勢いで、雫がひとつ落ちた。
「家族とも、話せない……母も弟も、私には何も悪いことなんてしてないのに、どんどん嫌いなところばかりが目に付くようになって……辛いんです、すごく」
「分かった。だが、そんなに軽々に治療はできない」
シイカが顔を上げた。
「そう……ですよね。そんなに、都合よく……」
「泣くな。そうは言ったが、君は、今辛いんだろ? だから、今できることだけしてやるよ」
「え……」
クツナは自分も靴を履いて、シイカの隣に立った。右手をシイカの額の前に掲げる。
シイカの視界が、青白い光に染まり始めた。繭だ。
「繭は普段から僕たちを包んでいる。見ようとしなければ見えないだけだ。しかし一度見始めたら……それも糸に触れ出したら、本人が教えるつもりのなかった意思や記憶まで、繭使いには分かってしまうことがある。僕がその気になれば、一部の記憶の消去すら可能だ」
「そ……そうなんですか」
シイカは慌てて、恥ずかしい思い出や、思い浮かべてはならないような下世話な知識をシャットアウトしようとした。
「君が今何を考えてるのか、大体分かるが」
「えっ……もう始まってるんですか」
「ただの経験則だよ。いいか、僕は基本的に、今必要な部分にしか触れない。しかしもしアクシデントでプライバシーを覗いてしまったとしても許してくれ」
シイカは頷く。
「お願いします」
「委細承知した。料金はそうだな、僕と働いてくれるなら給料から天引きにしよう」
クツナの指が動き始めた。シイカには何の感覚もない。いや、身体的な感覚はないが、心のどこか、胸の奥が、少しざわめくように感じた。
小さい頃からずっと、細い管を塞ぐように存在していたしこりのありかが、はっきりと感じ取れてくる。
それは消えてしまうわけではなかったが、確かに形を変え始めた。本の少し、丸く、柔らかく変質する。
やがて、シイカを包んでいた光が弱々しく薄れていった。クツナの指が、最後に残った二本の光る糸を結び合わせ、動きを止める。
「とりあえずの応急処置だ。少しはましになったと思うがな」
「なんだか……こころなしか、息がしやすくなったような気がします……不思議な感じ」
「明日、少し教室で勇気を出してみるんだな。これまでとは違うはずだ」
「は、はい。頑張ります」
クツナは少し笑いを浮かべる。
「あんまり頑張りすぎるなよ。副作用が起こる」
「そんなものがあるんですか」
「いや、ものの例えだ。君が学校で、これまでの自分との差にハイになって浮かれまくったりした場合、後から恥ずかしい想いをするんじゃないか。そんなことだよ」
今度ははっきりと笑顔になったクツナが、引き戸を開けてやった。
「あの、アルバイトの件をお断りした場合は、料金の方は……」
「出世払いって知ってるか?」
「聞いたことはあります」
「冗談だよ。ほら、早く出た出た。遅くなるぞ」
「は、はい。あの……」
追い立てられるようにして玄関から出ながら、シイカは振り返った。夕日に照らされた灰色の双眸は、複雑な色の響き合いを見せている。
「ん?」
「ありがとうございました。指、痛かったですよね」
「まあ、多少な」
「学校の前に、家族と今日、何か話をしてみます。絶対に、無駄にしませんから」
シイカはその時、自分がどんな顔をしているのか、当然知らない。特に何の意識もしていなかった。だから、クツナが一瞬ポカンとした理由も分からない。
「へえ」
「な、なんですか」
「そういう笑い方するんだな」
シイカは思わず顔に手をやる。
「笑ってました?」
「ああ。さ、行こうか」
クツナが玄関の戸を閉めて、シイカの前を歩き出す。
「あ、それと料金。ちゃんと払いますから、金額教えてください」
「もう釣りが来たよ。繭使い冥利ってものだ」
「何ですって? こっちに向かって言ってくださいよ」
小走りのシイカがクツナの後を追う。長く伸びたふたつの影が、地面に横たわった。
シイカは、こんな光景を見るのはいつ以来だろうと考える。
少なくともすぐに思い出せるほどには、近い記憶の中にはなかった。
「アル?」
「アルバイトだ。時給はそうだな、二千円でどうだ」
「……変に高くないですか」
「はっきり言って、僕の塾での時給より高いな。だが、一回の拘束時間があまり長くならないと思うんだ。そこそこまとまった額にするためには、それくらいじゃないとな。それに、君の指も痛いし」
「ゆ、指って。あの、まさか私に、……」
「そうだ。繭使いを手伝ってほしい。秘密を守るには、身内になってもらうのが手っ取り早いだろ? もちろん、指が切れるような酷使はさせないし、技術を覚えろとも言わない。主に糸の押さえ役だな」
シイカはしばらく、あっけにとられた。
アルバイトに興味がなかったわけではない。いや、むしろ将来のためにも早いうちにやってみるべきだと思っていた。ただ、人と触れ合うことへの抵抗から、踏み出せなかっただけだったのだから。
「今すぐにとは言わないが、考えておいてほしい。わざわざ呼んで済まなかったが、この仕事は、繭が見える人材じゃないとやりようがないんでね」
「……はい」
近いうちに返事をするということになり、シイカは廊下に出た。玄関で靴を履く。外はもう日が暮れかけているのが、引き戸のすりガラスの向こうに見えた。
「駅まで送る、出たところで待っててくれ。……どうした?」
シイカは、靴を履いて直立したまま、戸に手をかけずに立っていた。振り向かずに言う。
「御格子さん」
「この家、他にも御格子さんがいるからな。クツナと呼んでくれ」
「クツナ、……さん。人間の治療もできるんですよね。それも、心の」
「万能ではないけどな。かなりデリケートだし、治療の程度や効果が外傷に比べて分かりづらいからあまり有り難くないんだが」
シイカは振り向く。色素の薄いクツナの瞳を見つめた。
「私を治してください」
クツナが、すっと真顔になった。
「何をだ?」
「私は、……人と話すことが苦手なんです。いいえ、誰かと人間関係を作ることが怖いんです。理由は分かりません。子供の頃からずっとそうだったから。周りにはいい人がたくさんいます。私にだって友達になれそうな子がクラスにはたくさん。でも、だめなんです。普通の日常の会とか、特に意味もないような軽口も、口にしようとすると体が固まってしまうんです。結局何も言えないで、その場がぎくしゃくして、そんなことを繰り返すうちに、人と話せなくなっていく……」
クツナは少し、相好を崩した。シイカに少しでも話しやすくさせるためだったが、その意思がシイカにも伝わった。今日はずいぶん、人と話している。こんなにも口数を費やしてしゃべるのは、いつ以来だろう。
「私は、ずっと、もしかしたら自分がそういう病気なんじゃないかと思ってました。私以外の人には皆できてることですから。いつか治したいと思ってました。でもこれは病気じゃなくて、私が元々こういう人間ななだけなんだったらどうしようって、すごく怖かった。だから……」
「今日、僕にはごく普通の会話をしてくれていたと思うが。それは、君にとってはいつものことではないんだな?」
シイカは強く首を縦に振った。その勢いで、雫がひとつ落ちた。
「家族とも、話せない……母も弟も、私には何も悪いことなんてしてないのに、どんどん嫌いなところばかりが目に付くようになって……辛いんです、すごく」
「分かった。だが、そんなに軽々に治療はできない」
シイカが顔を上げた。
「そう……ですよね。そんなに、都合よく……」
「泣くな。そうは言ったが、君は、今辛いんだろ? だから、今できることだけしてやるよ」
「え……」
クツナは自分も靴を履いて、シイカの隣に立った。右手をシイカの額の前に掲げる。
シイカの視界が、青白い光に染まり始めた。繭だ。
「繭は普段から僕たちを包んでいる。見ようとしなければ見えないだけだ。しかし一度見始めたら……それも糸に触れ出したら、本人が教えるつもりのなかった意思や記憶まで、繭使いには分かってしまうことがある。僕がその気になれば、一部の記憶の消去すら可能だ」
「そ……そうなんですか」
シイカは慌てて、恥ずかしい思い出や、思い浮かべてはならないような下世話な知識をシャットアウトしようとした。
「君が今何を考えてるのか、大体分かるが」
「えっ……もう始まってるんですか」
「ただの経験則だよ。いいか、僕は基本的に、今必要な部分にしか触れない。しかしもしアクシデントでプライバシーを覗いてしまったとしても許してくれ」
シイカは頷く。
「お願いします」
「委細承知した。料金はそうだな、僕と働いてくれるなら給料から天引きにしよう」
クツナの指が動き始めた。シイカには何の感覚もない。いや、身体的な感覚はないが、心のどこか、胸の奥が、少しざわめくように感じた。
小さい頃からずっと、細い管を塞ぐように存在していたしこりのありかが、はっきりと感じ取れてくる。
それは消えてしまうわけではなかったが、確かに形を変え始めた。本の少し、丸く、柔らかく変質する。
やがて、シイカを包んでいた光が弱々しく薄れていった。クツナの指が、最後に残った二本の光る糸を結び合わせ、動きを止める。
「とりあえずの応急処置だ。少しはましになったと思うがな」
「なんだか……こころなしか、息がしやすくなったような気がします……不思議な感じ」
「明日、少し教室で勇気を出してみるんだな。これまでとは違うはずだ」
「は、はい。頑張ります」
クツナは少し笑いを浮かべる。
「あんまり頑張りすぎるなよ。副作用が起こる」
「そんなものがあるんですか」
「いや、ものの例えだ。君が学校で、これまでの自分との差にハイになって浮かれまくったりした場合、後から恥ずかしい想いをするんじゃないか。そんなことだよ」
今度ははっきりと笑顔になったクツナが、引き戸を開けてやった。
「あの、アルバイトの件をお断りした場合は、料金の方は……」
「出世払いって知ってるか?」
「聞いたことはあります」
「冗談だよ。ほら、早く出た出た。遅くなるぞ」
「は、はい。あの……」
追い立てられるようにして玄関から出ながら、シイカは振り返った。夕日に照らされた灰色の双眸は、複雑な色の響き合いを見せている。
「ん?」
「ありがとうございました。指、痛かったですよね」
「まあ、多少な」
「学校の前に、家族と今日、何か話をしてみます。絶対に、無駄にしませんから」
シイカはその時、自分がどんな顔をしているのか、当然知らない。特に何の意識もしていなかった。だから、クツナが一瞬ポカンとした理由も分からない。
「へえ」
「な、なんですか」
「そういう笑い方するんだな」
シイカは思わず顔に手をやる。
「笑ってました?」
「ああ。さ、行こうか」
クツナが玄関の戸を閉めて、シイカの前を歩き出す。
「あ、それと料金。ちゃんと払いますから、金額教えてください」
「もう釣りが来たよ。繭使い冥利ってものだ」
「何ですって? こっちに向かって言ってくださいよ」
小走りのシイカがクツナの後を追う。長く伸びたふたつの影が、地面に横たわった。
シイカは、こんな光景を見るのはいつ以来だろうと考える。
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