棘を編む繭

クナリ

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第一章 2

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 高校までの最短経路を行けば、電車に乗る時間を含め、家から一時間ほどで到着する。
 シイカは、最も昇降口付近に生徒が増える八時過ぎまで、時間をつぶしてから登校するのが日課になっていた。最初は何となくそんな生活を始めて、気づけばもう半年になる。
 毎日同じ道を使うと気がふさぎそうなのでなるべく違う道をとりたいが、遅刻しない程度の行動範囲で適当に休憩も入れながらということになると、たどれるルートはそう多くなかった。
 この日は、高校がある駅の、ひとつ手前の伊村橋いむらばし駅で降りてみた。定期券があるので、電車賃は問題ない。
 改札を抜けると、高校のある町と同じような街並みが広がっていた。まだ人気のない早朝のアスファルトの上を、シイカはあてもなく歩き出した。
 大通りから、適当な枝道を見つけて入り込む。あまり狭い道や裏路地へ入ると通行人から不審に思われそうだったので、そこそこ幅のある道路を選んでいった。
やがて、それなりに栄えている駅前と違い、ずいぶんとうらぶれた道に出た。車がすれ違えるかどうかという道路の両側を、古い木造家屋が並んで挟み込んでいる。塀が朽ちたり、家自体が傾いているものも多かった。
    
 時計を見ると、六時だった。ずいぶん周りは明るくなってきている。
 シイカがふと前方を見ると、右手に、ひときわ古い家が見えた。道路に面した木の塀は、染みと傷みでぼろぼろだった。
 その家の玄関の引き戸の下に、黒い塊が見えた。ツバメだ。低空飛行していて、壁にでもぶつかったのかもしれない。身動きもせずに横たわっている。
「そういえば、ツバメって死体見るの初めてかな……」
 一人言を言い終わるが早いか、その玄関から人が出てきた。
 若い男性だ。早朝だというのに、パジャマなどではなく、真っ白な和服を着ている。帯まで白い。やや長めの真っ黒な髪が、そのせいでよく映えている。
 背は、一八〇センチはなさそうだが、すらりと高い。落ち着いた物腰から、若くは見えても、学生ではなさそうに思えた。シイカは思わずとっさに、横にあった電柱に身を隠す。
 男性はツバメの死体を、手に持っていた厚手の布でくるみ、家に入って玄関の引き戸を閉めた。
(なんで? 庭とかに、埋葬してあげるのかな)

 ともあれ、男性の姿が家の中に消えたので、シイカは散策を再開し、当の家の前を通り過ぎようとした。その時、この家と隣家との間に、塀に挟まれて、路地のように隙間が空いているのに気づいた。人一人くらいは通れそうだ。古い町だと、ときどきこういうことがある。
 その路地に面して、男性の家の壁に窓がついているのが、低い塀の上から見えた。
 その窓から、……青白い光が、わずかに瞬く。
「え?」
 シイカの口から声が漏れた。
 シイカは目の前の路地に滑り込んだ。左肩が、男性の家の塀にこすれる。人の家をのぞくようなまねはよくない。よくないが、自分の体が止められない。
 普段は、シイカは特別、好奇心が強い方ではない。他人事にわざわざ首を突っ込んでいく趣味もない。しかし、胸がひどくざわつき、足が勝手に歩を運ぶ。まるで、見えない糸で引き寄せられているようだ。
(なんで……? どうして、こんなに気になるの)
 ようやく、窓のすぐ前まできた。少し首を傾けて、中をのぞき込む。
 その部屋は、上下左右が板張りの、八畳ほどの空間だった。中央に厚手の木組でできた作業台があり、その上には先程の布を布団のようにして、ツバメが横たえられている。
 着物姿の男性は、作業台の前に立っていた。そして、見えない弦楽器を指で弾くような動作で、ツバメの体の上でよどみなく手を動かしている。
    
 その細く長い指が躍る空中には、確かに何もない。なのに、男性は集中した顔つきでひたすらに運指する。何かの呪術のように。
 いや。何もないのではない。
 シイカの、凝らした目に、ようやくそれは見えてきた。
 ツバメの体が、青白いもやに包まれている。ガーゼや綿ではなく、もっと柔らかく頼りない、うっすらと色づいた気体が、ツバメの周りでゆらゆらと揺れている。さらによく見ると、もやからは数本の糸が上方に伸びていた。糸の先は、男性の指につままれている。
 細い指はその糸を、折り曲げ、結び、輪を作り、また結んでいる。男性は灰色の目を瞬きすらさせずに、真剣に糸を繰り続けた。
 やがて、もやから伸びていた糸の本数が減っていく。最後の一本をきゅっと結ぶと、男性はそれをツバメの体の上に置いた。もやは少しいびつな楕円形になって、まだ消えずにツバメを包んでいる。
「よし。これで、まあいいな。お前、死んでなくてよかったな」
 初めて、男性が声を出した。低いが、柔らかい響き。どうやらツバメは死体ではなかったらしい。しかし。
(今のは一体なに? 何してたの、あの人?)
 凝った体をほぐすように男性が軽く伸びをしたため、シイカは慌てて窓の正面から顔を避けた。

 同時に、トントンというノックの音と、玄関の方からの声が聞こえた。路地に入ったシイカからは見えないが、この家に来客のようだ。
「おい、クツナ君。起きてるか?」
 部屋の中の男性が、大きめの声で返事をする。
「ええ。田代さんですか? お早うございます、ずいぶん早いですね」
 この家の引き戸が開けられる音がした。
「悪いね、クツナ君。夜遅い君がもう起きてるってのに、どうせクツゲンのやつはまだ寝てるんだろう」
 訪問者の声は低い。おじさんぽいな、とシイカは推量した。
「ご明察です」
 苦笑する、若い方の男性の声。
「実は、うちの隣の家なんだが、飼ってる犬がもう死にそうでな、小学生の娘さんが朝から泣き通しなんだよ。もしクツゲンができるなら、ほんのちょいとでいいから、久しぶりにアレやってもらえねえかと思ってさ。もちろん謝礼は払う」
「そうですか。……正直なところ、無理だと思います。父はもう、全ての指が切れているので」
 こともなげな言い方に、シイカの背中が少し冷えた。指が全部切れている……?
「そうかい、邪魔したね。ちょっとはクツゲンも元気になってくれるといいと思ったんだけどな」
「僕でよければ、うかがいましょうか。とはいえ、その犬が寿命なら、痛み止めくらいのことしかできませんが」
「いや、いいよ。大事な指だしね」
 寂しそうな声音を残し、客は去ったようだった。
 壁の向こうからかすかに、スリッパの足音が近づいてくる。男性が、この部屋に戻ってきたのだ。
「お前、調子悪いようならまた来な」
 ツバメに語り掛けたのであろうそんな声が聞こえるのが早いか、ガラガラと窓が開いた。
「ひゃっ!」
 不意打ちに、シイカの口から悲鳴が上がってしまう。
「え? うわっ!?」
 シイカに気づいた男性の叫びとともに、ツバメが窓を通り抜けて空へと上がっていった。
 シイカと男性は、お互いに向かい合って絶句している。
「す、すみません。私、怪しいものではなくて、ツバメが、なんでだろうって……その」
 なんとかしゃべり出したが、元々シイカは雄弁なたちではない。しどろもどろの弁解――になっているかどうかはともかく――を聞きながら、男性はあっけにとられてまだ固まっている。
「すぐに消えます、許してください……すみません、本当に」
「ああ、いや……それはいいんだが。君は……なんで、ここに?」
「なんでかと言われると……隙間があったので、ちょっと入ってみたくなって……そう、何か光ったかなって、それで」
 自分で言っていて、シイカは猛烈な羞恥心に教われた。語彙も動機も幼稚すぎる。
「いや、なんでっていうのはそういうことじゃなくてだな……待った。今君、なんて言った?」
「いえ、普段は隙間があっても特に入りたいなんて思わないんですけど、なぜか今日は」
「その後の方」
「え? ですから、何か光ったように見えたので」
「何が光ったって?」
「わ、分かりません。ただ、青っぽい小さい、ふわふわした光が見えた……ような」
 男性は、絶句して固まった。見開いた目が少し灰色がかっていて、視線に独特の迫力がある。
 その時、男性の後ろから声が聞こえた。低く静かな、しわがれた響きだった。
「クツナ、何をしている」
「何でもないよ、父さん」
 窓の向こうに現れたのは、壮年の男だった。若い方の男性の父親にしては少し老けすぎているように見えるが。腰も曲がりかけ、老人のようだった。さっきの男性と客人との会話を思い出して、シイカはつい、その両手に目を走らせた。指は、十本ともついている。切れてなどいない。
「お前の教え子にしては大きいな」
「何言ってるんだ、僕が教えてるのは小学生だぞ。この子はどう見ても中学生だろ」
「あ、いえ、高校生です……二年」
シイカが控えめに訂正すると、男二人が気まずそうに咳払いをした。
「そう言われれば、高校っぽい制服だった……失礼した」
「クツナ、上がってもらったらどうだ」
「いや、本当にそういう……それに父さん、この子はな」
「繭が見えとったんだろう。お前の知り合いじゃないのか?」
 父親らしい男は、そう言うと奥へ引っ込んだ。
 その場に残された若い男性が気まずそうに口を開く。
「僕は、御格子クツナです。よろしく」
「は……はい」
「もし時間が大丈夫なら、少しだけ話させてもらえないか。こんな路地と窓じゃなんだから、玄関ででも」
 シイカは特別警戒心が薄い性格ではない。このような邂逅から招かれても、いつもならばすぐに身を翻して去っていただろう。名前を聞いたくらいで、見ず知らずの男を信用できるわけがない。
 しかし、シイカには確信があった。元より家に上がり込む気はないが、たとえそうしたとしても、この人は自分には決して危害は加えない。
 御格子クツナの、穏やかな物腰がそう思わせるのかと思ったが、単に外見からの印象では説明できないような、深い安心感があった。
 ――なぜ……
 ――なぜ私は、こんなに落ち着いているのだろう。
「あの、もしかして私、どこかでお会いしたことがありますか」
 クツナは、つかの間黙った。
 それから微笑んで、柔らかく言った。
「そうかもしれないな。初めて会った気がしない。さあ、玄関にどうぞ」
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