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序章
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鳴島シイカは、自分の十七才の夏休みは、もっとずっと平凡か、それ以下のものになると思っていた。
少なくとも、血まみれの柴犬を抱えて、通学路から少し離れた町を走るようなことがあるとは思っていなかった。
「クツナさん!」
そう叫んで――大声など出すのも、それまで滅多にあることではなかったが――、シイカはさっき自分が出てきたばかりの一軒家に、騒々しく駆け戻る。アルバイト先でもあるその粗末な平屋の木造家屋は、店舗にも事務所にも見えないが、確かにシイカの職場ではあった。
玄関に上がると、奥の方から、真っ白な着物姿の若い男が出てきた。少し長めの髪は漆黒だが、瞳が灰色がかった独特の薄い色をしている。
「鳴島、帰ったんじゃなかったのか。僕は洋服に今着替えようと……その犬は? 事故か?」
「駅へ歩いてたら、私の目の前ではねられたんです、そこの路地で。クツナさん、治してあげてもらえませんか」
「施術室へ運べ」
シイカは傍らの、板張りの八畳間に飛び込み、中央にある木製の作業台に柴犬を乗せた。台の面積は大人が余裕で寝転がれるくらいはある。
一度緩めた帯を絞め直した男が、八畳間に入ってくる。作業台の他には机が置いてあるくらいの殺風景な部屋の中で、男の灰色がかった目が犬を見下ろした。
「首輪がないな。野良犬か」
「すみません。私のアルバイト代から引いてください」
「そんな心配をしてるんじゃない」
男が苦笑した。
「それに、クツナさんさっきまで仕事だったのに、また指を……」
「ケガの程度によっては、応急処置をして病院に連れて行くか。僕だって、獣医みたいにはいかないからな。治癒そのものは、患者――患畜か――の生命力次第だし」
男が、横たえられた柴犬の体の上に手をかざす。すると、青白い光が柔らかく犬の体を包み始めた。まるで幼虫を守る繭のように、光は穏やかに厚みを増していく。
「鳴島こそ、指は平気か? また糸を何本か持ってもらえると助かる」
男の口調には抑揚がないが、生命を見つめる目には温かさがある。
「はい。少し痛いですけど、少しくらい大丈夫です」
「しびれ出したら、すぐに言えよ」
男の指が、光の繭をほぐし始めた。そして、光る糸を五本ほど取り出し、シイカに渡す。
それを受け取ったシイカの指先に、刺すような痛みが走った。指には傷ひとつついていないが、この糸に触れただけで、歯を食い縛るほど強い痛みが走る。
しかし、これから施術のために男が味わう痛みはこんなものではない。そのことを知るシイカは、眉ひとつ動かさずに糸を保持する。
男の指が、繭の内外でせわしなく動き出した。シイカは見ているだけで震えてくる。彼には今、手首から先が剥がれるような激痛が起きているはずだ。
「私、もう何本か持てます」
「いや、このまま行ける。……鳴島、繭の持ち方がうまくなったな。やりやすい。少々の止血ならできるようになったしな」
男の手は、無数の糸を伸ばし、結び、切り離してまた結ぶ。光の繭が見えない普通の人間からは、ありもしない操り人形を繰くっているようにでも見えるだろう。
そうしている間にも犬の出血は止まり、痛々しく開いていた傷が緩やかに治癒の兆候を見せていた。
シイカは注意深く男の手技を見守りながら、頭の片隅で思う。
さっき首輪について触れたのは、本当に、治療費のことを考えていたのではない。
――きっと犬を治した後、この家で飼ってやれるかどうかに思いを巡らせていたのだ、この人は。
少なくとも、血まみれの柴犬を抱えて、通学路から少し離れた町を走るようなことがあるとは思っていなかった。
「クツナさん!」
そう叫んで――大声など出すのも、それまで滅多にあることではなかったが――、シイカはさっき自分が出てきたばかりの一軒家に、騒々しく駆け戻る。アルバイト先でもあるその粗末な平屋の木造家屋は、店舗にも事務所にも見えないが、確かにシイカの職場ではあった。
玄関に上がると、奥の方から、真っ白な着物姿の若い男が出てきた。少し長めの髪は漆黒だが、瞳が灰色がかった独特の薄い色をしている。
「鳴島、帰ったんじゃなかったのか。僕は洋服に今着替えようと……その犬は? 事故か?」
「駅へ歩いてたら、私の目の前ではねられたんです、そこの路地で。クツナさん、治してあげてもらえませんか」
「施術室へ運べ」
シイカは傍らの、板張りの八畳間に飛び込み、中央にある木製の作業台に柴犬を乗せた。台の面積は大人が余裕で寝転がれるくらいはある。
一度緩めた帯を絞め直した男が、八畳間に入ってくる。作業台の他には机が置いてあるくらいの殺風景な部屋の中で、男の灰色がかった目が犬を見下ろした。
「首輪がないな。野良犬か」
「すみません。私のアルバイト代から引いてください」
「そんな心配をしてるんじゃない」
男が苦笑した。
「それに、クツナさんさっきまで仕事だったのに、また指を……」
「ケガの程度によっては、応急処置をして病院に連れて行くか。僕だって、獣医みたいにはいかないからな。治癒そのものは、患者――患畜か――の生命力次第だし」
男が、横たえられた柴犬の体の上に手をかざす。すると、青白い光が柔らかく犬の体を包み始めた。まるで幼虫を守る繭のように、光は穏やかに厚みを増していく。
「鳴島こそ、指は平気か? また糸を何本か持ってもらえると助かる」
男の口調には抑揚がないが、生命を見つめる目には温かさがある。
「はい。少し痛いですけど、少しくらい大丈夫です」
「しびれ出したら、すぐに言えよ」
男の指が、光の繭をほぐし始めた。そして、光る糸を五本ほど取り出し、シイカに渡す。
それを受け取ったシイカの指先に、刺すような痛みが走った。指には傷ひとつついていないが、この糸に触れただけで、歯を食い縛るほど強い痛みが走る。
しかし、これから施術のために男が味わう痛みはこんなものではない。そのことを知るシイカは、眉ひとつ動かさずに糸を保持する。
男の指が、繭の内外でせわしなく動き出した。シイカは見ているだけで震えてくる。彼には今、手首から先が剥がれるような激痛が起きているはずだ。
「私、もう何本か持てます」
「いや、このまま行ける。……鳴島、繭の持ち方がうまくなったな。やりやすい。少々の止血ならできるようになったしな」
男の手は、無数の糸を伸ばし、結び、切り離してまた結ぶ。光の繭が見えない普通の人間からは、ありもしない操り人形を繰くっているようにでも見えるだろう。
そうしている間にも犬の出血は止まり、痛々しく開いていた傷が緩やかに治癒の兆候を見せていた。
シイカは注意深く男の手技を見守りながら、頭の片隅で思う。
さっき首輪について触れたのは、本当に、治療費のことを考えていたのではない。
――きっと犬を治した後、この家で飼ってやれるかどうかに思いを巡らせていたのだ、この人は。
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