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第40話 第八章 生死と狂気の交差点
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変わり果てた顔つきの斯波方先輩が、歯ぎしりを鳴らす口元から夜煌蟲をぼとぼととこぼしながら、ゆっくりと私に近づいて来た。
斯波方先輩は素手だった。なら私にも対抗手段は、ある。
でも、……できない。
死にたくはない。だからと言って、殺せはしない。
斯波方先輩の体が僅かに揺れた。そして、私と先輩の間にあった事務椅子が真横に吹っ飛んだ。先輩が蹴り飛ばしたのだ、と思った時には、うっすらと緑色に光る体が私に手の届く距離に来ていた。
この人は、素手でも私を殺せる。今のような蹴りを受ければ、私の足なんて簡単にへし折れてしまう。蹴りじゃなく、胸や顔を拳で突かれたとしても、私は動けなくなってしまうだろう。それから、あの大きな手で私の首でも締めればそれでおしまいだ。
一発や二発殴られたってすぐに死ぬわけじゃないなどと、楽観的にはとてもなれない。指一本でも触れられたら、それが最後だと思うくらいでちょうどいい。
私は足の痛みに歯を食いしばりながら、右後ろへ跳ねた。そのまま事務机に沿って数歩走り、斯波方先輩と私の間に、八台ほどで島状に固まった事務机を挟むようにする。でもきっと、大した時間稼ぎにもならない。どうすればいい。どうすれば――……
錯乱しかけた私の正面で、机の島の向こうの斯波方先輩が鋭く動いた。机に載っていたパソコンのモニターが先輩の拳に激しく叩かれ、砕けた破片が弾丸のように飛んで来る。
私は思わず、悲鳴を上げて目を閉じた。たたらを踏み、尻もちをつく。
いけない。
立ち上がろうとした時、机を飛び越えて来た斯波方先輩が着地した。その体が独楽のように翻ったかと思うと、私の左腕に、車に撥ねられたような衝撃が走った。
蹴られたのだ、と分かった時には、私は床に転倒していた。
いよいよパニックに陥りながら、私は痛む左腕を床について、慌てて体を起こした。
痛む、左腕を床について。
痛む、――くらいで済んでいる、左腕で。
痛いけれど、ちゃんと動く。折れてもいない、左腕で。
ほんの一筋の冷静さが、錯乱しかけていた私の頭に差し込まれた。
触れられたら終わり、ではなかったのか? 触れるどころか思い切り蹴られて、なぜか私は、ぴんぴんしている。
私が完全に立ち上がると、斯波方先輩は、私とほんの三歩程度の距離で立ち止まった。その右手が、私の方に差し出される。
筋張った手は、私を殴りもしなければ首を絞めもせず、私の目の前で、手のひらを上に向けてぴたりと動きを止めた。
異様な形相の先輩の顔は、見るに堪えなかったけど、それでも思わずその目を覗き込んだ。
そして私は、言葉も、表情も、夜煌蟲も通さずに、斯波方先輩の思考を理解した。
止めなければならない。でも、声も出ず、体も動かない。
先輩は左手で私の肩を優しくつかみ、伸ばしていた右手を私の腰へ回して、スカートの後ろに差していた包丁を抜き取った。殺人タイプに感染していた女生徒が持っていたものだ。私に残されていた唯一の、蟲と、その感染者への対抗手段。
斯波方先輩は無言で――今の状態で、話ができるのかどうかも分からないけど――私を脇へそっと押しのけると、柚子生先輩へ向かって歩いて行く。
柚子生先輩が、顔に疑問符を浮かべた。この表情も、夜煌蟲が作っているのだろうか。
私は震える喉に力を入れて、やっとの思いで、
「し、ばかた、先輩。駄目、です」
何とか、それだけ言う。
斯波方先輩は素手だった。なら私にも対抗手段は、ある。
でも、……できない。
死にたくはない。だからと言って、殺せはしない。
斯波方先輩の体が僅かに揺れた。そして、私と先輩の間にあった事務椅子が真横に吹っ飛んだ。先輩が蹴り飛ばしたのだ、と思った時には、うっすらと緑色に光る体が私に手の届く距離に来ていた。
この人は、素手でも私を殺せる。今のような蹴りを受ければ、私の足なんて簡単にへし折れてしまう。蹴りじゃなく、胸や顔を拳で突かれたとしても、私は動けなくなってしまうだろう。それから、あの大きな手で私の首でも締めればそれでおしまいだ。
一発や二発殴られたってすぐに死ぬわけじゃないなどと、楽観的にはとてもなれない。指一本でも触れられたら、それが最後だと思うくらいでちょうどいい。
私は足の痛みに歯を食いしばりながら、右後ろへ跳ねた。そのまま事務机に沿って数歩走り、斯波方先輩と私の間に、八台ほどで島状に固まった事務机を挟むようにする。でもきっと、大した時間稼ぎにもならない。どうすればいい。どうすれば――……
錯乱しかけた私の正面で、机の島の向こうの斯波方先輩が鋭く動いた。机に載っていたパソコンのモニターが先輩の拳に激しく叩かれ、砕けた破片が弾丸のように飛んで来る。
私は思わず、悲鳴を上げて目を閉じた。たたらを踏み、尻もちをつく。
いけない。
立ち上がろうとした時、机を飛び越えて来た斯波方先輩が着地した。その体が独楽のように翻ったかと思うと、私の左腕に、車に撥ねられたような衝撃が走った。
蹴られたのだ、と分かった時には、私は床に転倒していた。
いよいよパニックに陥りながら、私は痛む左腕を床について、慌てて体を起こした。
痛む、左腕を床について。
痛む、――くらいで済んでいる、左腕で。
痛いけれど、ちゃんと動く。折れてもいない、左腕で。
ほんの一筋の冷静さが、錯乱しかけていた私の頭に差し込まれた。
触れられたら終わり、ではなかったのか? 触れるどころか思い切り蹴られて、なぜか私は、ぴんぴんしている。
私が完全に立ち上がると、斯波方先輩は、私とほんの三歩程度の距離で立ち止まった。その右手が、私の方に差し出される。
筋張った手は、私を殴りもしなければ首を絞めもせず、私の目の前で、手のひらを上に向けてぴたりと動きを止めた。
異様な形相の先輩の顔は、見るに堪えなかったけど、それでも思わずその目を覗き込んだ。
そして私は、言葉も、表情も、夜煌蟲も通さずに、斯波方先輩の思考を理解した。
止めなければならない。でも、声も出ず、体も動かない。
先輩は左手で私の肩を優しくつかみ、伸ばしていた右手を私の腰へ回して、スカートの後ろに差していた包丁を抜き取った。殺人タイプに感染していた女生徒が持っていたものだ。私に残されていた唯一の、蟲と、その感染者への対抗手段。
斯波方先輩は無言で――今の状態で、話ができるのかどうかも分からないけど――私を脇へそっと押しのけると、柚子生先輩へ向かって歩いて行く。
柚子生先輩が、顔に疑問符を浮かべた。この表情も、夜煌蟲が作っているのだろうか。
私は震える喉に力を入れて、やっとの思いで、
「し、ばかた、先輩。駄目、です」
何とか、それだけ言う。
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