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第27話 第七章 シバカタロウ 1
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小さい頃から、シバカタさんの家の夫婦喧嘩と言えば、近所でも有名だった。
こんなに喧嘩ばかりしてなぜ離婚しないのだろう、といつも不思議に思い、居心地の悪い家から早く出て行くことばかり考えていた。体だけは頑健な方がいいだろうと空手を習ったが、高校に進学すると、それもやめてアルバイトを始めた。
同級生の殿音に、人数合わせのためにどうしてもと泣きつかれて文芸部になんて入ったが、アルバイトの無い日に部室で適当にくっちゃべる以上のことをするつもりもなく、結局一年に一冊も本など開かなかった。
アルバイト先に選んだのは、自分の家から目と鼻の先の本屋だった。文芸部になんぞ入ったのは、今思えばその影響もあったのかもしれない。
本を扱うというイメージとは裏腹に、本屋というのは体力仕事がやたら多かったので、意外に性に合っていた。
そこの店長の娘が、よく日曜日に裏方仕事を手伝っていた。他に、店長以外では男の正社員が二人いたが、皆やる気があって気持ちのいい職場だった。
店長の娘は綾花といい、その時二十六歳で、本業は中学校の教師らしかった。俺はちょうど、彼女の生徒達と同じくらいの年恰好だったこともあって、すぐに綾花と打ち解けた。
綾花は、黒く長い髪が印象的な、大人しそうな美人だった。だが、他の男二人は全く綾花を口説こうとしなかった。俺はそれを、大人が職場でつける分別というものだろうと、勝手に推量していた。
数週間も経つと、綾花の方から俺に何くれとちょっかいを出してくるようになった。年上の美人に遊ばれるのは、正直悪い気はしなかった。くすぐったいような、気恥ずかしいような、そんな人間関係は初めてだった。。
綾花はよく、不必要に体を俺に接触させて来た。指先で俺の脇腹をつついたり、頭をなでたり、運んでいる荷物を受け渡す時に指先をつままれたりといった他愛も無いことばかりだったけど、俺の方は結構ドキドキした。綾化はそんな俺を見て、意地悪そうに笑っていた。他の人間にそんなことをされたら不愉快で仕方なかったろうに、綾花とだけは、そんな戯れが楽しかった。
綾花は俺に気があるのだろうか、と思うことも何度かあったが、女慣れしていない思春期の小僧の勘違いだと、自分に言い聞かせた。
ある日曜日、昼休みに店の裏へ行ったら、綾花がひどく辛そうな顔で、店の壁にもたれていた。
その表情を見ていたら、心臓が早鐘を打った。他人の顔つきひとつで、こんなに心が乱れたことは無い。
「綾花さん」
「あ、……シバ君。やだなあ、変な顔してたでしょ、私」
「具合悪いんすか? 今日は人手も足りてるし、店はもういいですよ。あんまり副業しちゃまずいでしょ」
「いっちょ前に言うようになったねえ。お給料なんか、お父さんからもらってませんよーだ」
彼女は仕事に戻ろうとしたが、俺は店長に相談して、綾花には帰ってもらった。
その日はアルバイトが終わった後にゲームセンターへ寄ったので、帰りが夜の九時近くなってしまった。裏道を通って家へ帰ろうとしていたら、暗がりから聞き覚えのある声がした。
「もう、あんなメールしないで。ううん、連絡して来ないで下さい」
裏通りから更にもう一本入った、物陰からだ。その声を、俺が聴き逃すわけが無かった。少し迷ったが、声をかける。
「綾花さんすか。こんなとこで、暗いし危ないですよ」
暗がりから、息を飲む気配が、二人分伝わって来た。
僅かな街灯の明かりが、綾花と、もう一人の男の姿をおぼろげに浮かび上がらせた。これといった特徴の無い、中年然とした体つきの、冴えなさそうな男だった。
「シバ君……? シバ君なの?」
「隣にいるの、友達っすか?」
「違うよ、……違う。もう、帰るの。シバ君、そこまで一緒に帰ろう」
綾花さんは、小走りで俺の方に来た。そこへ、後ろから男が告げる。
「綾花、待て」
けれど綾花さんは首をぶんぶん横に振り、俺の腕にしがみついた。
「なあ、結婚しよう! メールで言った通りだ、もう準備は進んでる」
ぎし、と俺の体に触れている彼女の体が強張った。
「嘘、……」
「もう疑うな。全て上手く行く。だから――」
綾花は顔を伏せながら、背中を向けたまま男に叫んだ。
「あなたが最後に私に何て言ったか、……覚えてるの?」
「僕ももうこの歳だ、子供が欲しかったんだ。でも、君と離れてみて分かった。君に、僕の家族になって欲しい」
その言葉を聞いて、綾花が弾かれたように顔を上げた。瞳が、小刻みに震えている。綾花が、揺れている。
「綾花さん。何の話だか知らねえけど、今決めねえ方が良いんじゃねえの」
「ううん、……いいの。何度も、何度も間違えて来たから、もういいのよ。帰ろう」
そして綾花は男の方へ振り返り、
「あんまり、馬鹿にしないで。さよなら。今度こそ、本当に」
と言って、俺の手を取って歩き出した。
「おい――」
男が、声だけで追いかけて来た。
「おい、綾花。随分若い男だな。でもいくら種が若くったってな、お前じゃ駄目だって分かってるだろう」
綾花が、顔色を失って振り向いた。
「や、め……」
「なあ君、知ってるのか。その女は、子宮が無いんだ。二十歳そこそこで、癌と一緒に取っ払ったんだよ」
頭に血が上り、男の方へ駆け出そうとする俺を、綾花が腕をつかんで止めた。男は、悲鳴を上げて逃げて行った。
こんなに喧嘩ばかりしてなぜ離婚しないのだろう、といつも不思議に思い、居心地の悪い家から早く出て行くことばかり考えていた。体だけは頑健な方がいいだろうと空手を習ったが、高校に進学すると、それもやめてアルバイトを始めた。
同級生の殿音に、人数合わせのためにどうしてもと泣きつかれて文芸部になんて入ったが、アルバイトの無い日に部室で適当にくっちゃべる以上のことをするつもりもなく、結局一年に一冊も本など開かなかった。
アルバイト先に選んだのは、自分の家から目と鼻の先の本屋だった。文芸部になんぞ入ったのは、今思えばその影響もあったのかもしれない。
本を扱うというイメージとは裏腹に、本屋というのは体力仕事がやたら多かったので、意外に性に合っていた。
そこの店長の娘が、よく日曜日に裏方仕事を手伝っていた。他に、店長以外では男の正社員が二人いたが、皆やる気があって気持ちのいい職場だった。
店長の娘は綾花といい、その時二十六歳で、本業は中学校の教師らしかった。俺はちょうど、彼女の生徒達と同じくらいの年恰好だったこともあって、すぐに綾花と打ち解けた。
綾花は、黒く長い髪が印象的な、大人しそうな美人だった。だが、他の男二人は全く綾花を口説こうとしなかった。俺はそれを、大人が職場でつける分別というものだろうと、勝手に推量していた。
数週間も経つと、綾花の方から俺に何くれとちょっかいを出してくるようになった。年上の美人に遊ばれるのは、正直悪い気はしなかった。くすぐったいような、気恥ずかしいような、そんな人間関係は初めてだった。。
綾花はよく、不必要に体を俺に接触させて来た。指先で俺の脇腹をつついたり、頭をなでたり、運んでいる荷物を受け渡す時に指先をつままれたりといった他愛も無いことばかりだったけど、俺の方は結構ドキドキした。綾化はそんな俺を見て、意地悪そうに笑っていた。他の人間にそんなことをされたら不愉快で仕方なかったろうに、綾花とだけは、そんな戯れが楽しかった。
綾花は俺に気があるのだろうか、と思うことも何度かあったが、女慣れしていない思春期の小僧の勘違いだと、自分に言い聞かせた。
ある日曜日、昼休みに店の裏へ行ったら、綾花がひどく辛そうな顔で、店の壁にもたれていた。
その表情を見ていたら、心臓が早鐘を打った。他人の顔つきひとつで、こんなに心が乱れたことは無い。
「綾花さん」
「あ、……シバ君。やだなあ、変な顔してたでしょ、私」
「具合悪いんすか? 今日は人手も足りてるし、店はもういいですよ。あんまり副業しちゃまずいでしょ」
「いっちょ前に言うようになったねえ。お給料なんか、お父さんからもらってませんよーだ」
彼女は仕事に戻ろうとしたが、俺は店長に相談して、綾花には帰ってもらった。
その日はアルバイトが終わった後にゲームセンターへ寄ったので、帰りが夜の九時近くなってしまった。裏道を通って家へ帰ろうとしていたら、暗がりから聞き覚えのある声がした。
「もう、あんなメールしないで。ううん、連絡して来ないで下さい」
裏通りから更にもう一本入った、物陰からだ。その声を、俺が聴き逃すわけが無かった。少し迷ったが、声をかける。
「綾花さんすか。こんなとこで、暗いし危ないですよ」
暗がりから、息を飲む気配が、二人分伝わって来た。
僅かな街灯の明かりが、綾花と、もう一人の男の姿をおぼろげに浮かび上がらせた。これといった特徴の無い、中年然とした体つきの、冴えなさそうな男だった。
「シバ君……? シバ君なの?」
「隣にいるの、友達っすか?」
「違うよ、……違う。もう、帰るの。シバ君、そこまで一緒に帰ろう」
綾花さんは、小走りで俺の方に来た。そこへ、後ろから男が告げる。
「綾花、待て」
けれど綾花さんは首をぶんぶん横に振り、俺の腕にしがみついた。
「なあ、結婚しよう! メールで言った通りだ、もう準備は進んでる」
ぎし、と俺の体に触れている彼女の体が強張った。
「嘘、……」
「もう疑うな。全て上手く行く。だから――」
綾花は顔を伏せながら、背中を向けたまま男に叫んだ。
「あなたが最後に私に何て言ったか、……覚えてるの?」
「僕ももうこの歳だ、子供が欲しかったんだ。でも、君と離れてみて分かった。君に、僕の家族になって欲しい」
その言葉を聞いて、綾花が弾かれたように顔を上げた。瞳が、小刻みに震えている。綾花が、揺れている。
「綾花さん。何の話だか知らねえけど、今決めねえ方が良いんじゃねえの」
「ううん、……いいの。何度も、何度も間違えて来たから、もういいのよ。帰ろう」
そして綾花は男の方へ振り返り、
「あんまり、馬鹿にしないで。さよなら。今度こそ、本当に」
と言って、俺の手を取って歩き出した。
「おい――」
男が、声だけで追いかけて来た。
「おい、綾花。随分若い男だな。でもいくら種が若くったってな、お前じゃ駄目だって分かってるだろう」
綾花が、顔色を失って振り向いた。
「や、め……」
「なあ君、知ってるのか。その女は、子宮が無いんだ。二十歳そこそこで、癌と一緒に取っ払ったんだよ」
頭に血が上り、男の方へ駆け出そうとする俺を、綾花が腕をつかんで止めた。男は、悲鳴を上げて逃げて行った。
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