16 / 51
第16話 第五章 後遺症
しおりを挟む
電気が消えたままの教室の中で、斯波方先輩が椅子に逆向きに座り、背もたれに肘を乗せた。月が、その片頬を照らしている。外国の彫刻のようなフォルムだった。
「時森、お前大丈夫か」
「ヒビとか入ってるわけじゃないみたいです。良くなって来ました」
「膝だけじゃねえよ。部室棟で、蟲にくっつかれただろ。妙な気分にならなかったか? 変なもんが見えたとか」
私も椅子に座って、思い出す。変なもの。見た。おかしな映像。
「そう言えば、不思議な景色が見えました。知ってるような、そうでないような。一瞬で、パパパっとですけど」
ただその割には、妙に鮮やかにその映像を覚えている。恐ろしく現実感に富み、まるで自分がそこにいて体験したような生々しさがあった。思い出しただけで、何となく全身が粟立つ。
「もう何とも無いんだな?」
「はい」
先輩は安堵のため息をつく。
「お前は知らないみたいだけどな。それは、その夜煌蟲の記憶だ。正確に言うと、夜煌蟲に感染して死んだ奴の記憶だな。情報が、蟲の中に記録されて残り続けるらしいぜ。お前がもう少しあのままだったら、もっとえげつないもんを見たろうよ。もしかしたら、そいつらが死んだ瞬間もな。感染者を自殺に追い立てる方法のひとつらしい」
そんな話は、初めて聞いた。
「やっぱり中には、自殺の衝動に強力な精神力で耐えようとする奴がいるんだと。まあ、そのままでも結局は時間の問題らしいけどな。だが蟲は手っ取り早く死なせるために、これまでに蓄えた、自殺者の死に至るまでの記憶を総動員して追体験させる。そうするとじきに思っちまうんだろうな……もう楽になりたい、死にたいって。蟲は粒になっていくらでも分かれるし、他と合流もする。情報はどんどん広がって、世界中の蟲に共有されて行く。日本は島国だからまだましだが、ヨーロッパじゃ隣近所の外国人の死に様を見る奴も少なくないっていうからな」
「詳しい、んですね」
先輩はあきれ顔の半眼になり、
「こんなことも知らねえ奴の方が今時珍しいぞ。それぐらい、学校の端末でも調べられるしよ」
「必要最低限のことだけ、知っていればいいかと……触れば死ぬって」
「本当に最低限だなおい。蟲どもは他人と自分のトラウマも根こそぎ掘り起こして、そいつもごく短時間に繰り返し繰り返し頭ん中で再生されるんだとよ。俺達の脳味噌は、それを全部エラーせずに認識するってんだから、たまんねえな。て言うかこれは結構有名だぞ、蟲どもが人間に自殺させる仕組みの基本だからな」
「そう、なんですか」
私は、自分のトラウマらしき映像は見なかった。私にはこれと言って、特別死にたくなるほど辛い思い出も無いということだろうか。何だか、自分が馬鹿みたいに思えた。
「俺も前にデカ目の蟲に触っちまった時、身を持って知ったけどな、えぐいぜ。さっきのお前のは軽くて良かったよ」
私は自分の無知が、少し恥ずかしくなった。この世で、蟲への予防法も対処法も知る気が無いのは、生きる意欲に乏しい自分だけなのかもしれないと思った。
「生きてるの、あんまり面白くねえか」
見透かされたような言葉に、驚く。柚子生先輩にも同じようなことを言われた。教室ではあんなに存在感を消せる私が、この人達の目には際立って奇異に見えてしまうらしいのは、なぜなんだろう。
斯波方先輩は、窓の外の校庭を埋める蟲の大群に目をやり、
「ぞっとすることとか――あんな風にな――、嫌なことも山ほどあるけど、以外と良いもんだぜ、生きてんのも。俺は、少なくとも寿命までは死にたくねえ」
と低く呟いた。
寿命。
私が寿命まで生きて、それが何になるのだろう。
「夜煌蟲に対してな、ある程度耐性を持ってる人間てのもいるらしい。個人差があって、完全に蟲を無力化できた例はまだ無いらしいけどな。あんなでかい蟲に触ってその程度で済んでるなら、お前もそれなりの耐性があったんだろ。人によっちゃ、マッチ箱くらいの蟲に触れただけでアウトの奴もいるんだしよ。自分の体が割と死ににくくできてるってのは、……有難いことだぜ」
先輩はそこまで言って、うつむいた。
「時森、お前大丈夫か」
「ヒビとか入ってるわけじゃないみたいです。良くなって来ました」
「膝だけじゃねえよ。部室棟で、蟲にくっつかれただろ。妙な気分にならなかったか? 変なもんが見えたとか」
私も椅子に座って、思い出す。変なもの。見た。おかしな映像。
「そう言えば、不思議な景色が見えました。知ってるような、そうでないような。一瞬で、パパパっとですけど」
ただその割には、妙に鮮やかにその映像を覚えている。恐ろしく現実感に富み、まるで自分がそこにいて体験したような生々しさがあった。思い出しただけで、何となく全身が粟立つ。
「もう何とも無いんだな?」
「はい」
先輩は安堵のため息をつく。
「お前は知らないみたいだけどな。それは、その夜煌蟲の記憶だ。正確に言うと、夜煌蟲に感染して死んだ奴の記憶だな。情報が、蟲の中に記録されて残り続けるらしいぜ。お前がもう少しあのままだったら、もっとえげつないもんを見たろうよ。もしかしたら、そいつらが死んだ瞬間もな。感染者を自殺に追い立てる方法のひとつらしい」
そんな話は、初めて聞いた。
「やっぱり中には、自殺の衝動に強力な精神力で耐えようとする奴がいるんだと。まあ、そのままでも結局は時間の問題らしいけどな。だが蟲は手っ取り早く死なせるために、これまでに蓄えた、自殺者の死に至るまでの記憶を総動員して追体験させる。そうするとじきに思っちまうんだろうな……もう楽になりたい、死にたいって。蟲は粒になっていくらでも分かれるし、他と合流もする。情報はどんどん広がって、世界中の蟲に共有されて行く。日本は島国だからまだましだが、ヨーロッパじゃ隣近所の外国人の死に様を見る奴も少なくないっていうからな」
「詳しい、んですね」
先輩はあきれ顔の半眼になり、
「こんなことも知らねえ奴の方が今時珍しいぞ。それぐらい、学校の端末でも調べられるしよ」
「必要最低限のことだけ、知っていればいいかと……触れば死ぬって」
「本当に最低限だなおい。蟲どもは他人と自分のトラウマも根こそぎ掘り起こして、そいつもごく短時間に繰り返し繰り返し頭ん中で再生されるんだとよ。俺達の脳味噌は、それを全部エラーせずに認識するってんだから、たまんねえな。て言うかこれは結構有名だぞ、蟲どもが人間に自殺させる仕組みの基本だからな」
「そう、なんですか」
私は、自分のトラウマらしき映像は見なかった。私にはこれと言って、特別死にたくなるほど辛い思い出も無いということだろうか。何だか、自分が馬鹿みたいに思えた。
「俺も前にデカ目の蟲に触っちまった時、身を持って知ったけどな、えぐいぜ。さっきのお前のは軽くて良かったよ」
私は自分の無知が、少し恥ずかしくなった。この世で、蟲への予防法も対処法も知る気が無いのは、生きる意欲に乏しい自分だけなのかもしれないと思った。
「生きてるの、あんまり面白くねえか」
見透かされたような言葉に、驚く。柚子生先輩にも同じようなことを言われた。教室ではあんなに存在感を消せる私が、この人達の目には際立って奇異に見えてしまうらしいのは、なぜなんだろう。
斯波方先輩は、窓の外の校庭を埋める蟲の大群に目をやり、
「ぞっとすることとか――あんな風にな――、嫌なことも山ほどあるけど、以外と良いもんだぜ、生きてんのも。俺は、少なくとも寿命までは死にたくねえ」
と低く呟いた。
寿命。
私が寿命まで生きて、それが何になるのだろう。
「夜煌蟲に対してな、ある程度耐性を持ってる人間てのもいるらしい。個人差があって、完全に蟲を無力化できた例はまだ無いらしいけどな。あんなでかい蟲に触ってその程度で済んでるなら、お前もそれなりの耐性があったんだろ。人によっちゃ、マッチ箱くらいの蟲に触れただけでアウトの奴もいるんだしよ。自分の体が割と死ににくくできてるってのは、……有難いことだぜ」
先輩はそこまで言って、うつむいた。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
ヒナタとツクル~大杉の呪い事件簿~
夜光虫
ホラー
仲の良い双子姉弟、陽向(ヒナタ)と月琉(ツクル)は高校一年生。
陽向は、ちょっぴりおバカで怖がりだけど元気いっぱいで愛嬌のある女の子。自覚がないだけで実は霊感も秘めている。
月琉は、成績優秀スポーツ万能、冷静沈着な眼鏡男子。眼鏡を外すととんでもないイケメンであるのだが、実は重度オタクな残念系イケメン男子。
そんな二人は夏休みを利用して、田舎にある祖母(ばっちゃ)の家に四年ぶりに遊びに行くことになった。
ばっちゃの住む――大杉集落。そこには、地元民が大杉様と呼んで親しむ千年杉を祭る風習がある。長閑で素晴らしい鄙村である。
今回も楽しい旅行になるだろうと楽しみにしていた二人だが、道中、バスの運転手から大杉集落にまつわる不穏な噂を耳にすることになる。
曰く、近年の大杉集落では大杉様の呪いとも解される怪事件が多発しているのだとか。そして去年には女の子も亡くなってしまったのだという。
バスの運転手の冗談めかした言葉に一度はただの怪談話だと済ませた二人だが、滞在中、怪事件は嘘ではないのだと気づくことになる。
そして二人は事件の真相に迫っていくことになる。
感染した世界で~Second of Life's~
霧雨羽加賀
ホラー
世界は半ば終わりをつげ、希望という言葉がこの世からなくなりつつある世界で、いまだ希望を持ち続け戦っている人間たちがいた。
物資は底をつき、感染者のはびこる世の中、しかし抵抗はやめない。
それの彼、彼女らによる、感染した世界で~終わりの始まり~から一年がたった物語......
最終死発電車
真霜ナオ
ホラー
バイト帰りの大学生・清瀬蒼真は、いつものように終電へと乗り込む。
直後、車体に大きな衝撃が走り、車内の様子は一変していた。
外に出ようとした乗客の一人は身体が溶け出し、おぞましい化け物まで現れる。
生き残るためには、先頭車両を目指すしかないと知る。
「第6回ホラー・ミステリー小説大賞」奨励賞をいただきました!
紺青の鬼
砂詠 飛来
ホラー
専門学校の卒業制作として執筆したものです。
千葉県のとある地域に言い伝えられている民話・伝承を砂詠イズムで書きました。
全3編、連作になっています。
江戸時代から現代までを大まかに書いていて、ちょっとややこしいのですがみなさん頑張ってついて来てください。
幾年も前の作品をほぼそのまま載せるので「なにこれ稚拙な文め」となると思いますが、砂詠もそう思ったのでその感覚は正しいです。
この作品を執筆していたとある秋の夜、原因不明の高熱にうなされ胃液を吐きまくるという現象に苛まれました。しぬかと思いましたが、いまではもう笑い話です。よかったいのちがあって。
其のいち・青鬼の井戸、生き肝の眼薬
──慕い合う気持ちは、歪み、いつしか井戸のなかへ消える。
その村には一軒の豪農と古い井戸があった。目の見えない老婆を救うためには、子どもの生き肝を喰わねばならぬという。怪しげな僧と女の童の思惑とは‥‥。
其のに・青鬼の面、鬼堂の大杉
──許されぬ欲望に身を任せた者は、孤独に苛まれ後悔さえ無駄になる。
その年頃の娘と青年は、決して結ばれてはならない。しかし、互いの懸想に気がついたときには、すでにすべてが遅かった。娘に宿った新たな命によって狂わされた運命に‥‥。
其のさん・青鬼の眼、耳切りの坂
──抗うことのできぬ輪廻は、ただ空回りしただけにすぎなかった。
その眼科医のもとをふいに訪れた患者が、思わぬ過去を携えてきた。自身の出生の秘密が解き明かされる。残酷さを刻み続けてきただけの時が、いまここでつながろうとは‥‥。
【全64話完結済】彼女ノ怪異談ハ不気味ナ野薔薇ヲ鳴カセルPrologue
野花マリオ
ホラー
石山県野薔薇市に住む彼女達は新たなホラーを広めようと仲間を増やしてそこで怪異談を語る。
前作から20年前の200X年の舞台となってます。
※この作品はフィクションです。実在する人物、事件、団体、企業、名称などは一切関係ありません。
完結しました。
表紙イラストは生成AI
ワールドミキシング
天野ハザマ
ホラー
空想好きの少年「遠竹瑞貴」はある日、ダストワールドと呼ばれる別の世界に迷い込んだ。
此処ではない世界を想像していた瑞貴が出会ったのは、赤マントを名乗る少女。
そして、二つの世界を繋ぎ混ぜ合わせる力の目覚めだった……。
【表紙・挿絵は「こころ」様に描いていただいております。ありがとうございます!】
甘いマスクは、イチゴジャムがお好き
猫宮乾
ホラー
人間の顔面にはり付いて、その者に成り代わる〝マスク〟という存在を、見つけて排除するのが仕事の特殊捜査局の、梓藤冬親の日常です。※サクサク人が死にます。【完結済】
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる